建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

48回目 この世は幻想か?

48回目 この世は幻想か?
    -万物はゆらいでいる-

<これは幻想であって欲しい!・・>

 平成27年9月18日、仕事をしながら集団的自衛権の国会審議をインターネット中継で見ていた。(正確に言うと「聞いていた」)まるで悪夢のようでしたね。これは幻想であって欲しいと思った。
 現実にはつじつまが合わないことだらけ。不条理にあふれている。そんな時、幻想願望が生まれるのでしょうか?そのせいか、「幻想」について語る人はたくさんおられます。


 社会は幻想だ、というのは、なんとなくわかる。社会制度は、歴史的ななりゆきで成立したものだし、いろんな仮定や取決めに基づいている。従って吉本隆明「国家は共同幻想である」というのは、そうだろうなと思います。
 あるいは、心理学者である岸田秀「本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である」として「唯幻論」を解くのも、なんとなくわかります。よりどころとなる現実に頼らねば、脳は機能を維持できないだろうと思います。

<ホログラフィック原理>

 では、今度は物理学者の最先端の仮説ですがどう思いますか?宇宙が時間軸を持った三次元空間であるというのは幻想である。我々が存在すると思っている三次元空間は、宇宙の地平面における二次元情報が、投影された像にすぎない。」これをホログラフィック理論といいます。
 ここまでいくと、理解の範疇をはるかに超えています。では目の前に現に存在する現実はなんなんだ!と思うでしょう。でも理論的に導かれる可能性のひとつなのです。まあ、この理論には、深入りしませんし、できる能力もありません。もうすこしわかりやすいところで、我々がそこに確固として存在していると思っている実体に少し疑問がわくようなお話をいたします。

<物として認識するということ>

 私たちが個体と認識しているものはまず「見える」必要があります。でもあらゆる物質を構成している原子は、中身はほとんど真空です。原子核ソフトボールくらいの大きさとすると、電子は1.5Km離れたところに存在する。その程度にスカスカです。ではなぜモノが見えるのかというと、光を反射するからですね。光の波長は原子の数千倍ある。光は原子の中を通過できなくて、反射されるのです。
 ということは、我々の視覚的な認識は「光」の性質に依存していということ。もし光が原子の中を通過できたなら、世の中は、もやもやとした、不定型な、半透明のお化けのように見えるのでしょうね?
 さらに言えば、先ほど「真空」と表現しましたが、これは正確には「無」ではなくて、素粒子は飛びかっている。「質量」の起源といわれているヒッグス粒子は、空間に充満しているはず。もし粒子をそのまま見ることができたなら、それこそ粒子の流れこそが現実の姿です。個体の境界は明確ではなく、粒子の密度の高い部分が個体だというふうに見えるはずです。

<「ゆらぎ」が宇宙の根源である>

 インフレーション理論を唱えた佐藤勝彦によれば、そもそも宇宙の始まりは、真空状態におけるエネルギー密度の「ゆらぎ」だと考えられています。その結果ビッグバンが起こった。また、その直後の粒子密度の非均質性により、銀河や星が生じと言われています。わずかな密度の「ゆらぎ」が、物体を形成し、生命を誕生させるまでに至ったわけです。
 量子力学の(一見非常識な)常識では、そもそも、粒子の位置と運動を同時に特定できない。計算できるのは、粒子がそこに存在する確率だけ。素粒子を観察すると、粒子が消えたり、ないところから出てきたりするそうな。我々の存在の根源になる要素自体ゆらいでいるのですから、なにかとっても心もとないですね。
  宇宙に働く力を一つの統一した理論で説明しようとする超弦理論では、世界は11次元でできているそうですから、素粒子も我々に見えない次元に行ったり来たりしているのかもしれない。そうなれば、我々自体消えたり現れたりする「シュレデインガーの猫」のような存在のような気がしてきます。

<遺伝子もゆらいでいる>

 人体の生理においても「非均質性」は重要な働きをしています。例えば、受精直後の受精卵は、2分割→4分割というふうに細胞分裂しながら、機能分化していくわけですが、受精前の卵子に、方向性は無い。どちらが頭になってどちらが足になるかは、受精直後の物質濃度の勾配で決まるらしい。方向が決まれば、それ以降、順々に遺伝子のスイッチが入って行って、分化が進行するとのことです。
 そもそも遺伝子の構成自体、ゆらいでいるらしい。ヒトのゲノムに「決定版」は無い。個人個人で異なるからこそ「遺伝子鑑定」が成り立つわけです。この変化は、世代間にわたる環境への対応であったり、病気への対応であったりするだけでなく、一世代において、増殖を繰り返すことによっても変化する。
 それがまた、古典的な「進化論」で語られるような、「適者生存」のように、ある理想的な方向へ向かう変化だけではない。だからこそ「ゆらぎ」なのですが、例えば、年齢を重ねると、ミスコピーを起こしやすい配列の部分がどんどん変化して、病気になる。(その部分が短い人はその病気になりやすい。)あるいは、女性を決めるX染色体と、男性を決めるY染色体はお互いの勢力争いを常に繰り広げて常に変化をもたらしているらしい。ある遺伝子は、ある病気にはなりにくい方向に働くが、同じ遺伝子は、別の病気にはなりやすい方向に働く。そのため、その人がおかれている風土によって遺伝子も変化する。等々・・・

 「1970年代、物理学で半世紀前に起きたように、生物学でも確定性と安定性と決定論に基づく古い世界観が崩壊した。われわれはその代わりに、揺らぎと変化と予測不可能を基盤とした新しい世界観を構築する必要に迫られている。われわれの世代が解読するゲノムは、絶えず変更されている文書の一瞬をとらえたものにすぐない。」(「ゲノムが語る23の物語」マット・リトレー著 紀伊國屋書店

<脳と体と遺伝子の三位一体説>

 では我々の存在の拠り所にすべき確固とした存在は何なのでしょう?上記の書籍には「脳と体と遺伝子は三位一体として振る舞う」と述べられています。これは、三つの要素のどれもが優位にあるわけではなく、お互いに影響を及ぼし合いながら変化する、という意味です。遺伝子でさえ絶対的な決定要因ではないのです。
 結果、私たちは大海の中を潮まかせに漂うクラゲのような存在だということですね。正直どこにたどりつくかわからない。

 ただ「脳」と「体」(個人の意志では「遺伝子」はどうにもならないが)を健全に保つためには、不安を感じたままではいけない。本来的に安定を欲求します。
 例えば、宗教もそういう欲求から生まれ、支持されているわけですね。心の拠り所が必要ということです。
 一番最初に述べた「人間は幻想を必要とする」というところに戻ってしまいました。この世は幻想か?というより幻想が必要とされる!ということです。

<幻想ではない範囲で考える>

 岸田秀はさらに語る。「本能が壊れた人類は、本来なら滅亡しているはずであった。(中略)そして人間は、頼れなくなった本能的行動パターンの代わりに、道徳とか礼儀とか伝統とか慣例とかのいろいろな人為的規範を作り、それらに従って生きるようになった。」

「自我というのは、いつも強調するように幻想であって、実体として存在しているわけではないので、周囲の世界に支えられなければならない。どこまでが自分か、身内か、共同体かということは誰も決めてくれないし、基本的な法則があるわけではないので、自分で決めなければならない。自分の感覚で決めるわけだから、やはり自分の奉仕や献身に対する感謝などの反応のある範囲内で、という事になってしまうのは避けがたい。」

<居場所はどこに?>

 というわけで、とりわけ社会規範の存在しない日本においては、身近な所に、生きる実感を見出すのが第一だという事であります。
 これは、このブログの中でお話ししてきたテーマと符合しますね。よしよし!(22回目あたりに詳しく述べております。)

 なんだか心の不安を駆りたてるようなお話をしてしまったのかなという気もしますが、まあ不安を持ってない人はこんな話を読まないだろうし、不安を持つ人は、みんなそうだと思えればなんとなく気楽になるかもしれません。このような話を奥さんにしようものなら、「なにゆうてんねん!目の前の現実から逃げるようなこと言うな!ちゃんと給料を稼いで来い!」と言われるのは目に見えております。なかなか身近に幸せを見出すのにも苦労しますね。というわけで、日々居場所を探す毎日です・・・・・