建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

69回目 困った時も困らない方法

 困った時も困らない方法

―自己防衛型の管理は人を殺す―

<子供の時、風邪をひいたら>

 子供の時、風邪をひいたら、お母さんがずっと看病してくれたり、おいしいものを食べさせてくれたりして、いつもより幸せな気分になった事はないですか?こんなことならずっと治らなければよいのにと思った事はありませんか?

 子供が苦しい時になるべく楽をさせてあげたいというのは親としてはごく自然な行為ですよね。

<一方避難所では・・・>

 よく指摘されることですが、災害に遭った人たちが身をよせる避難所で、体育館の床に寝かせるのは、日本だけだと言われています。ましてや高さ1Mくらいの段ボールの簡易な間仕切りでプライバシーもなく女性がストレスを感じずに何日も生活できるわけがありません。

 例えば火山の噴火が多いイタリアでの避難所生活はこんな感じです。

 とにかく①プライバシーを守るテント②温かい食事を提供するキッチンカー③シャワーは自治体ごとに備蓄されており、いつでも出動できる状態にあるとの事です。 

 国家が国民に対して親心を持っているなら、心に痛手を負いながら送る避難生活を少しでも快適にする努力をするのが当たり前だと思いますが、この国の対応はとてもお粗末ですね。

 

<行政の危機管理は何のため?>

 思い起こせば2011年3月11日の夕刻、福島第一原発の事故を受けて、政府は「直ちに危険はない」旨の声明を出し、さらには緊急時放射能予測システム(SPDEEDI)のデータを開示せず、避難者を放射能の危険にさらすことになりました。開示されなかったのは放射線量の総量が不明だという、わけのわからない理由からでしたが、放射性物質がどちらの方向に拡散するという情報だけでも公開すれば避難すべき方向がわかるので多くの被爆は避けられたはず。いったい政府は何を守りたかったのでしょうか?

<管理が人を殺す>

 同様の事例は枚挙にいとまがないほど。コロナの感染症対応では、この国は他国に比べて人口当たりのPCR検査数が極端に少なく、とにかく感染者を少なく見せる努力(?)をしてきました。それによって一番守ろうとしたのは「医療体制」であり、感染者ではありませんでした。

 もう明らかだと思いますが、事実をなるべく明らかにせずに、混乱を避けるというのがこの国の基本方針ですね。この国の政府にとって「国を守る」ということは、体制としての国家(State)を守ることであって国民国家(Nation)を守るという事ではありません。

 そのために政府は「管理」を強化します。今回の石川県能登自身の政府対応を検証してジャーナリストの菅井完氏「管理は人を殺す」と表現しました。国が自らの体制を自己防衛するという方針で「管理」をすれば人が死にます。もう少し一般的に柔らかく言えば、「下々の者が切り捨て」られます。

<困った時に困らない方法>

 人が被害を受けても困らない社会を想像します。まずは地震災害について考えましょう。まずは発災直後は水・食料・住まいなどの基本的な物資を迅速に供給する必要があります。これについては先ほどのイタリアの事例のように地域単位でテントやキッチンカーを備蓄しておけば何とかしのげます。この国ではしょっちゅう地震災害が発生しているのに、なぜ同じことができてないのでしょう。ジャーナリストの青木理氏の話ですが、能登地震でまともなトイレで用を足せない女性が、トレーラーで移動できるトイレを利用した際、涙を流して喜んでいたとの事。(多分必要のない)オスプレイ一機でこの(こちらは必ず役に立つ)トレーラーが何百台も買えるのにとこぼしていました。

 少し前の首相が「まずは自助と共助、それでもだめなら公助」と言ってましたが、逆ですよね。備蓄して準備をすることが可能なのは「公」だけです。地震はどこで発生するかわからないですから、全国をカバーできるのは国だけです。このあたりにこの国で準備が進まない原因がありそうです。「公」が最低限の生活を保障してくれているという安心感があれば、個別の対応で「自助」「共助」にいそしむことができます。

  その場を何とかしのげれば次はこれからの生活を再建する必要があります。住宅の再建については2000年の鳥取西地震までは個人住宅に対する公費の補助金は存在しませんでした。この文章を書いているのは2024年1月31日ですが、この時点で政府が検討している補助金は住宅全壊で300万円、半壊で100万円との事。再建しようとする場合はほとんどが個人負担です。今避難している人達は、その場しのぎの衣食住と共に、こういった不安を抱代えているはずです。

<社会的に考える>

 多くの地方で同様ですが、能登地方は高齢化が進み、住宅を再建する意欲に乏しい住民が多いとの事。当たり前ですよね。この人たちにとっては、持っていた土地を買い取ってもらって、その分で公的住宅を借りれたらよいというのが希望としては多いでしょう。その役割を国が担ってくれればとても安心です。しかしそういう発想で国は運営されていません。

 能登地震の場合は同時多発的に多くの人が困った状態に陥ってますから、政府も何かしないといけないという意識がありますが、空き家耕作放棄については、同じことが日常で起きています。私は山間部のいわゆる田舎に住んでいますが、農地や空き家の処分に困っている人がたくさんいます。これらに人には全く公の手は差し伸べられていません。国が引き取ってくれて活用を考えてくれたらどんなに助かるか!

 こういう考え方は個人より社会に重点を置く考え方です。社会主義というと旧ソ連や中国の国家体制と誤解されそうですが、むしろ正反対で、市民の意思を重視した社会民主主義の考え方です。具体的にはスエーデンやデンマークといった北欧の国々の社会体制です。基本的な生活のベースは国の負担となり、医療費や教育費は基本的に無償です。

 以前確か関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」というTV番組で、関口氏が北欧を旅した際、「日本もこういう豊かさを目指していたのではなかったか?何か間違ってしまったのではないか?」という意味の感想をのべてました。

 もちろんこういう体制を維持するためには代償も必要です。政府予算は増大しますから、税金は高くなり、国民の財布の中はあまり豊かではありません。その代わり不安もないという仕組みです。「自己責任」「格差」とか新自由主義とは対義語だと思えばわかりやすいかもしれません。ただ、そのためには国民が政府を信頼でき、国民が政府をハンドリングできているという意識が必要です。これは今の日本にとっては、高すぎて超えられないハードルに見えますねえ。

<「加速主義」という考え方>

 社会学者の宮台真司は、今の政治家や官僚の行動原理を理解したうえで、このままではどうあがいてもまともな民主主義には向かわないと見限った上で「加速主義」を主張します。社会の崩壊が加速して「カタストロフ」と言える悲劇を迎えないと変革はできないだろうという考え方です。理解はできますが、今がそんな社会であること自体が悲劇的ですね。

<少しの希望>

 もし希望があるとしたら北欧の国々もかつては普通の資本主義国でありましたが、政策の決定権をどんどん国民に降ろしていくことにより今の体制がつくられたという事実です。北欧の国々の思想については当ブログ2013年9月13日付「そもそも私たちの目標は何だったのだろう」でも少し詳しく述べていますし、関連として2013年12月19日「『苦難』を克服するもうひとつの方法」でも社会の「包摂」について述べました。今回は特に能登地震にたいする対応を見て同様の感慨を強くしました。

<最後の救い、あるいは抵抗?>

 前出の宮台真司もよく語っていますが、そういう世の中を生き抜く手立ては「仲間をつくる」ということです。社会がどうしようもないとしたら、どうしようもある小さな社会を自分のまわりで作ろうということだと思います。思えば歴史上、常に不合理はあるわけであり、いつの時代でもそう思って人々は生きてきたのかもしれませんね。