建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

56回目 ポスト真実の生まれるところ

56回目 ポスト真実の生まれるところ
     -道理か?あるいは現実主義か?ー

<お役人はなぜ議事録をちゃんと書けないの?>

 森友学園問題」「自衛隊スーダンPKO日誌紛失問題」「豊洲市場問題」。今巷をにぎわす話題に共通するのは「役人の記録が出てこない」という事実ですね。
 「都合の悪い(かもしれない)ことはとりあえず隠す。」ことにより自分の責任を回避しておくというのが大きな目的でしょうが、こういったことが慣例化することにより失うものはとても大きい。

 その①:「記録がいつかは公開される」という前提で仕事をするということは、今取り組んでいる仕事において、筋の通った結論を導かねばならないということにつながるはずだが、そうはならない。これが日本のお役人の状況。(アメリカでは文書は原則いつか公開されます。)

  その②:逆に常に筋の通った結論を導く役人にとっては、記録を残すことが疑いを抱かれない証明になるはずなのに、そうしないということは、お役人は筋の通した考え方をしないということなのでは?

 「記録を残す」ということは、「後の検証ために」というだけではなく「今正当な判断を行うために」という意味もあるわけですね。だから「記録を残さない」ことが慣例化することにより同時に役人の「筋を通して考える」という脳の回路を劣化させている!!

<「豊洲市場問題」はなぜ迷走するのか?>

 お役人はその地位にふさわしい学歴を有しているはず。なのになぜ道理を通した結論が導けないのでしょう?
 おそらくひとりひとりは、能力があるのです。でも組織やグループになると、おかしくなるのですね。豊洲の土壌汚染問題」なんかは、筋道がたてやすい話なので、例として取り上げてみましょう。

 まず筋道の話。

 東京都では専門家会議を組織して土壌汚染のついて検討し、4.5Mの盛り土が必要と結論づけた。少し調べてみると、この数字もPhoto御都合主義が含まれているようですが、とりあえずこの基準が、筋道を通して決められたという前提で話を進めます。であれば、この基準は以下の条件を読み込んで決められた「はず」です。

①その基準は、地下の土壌汚染が地表に及ぼす影響を、一定以下に抑制するための基準のはずである。
②そのため、まずは「一定以下」を判断するための「閾(しきい)値」決める。例えば「1万人に一人が健康を害する程度」といった具合。それ以下であれば「安全」と定義する。
③地下の毒物の濃度・分布を調査することにより、どんな土のがどの厚みであれば、地表が「閾値」以下におさまるかを専門知識により決定した。

本来は見込むべきだったのにどうも見込まれていない条件をあとふたつ挙げます。

④上記の意味で「安全」な状態は非常時にも保たれる基準とする。
 *どうも4.5Mというのは地震時の液状化対策には不足らしい
⑤同じ「安全性」を確保するために、「アスファルト」や「コンクリート」の場合の必要な厚みも算出する。

 早い話が①から⑤の条件が、技術的に確かな根拠をもとに決められていれば、あとは何の問題もなかったはず。これが頭に入っていれば、「築地はアスファルトで覆われているから安全で、豊洲はコンクリートだから安全でない」と知事が言っていましたが、これには厚みの数字を入れないと意味がないということがわかりますし、「地下水を飲み水に使うわけではないので問題はない。」という意見がナンセンスであることもわかります。
 「盛り土」してないことが問題ではなくて「盛り土」以外の基準が定められていないがために、こんな無駄な時間と費用が費やされている。そもそも4.5Mが何を根拠に決められているのか、ちゃんと記録して、役人の頭に入っていれば建物を建てる際にも正しい判断ができたはずですね。その判断をまたちゃんと記録しておけば今なにも問題になっていません。

<「ポスト真実」という名の利権>

 現実としてどうなっているか。小池知事は「そのうち『総合的に』判断する」とおっしゃっておられます。「技術的に判断する」とは言わない。専門家の「意見」を聞き、その他の関係者の利害を考慮して「政治的に裁量して」判断します、という意味ですね。その結果として自分の存在意義や権限を高められることになるわけ。技術的に判断すれば、自動的に結論が出るはずのですが、それでは利権にならないということなのでしょうね。
 というわけで、役人は議事録を「書けない」のではなくて、やはり「書かない」のでしょう。そうして筋道をはずした判断が許容されてしまう。残念ながら、マスコミや市民がそれを許してしまっている。
 そこにポスト真実が芽を出す土壌が生まれます。

 ポスト真実は2016年にアメリカの大統領選挙やイギリスのEU離脱に関する国民投票運動などから生まれた言葉ですが、そんなの日本には昔からあったじゃん!
 原発の「安全神話」もそうですし、原発がらみで言えばオリンピック招致のプレゼンテーションで安倍首相が「汚染水による影響は福島第一原発の港湾内で完全にブロックされている。」と語ったとき、私は唖然としましたが、翌日「嘘をついてオリンピック招致」と書いたマスコミは私の知る限りありませんでした。

<「その場しのぎ」か「道理を通す」か>

 二つの方向性がある。「その場しのぎであっても今が良ければよい。」という考え方と「今は苦労するかもしれないが、ものごとは道理に従って組み立てなければあとできっと困る」という考え方。

 前者を「現実主義」、後者を「理性主義」と名付けるとします。この二者の対比が鮮明になったのが、2015年の憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使を可能とする法案審議の際。磯崎首相補佐官は「憲法の法的安定性は関係ない。」と言って現実に対応することが優先する、と述べ、ひんしゅくを買った。しかし法案は数の力で成立した。日本は完全に「現実主義」の世の中です。莫大な国債を発行するのも、年金基金で株を購入するのも、他国は倫理上問題があるとして、自制していることがこの国では大手を振ってまかり通る。

  だからポスト真実については日本の方が先進国ではと思う。トランプ大統領に対してCNN等のマスコミは鋭く対立していますが、日本では政府の恫喝が効を奏し、忖度が広くいきわたってしまいました。さてアメリカのマスコミは今後どうなっていくのでしょうか?

<基礎があってはじめて高層建築が可能となる>

 いわゆる「リベラル」と呼ばれる市民を代表する人たちは「理性主義」の立場だと思いますが、一般にはなかなか広まらない。例えば前回の衆議院議員選挙で小林節の声はかき消されてしまった。
 リベラルの代表であるべき民進党は、「市民」より「労働組合」の組織票の方を向いたりして全く腰砕け。いったい「その場しのぎ」ではなく、百年後のこの国を見据えて道理の通った判断をしてくれるのは誰なのでしょう??

 そもそもいまだ「民主主義」が機能していないという実情を認識せずにこの国は民主主義だと皆が思っているところから、基礎ができていないのです。
 民主主義を成り立たせる3要件は
①透明性②参加③説明責任(アカウンタビリテイー)だという。今はどのひとつも不完全ですよね。
 でもこれらの要件が成り立って初めて国家権力を信頼できるわけです。これは反面教師として独裁国家の事を考えてみればよく理解できます。
 さらに言えばその民主主義のあり方を保証するのが、主権者としての国民が国家権力に「これだけのことは守ること」と義務付けている憲法ですね。これが近代国民国家の基礎の基礎です。
 にもかかわらず、「そうじゃない憲法観もありうる」と公言する政党が国家権力を握っているのですから、基礎がゆらいでいるわけです。その上に不安定な増築を重ねているのが今のこの国の現状であるのだろうと思います。 
 
教育勅語より民主主義教育>

 にもかかわらず、4月9日に発表された内閣府「社会意識に関する世論調査では社会に満足しているという回答が過去最高だったという。
 うーんどうなってるんや~これがポピュリズムということだろうか?あるいは井の中の蛙なのか?社会学者さんに解説して欲しいところです。おそらく「満足」と答えた人たちは「沖縄の人たちの苦しみの不合理」「福島のお百姓さんたちが除染されていない山で働かざるを得ない現実」のことは知らないのでしょう!

 ちなみに3月20日に発表された「世界幸福度ランキング」では日本2017は世界51位でとても低い。(右図参照)
 もちろん何を指標にランキングするかで、順位は大きく異なり、これとは異なる傾向のランキングもあります。
 この調査については、グラフの左から
()1人当たりGDP
()社会的支援
(黄緑)健康寿命
()人生選択の自由度
()寛容さ
()汚職の認知
(水色)その他の影響

 社会制度に関する項目が多いですね。そういうわけで上位を占めているのは北欧の福祉国家です。

 でもなぜノルウェーデンマークは格差を回避し、平等性を重視する社会制度をつくることができたのか?

 別に「民主主義の成熟度ランキング」というのもいろいろあるのですが、こちらはどのランキングでも北欧諸国が上位を占めます。これは<22回目 そもそも私たちの目標はなんだったのだろう>で詳しく述べましたが、これらの国々では、経済・社会活動に関する決定に人々が民主的に参加する仕組みが整っているので、その結果としてストレスの低い社会ができているようです。先ほどの民主主義の3要件の実現のための努力がなされてきた結果でもあるわけですね。

 先日官房長官、「教育勅語を容認するような発言をされていましたが、もうわけがわかりません。それよりも何よりも、子供たちに必要なのは、「人に迎合するのではなく、自分で物事の筋道をたてて考え、正しいことを主張できる能力を磨くこと」ですよね。そうでないと民主主義の基礎はいつになっても固まりません。

(「一身独立して一国独立す!」実は福沢諭吉がとっくの昔に言ってたことなんだけど・・・・)