67回目 心を休める時間について
67回目 心を休める時間について
ー立ち止まって、ゆっくりとー
<せわしない日常>
若者が数人たむろして暇を持て余しながら「なんか面白いことないかな~」とつぶやく。かつては日常的にあった光景ですが、今は見られません。今はみんなスマホの画面を見つめていますよね。
最近のTV番組は、例えば1時間番組の場合、「視聴者が1時間じっと画面を見つめて番組を見ているということはない」という前提で場面構成をしているという。たしかにそうです。本当に見たいなという番組が少ないこともありますが、ほとんどBGMとしか認識していない。じっとしている時間がもったいない。逆にそれがろくな番組ができない原因になっているのかもしれませんが。
<女木島の美容室>
鏡ではなく海を見ながら髪を切ってもらう。そんな美容室が高松市の沖合に位置する女木島にありました。この美容室は、瀬戸内国際芸術祭の作品としてつくられたのですが、なかなか鋭いアイデアやなあと思いました。
髪を切ってもらってる時間は、強制的に休息させられる時間です。もちろんスマホは見れませんし、まあ無理やり雑誌を見ることもできないではないですが、私の場合はたいてい散髪屋さんと無駄話をしています。ならば、その間、うっとうしい自分の顔を見るのではなく、美しい風景が見られたら、心が休まりますね。平静な心持で物思いにふけることもできそうです。
この美容室はドキュメンタリー番組で紹介されていたのですが、例えば50歳になる人生の節目として髪を切りに来た女性もいました。どんな思いで髪を切ってもらっていたのでしょうか?美容師さんによれば、髪を切ってるときに鏡を見たいといった人はいなかったそうです。
他にこのような時間を持てるのは、寝てるとき以外は、病院で点滴を打ってもらってる時くらいではないでしょうか?
<心の傷を癒すこと>
TV番組で、もう一つ別の場面構成の手法として、ローラーコースタームービーのように展開を速くして、息をつかせないことによって画面に注目してもらおうというやり方がある。「相棒」なんかその一つだと思います。確かに退屈しないのでチャンネルを変えるという機会を少なくするという意味では成功しているかもしれませんが、見ながら物を考える隙間もないので、いわば「思考停止」させる番組ともいえる。
「心の傷をいやすこと」(NHKの土曜9時ドラマ。R02年1/18~2/8計4回)は意識してその真逆の作り方をやってるのではないかと思う。主人公の精神科医のセリフはテンポが遅く、ボソボソという感じで聞き取りにくいので、TVの画面に近づいて見てしまう。もちろん精神科医が患者に話しかける際は、時間をかけて相手の気持ちや反応を考えながら話すものでしょうから、当然そうなるのですが、ドラマ全体がそういう場面展開になっている。多少じれったいと感じる部分もあるが、いろんな事を考えさせる内容なのでそれにふさわしいテンポだともいえます。
実は、このドラマの主人公のモデルであり、原案作成者である安克昌氏(2000年没)は中学・高校の同級生であり、机が隣同士だったこともあるので、特別な思いで見ています。
彼は、阪神淡路大震災後、心の傷ついた人々を診ながら、当時まだ深く認識されていなかった「心のケア」の概念を手探りで確立していった人物です。
どんなに慌ただしくって混乱状態であっても、心の傷を癒す診察においては、ゆっくりと、ゆっくりと話に耳を傾け、アドバイスを与える、それがこのドラマのペース配分です。したがって多くのストーリーを描くことは不可能で、凝縮された言葉が淡々と流れていく。私としては、もっと患者との会話シーンを長くしてほしかったなーと思いましたが。
<36時間に来ませんか>
自分のペースで生きると24時間で足りないのであれば、1日を36時間にしてしまおう!
ゆっくりゆっくり 悲しみは癒えるだろう
大切に大切に 愛する人と歩くだろう
おそるおそる 人は変わってゆけるだろう
追いつめられた心たちよ 36時間に来ませんか
(中島みゆき 「36時間」)
<私の日常>
私も今年で60歳になります。認知機能は徐々に低下してる。ものを忘れないように、極力メモを残すようにしてますし、動作がどうもぞんざいになりがちなので、ドアを閉めたり、スイッチ操作などはなるべくゆっくりするようにしています。
ゆっくり過ごしたら、悩みが解決するわけではないですが、慌てるのはダメなのは確か。本当に一日が36時間になればいいんですけどね・・・
66回目 私はファミマ猫
66回目 私はファミマ猫
ー生きていてもいいのかにゃ~(私の「にゃん権」のこと)ー
誰かが近づいてくる。私はほとんど反射的に、ちょこんとお座りして「にゃおん」と鳴きます。すると何人かの人は足を止めてこっちを見てくれる。何度も繰り返してるとそのうちまた何人かの人は、食べ物をくれる。いつも何か食べるものを持って来てくれる人もいます。
「にゃおん」というねこなで声は、本来は親猫におねだりする時の鳴き声なんだけど、生まれた時にはどっかに行っちゃってたので、私にとっては、道行く人が親代わり。で、こうやって食べ物をねだって生きてきたの。
私はファミリーマート横の物置の下で生まれたサビ柄のメス猫。おととしの暮れに生まれました。最初は茶トラのおにいちゃんと二匹だったけど、おにいちゃんは、オス猫の習性で旅に出た。今頃どうしてるかなあ~
でも、ノラ猫生活はなかなか大変!今の街で、猫が自分で食べ物を見つけるのは難しい・・だからあまりおなかが減ったときには、仕方なく、ファミマから出てきた人の足元にまとわりついておねだりする。
時々飼い猫を見かけるけど、空腹なんかに縁がなさそうで、とってもうらやましい!!なんでこんなに差があるんだろう?私はこのまま生きてていいのかにゃ~
<人権ならぬ「にゃん権」について>
ということで、筆者はファミマ猫のねこなで声に懐柔され、食べ物を運ぶ人間の一人です。私自身、自分で食い扶持を探しながら働いてる身なので、ノラ猫の気持ちはよくわかる。私が見えたら、こちらへ食べ物をもらいに走ってくる姿を見ると、こちらまで癒されます。何とか生き延びてくれ!と思う。
一方、世の中では「動物のエサやり禁止条例」ができたり、「ネコに餌をやらないでください」という張り紙を見たりする。誰かに迷惑がかかっているとは思えない場合でもそういう理屈がまかり通っているのはなぜでしょう?ネコに人権ならぬ「にゃん権」は存在しないのか?
そもそも、「人権」とは、何か?憲法学者の木村草太氏によれば、「想像力を働かせて自分とは異なる人の立場になってみること」というものです。わかりやすい考え方ですね。この考え方に従って、「困窮した人は助けないといけない」→「最低限の生活の保障」となるし、誰も人に殺されたくはないから、殺人が罪になったりするわけですね。
<動物の権利(アニマルライツ)の一般的な考え方>
もちろん、「人権」と同じレベルの権利を動物に認めることは不可能です。動物といっても、ペットや食用動物から野生動物までいろんな立場(?)があるので、社会的な慣習とか、個人の感情とかにより、千差万別の考えがあります。
アニマルライツセンターによれば、一般的な概念としては、「苦痛を感じる能力に応じて、動物には人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある。」というものです。
これは、哲学者のピーター・シンガーの「功利論」に基づく概念で、比較的現実と折り合いをつけている。さらに動物の権利を認めて、商業畜産や動物実験を禁止しようとする概念を唱える人もあるのに対して、動物の苦痛を伴う殺害や残虐行為を止めれば十分だとしている。従って、苦痛を伴わない殺し方をして、食用にすることは認めるということですね。でないと牛も豚も食べられなくなります。ただ最低限として「動物が持っている唯一の権利は、平等な思いやりを受ける『権利』である」としています。
もちろん、これはあくまで環境倫理学の概念であり、現実のルールがこれに従っているわけではありません。
<人間の身勝手さと差別意識について>
では、「ネコにエサをあげないでください」というルールは正しいルールでしょうか?上記の考えによると、「エサをあげない」ことは、直接苦痛を与えていないという意味では、論理に反していないともいえる。ましてや「(最近あまり見ませんが)ノラ犬を放置すると噛まれれば危険だし、狂犬病が蔓延するおそれもあるのですべて駆除しよう」というルールは正しいように聞こえる。
でもファミマ猫や私の立場からすれば「私らは誰にも迷惑をかけてないから、みそくそ一緒にしないで!」ということになります。
わかりやすく考えるために、人間対動物ではなく、人間対人間で考えましょう
[ケーススタデイ1] 例えば犯罪を犯した人は、個別に裁かれるのはあたりまえですね。ところが、ある外国人(C国人としましょう)が犯した犯罪については、C国人は、危険だからみんな排除しようという傾向になりがちですね。C国人の犯罪率が、この国の犯罪率より低いかもしれなくても、そう考えがちです。どうも人間は自分の属さない集団については、個人個人ではなく、みそくそ一緒に考えがちです。これが「差別」であり、ヘイトスピーチに結び付く。
[ケースステデイ2] 人間対動物では、人間が動物を支配しているので、支配する側がルールを決めるのが当然だと思っている。これが人間対人間で考えるとちょっと違ってきます。
例えば、中東なんかでは、軍事的に支配されることにより、いつロケット弾が飛んできて、命を落とすかもしれないという人々がいる。支配されているほうの人々から見ると、たまったものではありません。ましてや「食料の供給ルートを断つ」と支配する方が勝手に決めてしまえば「死ね」と言ってるのと同じことですね。
上記のスタデイを踏まえれば、動物の権利が「人間と平等に思いやりを受ける権利」しかないのだとしても、人間と平等の思いやりを受ければ、「ネコにエサをあげないで」とみそくそ一緒にしたルールはおかしいのでは、と疑問を感じてしまいます。場合によっては「死ね」といってるのと同じことですから。皆さんはどう思いますか?
<「ホモ・サピエンス全史」の問題提起>
少々話は大きくなります。「ホモ・サピエンス全史」(を読んだ人)によれば、最終章で「ホモ・サピエンスは他の人類を滅ぼし、地球を支配し、めざましい進歩を遂げてきた。これを支配された動物の歴史のほうから見れば、ほとんど「食われる」か「飼われる」対象しか残っていないという、とんでもない歴史である。ホモ・サピエンスは今後神の領域に近づき、ホモ・デウスを生み出すであろう。その時人類は幸せといえるだろうか?」という問題提起がされているそうです。
支配する方が、全体のことを考えずに、自らの利益のみを追求すればどういうことになるかは、今の政治を見て明らかで、いやになってしまいますね。
環境倫理学の現在の考え方は、先ほどの「功利論」からベアード・キャリコットの「全体論」へと展開されています。すなわち、「環境」にとって見れば、「人」は時間的にも空間的にも小さすぎる存在であるため、その時のニーズで物事を決定すれば、生き物の住む場所が壊れ、かえって人の尊厳も失われる。そうではなくて、環境全体をひとつの生き物としてとらえたときに、自然な答えを出す必要がある、というものです。
そう考えれば、一概に人間の害になるものはすべて排除すればよいという結論にならないと思いますし、やはり今回は駆除が必要だという結論になるかもしれません。
<ファミマ猫との距離感>
ファミマ猫は、人が近づいても逃げずに挨拶をしてくれるという、ノラとしては半人前のネコです。しかし1M以内には寄せ付けないし、食べ物もこちらが見てる間は警戒して食べないというところはノラっぽい。決して飼い猫にはなれません。その距離感がなかなかたまりません。
私は昔はイヌ派だったのですが、最近は断然ネコ派になってしまいました。
65回目 ミスあゆみはミスターあゆむを軽やかに踏み越える
65回目 ミスあゆみはミスターあゆむを軽やかに踏み越える
ーれいわ新選組のユニークな候補者たち(安冨歩編)-
<安冨歩さんという人物>
れいわ新選組の候補者として東京大学教授の安冨歩氏が登場した際、思わず快哉を叫んだ。何というユニークな人選!
安冨氏と言えば、女性装が際立ちますが、氏の話を聞いていると、単に女性の恰好が性に合っていたという以上に深い内面の挌闘があったようです。氏の事は女性装以前から知っていましたが、経済・歴史・宗教など幅広い分野の知識により、鋭い文明批評を行っていました。ただ女性装をしてから、開放されたというか、リラックスして活動しているように思います。
今回の主張は「子供を守ろう」というシンプルでいささかお茶目なものですが、その背景には深い思考と洞察がありそう。
氏の事は半分も理解できているとは思えませんが、氏の言葉をもとに、氏の世界に少しでも入り込めたらと思います。
<教育についての二つの質問>
氏は街頭で親たちに質問をします。
質問その①:「今、学校へ行って6時間授業を受けれますか」
→ムリですよね。おとなは「お金くれなきゃ行かない」と言うだろうというのが氏の見解。私も「絶対ムリ!」です。なぜ子供の頃、平気でそんなことができていたのかわかりません。授業もそうですが、退屈な校長先生の訓話を聞いたり、体育座りして、順番を待ってたり、今なら我慢ができませんね。
質問その②:「学校で習ったことを覚えていますか?」
→人によるでしょうが、微分積分や行列って何だったんでしょうね?全く思い出せません
氏はこの結果で学校の授業がいかにムダか、ご飯を食べられない子や暴力をうけてる子がいるのになぜ授業ができるのか、その前に学校は子供たちを救う基地であるべきだ、と主張します。
そもそも学校は軍隊教育の子供版だった。戦前は「天皇の子」としての臣民になるため枠をはめる必要がありました。戦後もその流れが続いていますから、枠からはみ出ないように「標準化」することはむしろ善であったわけですね。これが今の時代に合ってない事はいうまでもありません。枠からはみ出した子供にとっては苦痛でしかありません。
<父性から母性へ>
候補者発表の際、氏は語りはじめました。
今の国民国家の仕組みは機能不全に陥っており、まるで「豪華な地獄」です。もはや「政策」でどうかなる段階を超えており、原則を変更しなければどうしようもない。
私にとってはそれは「富国強兵」から「子供を守ろう」です。
これはまさに「父性から母性への転換」ですね。これは氏自身の人格をかけた転換でもあったわけです。(まるで冗談みたいですが!)
氏は、自分は「児童虐待からの生存者です。」と語っています。氏の両親は、戦時中の思想をもって厳しく氏を育てた。「あゆむ!そんなことをしたら、兵隊になれません!」と教育(?)されたそうです。
女性装はそんな自分からの脱出でもあったわけですね。「あゆむ」と呼ばれることにも抵抗があって、今は「あゆみ」と名乗っています。両親とのすさまじい葛藤があったわけですね。
<ミスあゆみの選挙活動>
氏はステレオタイプの選挙活動はしていません。「ユーゴン君」という白馬と練り歩いたり、音楽家の片岡祐介氏とラップ風の音楽に乗せて主張を語ったりしています。一見すれば、真剣に当選する気はないように見える。ただ一人でマイクを握って話し始めると、聞いてて胸を締め付けられるような気分になります。
氏が候補者発表の際、最後に語った内容が、その本気度を示している。それはもし当選したら得られる「国政調査権」を使ってこの国の国家の仕組みを解明したい、ということです。これはかつて民主党の石井紘基議員が、特別会計の闇を調査していて暗殺された事実を踏まえている。氏は石井議員を最も尊敬する政治家だと言う。
<大西つねき氏との対照が面白い>
63回目で紹介した大西つねき氏と安冨氏とは根本的な考え方で共通している。それは、
・今の社会システムは根本的に変革しないとどうしようもない。
・経済成長はもはや幻想でそれに依存しない社会を目指す必要がある。
・無駄な時間の使い方を無理強いされるのは間違っている。
といった共通の方向性を持っている。ただ、その表現の仕方が対照的で面白い。
大西氏はひたむきに理屈立てて自己の考えを説明する。その説明はとても上手で説得力があり、その内容によって希望を与える。
対して安冨氏は先ほどのように、肩の力が抜けた緊張感のないやりかたで、少数の人に対して語りかける。ただその内容は豊富な教養に裏付けられており、融通無碍。創価学会員の野原ヨシマサ氏のあとに登場すれば、野原氏の話をうけて仏教思想の話をするし、なぜ馬が選挙に登場する必要があるのかを語ったり・・・
この二人はよいコンビになると思うのですが!!!
64回目 「当事者主権」について
64回目 「当事者主権」について
-れいわ新選組のユニークな候補者たちー
<れいわ新選組の候補者選定>
党首の山本太郎氏は、「当事者を国会に呼ぶ!」というコンセプトで候補者を選定したという。結果、とてもユニークでチャーミングな候補者たちが集まりました。
・はすいけ透氏:元拉致被害者の事務局長、「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」というショッキングな本の著者
・安冨歩氏:東大教授。女性装で話題に。官僚言葉を「東大話法」と揶揄する。
・木村英子氏:重度障害者。障害者支援法と介護保険法の統合による不合理を指摘している。
・三井よしふみ氏:元コンビニオーナー。日本におけるフランチャイズ制の搾取構造を訴える。
・野原ヨシマサ氏:沖縄の創価学会員。公明党と学会の理念のかい離、沖縄の基地問題を訴える
・辻村ちひろ氏:環境NGO職員。身近な環境破壊について警鐘をならしている。
・大西つねき氏:元JPモルガンのデイーラー。前回紹介しました。経済のエキスパート
・ふなごやすひこ氏:難病ALS当事者、全身麻痺ギタリスト、株式会社アース副社長!
・渡辺てる子氏:元派遣労働者・シングルマザー、ホームレス経験もあり。演説はすごい迫力!
それぞれ明確な主張があり、ぶっとんだ人達ですね。
<「当事者主権」とは>
山本太郎氏の主張を聞いて、「当事者主権」という言葉を思い出しました。これは同名の著書(中西正司・上野千鶴子共著)で提示された概念です。
まず「当事者主権」とは何か、について同著から引用します。
「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、当事者とはサービスのエンドユーザーのことである。(中略)当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれもー国家も、家族も、専門家もー私がだれであるか、私のニーズが何であるかを変わって決めることを許さない、という立場の表明である。」
前述の木村英子氏、ふなごやすひこ氏は介護がないと活動ができない。そういう人は立候補するのではなく、「代議士」を建てるのが筋だ、と指摘する人もいます。はたして代議士はその役割を果たせるでしょうか?
前述の三井よしふみ氏は、コンビニの労働環境問題を国会で取り上げてもらおうと、大物政治家に面会したところ、「票に結びつかない」と断られたという。
代議士はニーズの把握はできても、それをダイレクトに伝えてくれるとはかぎらないわけですね。それなら直接訴えるしか方法がありません。これが「当事者主権」です。
<「主権」の持つ意味>
ここからは私の解釈です。「主権」は「自分の事は自分で決定できる権利」のことです。なんで「権利」という言葉を使わないと聞き入れられないかが問題です。
「福祉政策」といえばなんとなく「恵まれない方に施しをする」というイメージがある。これでは「お願いして費用を出してもらい、押し戴く」という態度になってしまいます。
そうではなくって、これは「生きる権利」なのだから、堂々と主張すればよい、という意味が込められていると思います。
<どちらも同じ制度です>
少し考えてください。「42回目「円」のホットスポットについて」で詳しく説明しましたが、お医者さんが老人ホームへ行って週5日健康診断をすれば、手取り100万円程度の収入になります。
一方、同じ場所で働いている介護ヘルパーさんたちは、24時間介護の責任を負いながら、低賃金で働いている。
激務に苦しむお医者さんの話も聞きますが、上記のように比較的楽な仕事で安定した高収入を得るお医者さんもいます。親を施設に預けている私の立場からすれば、介護ヘルパーさんのほうがよっぽど重要な任務をしてくれている。
では、なぜこんな格差が生じるのかと言えば、単に「制度」がそうなっているだけの話ですね。上記のお医者さんの高収入を支えているのは単に医療保険の点数がそう決められているだけです。介護ヘルパーさんの給料が安いのも介護保険制度がそうなっているだけの話です。これらは我々の「代議士」さんが決めている。
お医者さんの給料の源泉は、9割とか7割は一般市民の支払う健康保険料です。いわば、一般市民の「施し」ですわ。障害者に支払われる障害者支援と何ら変わるものではありません。お医者さんは、自分の給料は当然の権利として受け取っています。障害者支援金も当然の権利として受け取ってよいわけです。それが不足であれば、要求しないといけません。
<制度やルールの在り方が不合理を生む>
前述の木村英子氏の訴えている「障害者支援法と介護保険法の統合による不合理」の話。現在、障害者は65歳になると「障害者」ではなくなり、介護保険法のみ適用される「高齢者」になるという。その時点から、介助者を探して在宅で生活していた障害者が、介護ヘルパーによる介護に切り替わるため、施設に入所を余儀なくされる。しかし障害者の症状は千差万別であるのでなかなか介護ヘルパーでは対応できないのが現状だそうです。
これが我々の「代議士」が作ったルールです。「当事者」が声をあげる必要性がよくわかりますね。
他方、お医者さんは何かと優遇されている。その理由の第一は、利益団体としての医師会の政治力ですね、多分。医師会が自分たちの利益を守ろうとする態度はあからさまです。私の娘は精神保健福祉士ですが、彼女によれば、精神疾患に携わる「臨床心理士」の診察には医療保険は適用されません。医師会が拒否し続けているそうな。これは故河合隼雄氏の宿願でしたが成就していない。自分たちの利益が減ることを拒否しているわけです。
お医者さんは命を預かる仕事であるから、十分な給料をもらうのは許されると思うのは一般感情ではありましょう。でも恐らくそれに乗じて、手厚すぎる費用配分になっているというのが、先ほど挙げた事例です。国民から(強制的に)集めたお金が金額的に適正か?その配分は適正か?恐らくそのチェックが機能していません!!というか、はっきり言って、健康保険料は、権力のある人たちの餌食になってるのだと思います。
<強制的な徴収は不合理の温床だ!>
とにかく「強制的に料金を徴収する」というのは不合理の温床です。最後にすこし話はそれますが、NHKの話。
最近NHKと打ち合わせをすることがあった。うちの実家は山間部の難視聴地域でありまして、共同アンテナ設備を介して各戸にTV線を引きこんでいる。この設備のうち本線部分はNHKの所有になっているが、なぜだか管理は地元住民がつくる組合が行うことになっている。年月が過ぎて山の中で生い茂った樹木を伐採しろという。NTTや関西電力は、樹木の枝がかかってくると、切ってもいいですか?と連絡してきてちゃんと切ってくれる。ましてや独占企業であるNHKがなぜ自ら所有する配線をメンテナンスしないのかと問うたところ、「そういうルールなんです。」という答えしか返ってこない。
NHKの職員の平均給与は1100万を超えている。内部留保は700億を超えている。NHK受信料の徴収額は過去最高を更新し続けている。なんでやねん!!!これについては国民全員が「当事者」ですよ!!!!
63回目 「お金で考えてはいけない」と思いたい!
63回目 「お金で考えてはいけない」と思いたい!
-大西つねき氏のワクワクする語り口ー
<最後のピースが見つかった!>
お金のことを考えずに暮らしたいと思いますが、なかなかそんなことはできません。現に今も、今年度の仕事の見込みが定まらず、不安をいだきつつも(結果、時間があるので)この文章を書いています。
最近ネット上で「MMT理論(近代貨幣理論)」について解説する動画が散見できる。簡単に言えば
「インフレにならない範囲では、自国通貨建ての国債をいくら発行しても破綻することはない」
という、一見うさん臭そうな理論です。金をばらまきたい議員が飛びつきそうな考え方やなあ、という気がしますよね。ここで詳しくは解説しませんが、間違ってはいないようです。
中野剛志氏の解説→三橋貴明氏の解説の動画を見た後、(どういう素性の方かと思いながら)大西つねきという人の動画を見た。タイトルは「MMTの前に理解すべきこと」
最初、説明の上手な人だと思った。約20分後、いままで欠落していた知識の空白部分に最後のピースがはめられて、「経済」の全貌がわかったような気になりました。
<「経済成長」をめぐるジレンマ>
多くの人がそう感じていると思いますが「経済」のことはどうもよくわからない。わからないながらも、しつこく様々な方の言葉をひもといていると、これは正しいと理解できたこともあった。それは、
「経済成長には限界があり、以前のような成長は不可能。
従って、『経済成長に依存しない社会』にシフトする必要がある。」という事実です。
これは、多くの識者が根拠をもって説明しているにもかかわらず、政治家はもとより、一般的にはほとんどタブーとなっていますね。
根拠のひとつで一番シンプルなのは「人口減少」です。この先人口が1割減少すれば(これは十数年後と推計されています)GDPの6割を占める個人消費は1割減少する。約6%のGDPの減少分を労働生産性の向上とかリノベーションで埋められるはずはありません。
もっと詳しく知りたい方は水野和夫著「資本主義の終焉と歴史の危機」をお読みください。
先ほどのMMT理論に関する中野剛志氏や三橋貴明氏の解説に納得いかなかったのは、「国債をどんどん発行して財政出動すれば経済成長を取り戻せる」という論点でした。
これに対して、多くの識者はまた、「今の金融資本主義は『経済成長』がないと成り立たない」とおっしゃる。これはどういう意味なのか?もしどちらも正しいとすれば、解決策はないのか?というのが埋められない部分でした。
<しくみを変えなければ解決できない!>
まず金融システムと経済成長の関係が明快に説明された。結論から言えば、今の金融システムは、経済成長なしでは成り立たない。なぜなら、お金は誰かが借金することでしか増えない。(「信用創造」といいます)借金は利子をつけて返さないといけないので、全体としてお金が増えないと借金を返せない。そのためには経済成長して経済が拡大する必要がある。
しかしバブル崩壊以降、経済成長は鈍り、今はほとんどゼロ成長である→銀行の貸し出しも増えていない。→お金の総体(マネーストック)は増えないといけないので不足分は国債が埋めている。この先経済成長する前提条件もあり得ない。
というのが現状であるが、こんなシステムはいつかは破綻する!
氏の解決策としては、
①借金によってお金を作り出すというしくみ自体を変えないといけない。
②財政出動する際は、借金をすれば利子が将来世代のつけになるので国債によらず、政府通貨によらねばならない
ここまで明快な説明は聞いたことがありませんでした。
<大西つねき氏の理念>
もちろん、そう簡単に実現できる解決法ではありませんが、筋道を通して考えれば、やらないといけないということです。この事実を直視せずに、「経済を成長させるんだ!」と意気込んで失敗し続けているのが現状ですね。浜矩子氏はアベノミクスを「浦島太郎の経済学」と批判しています。
大西つねき氏は、この転換を実現するためには政治の力が必要だと考え、自ら政治団体「フェア党」を立ち上げ、活動しています。
単に上記の変革をするだけでは、人々は幸せにならない。あまりにも世の中不合理が多すぎる。そもそも国家経営の本質とは?ということから理念を組み立てて講演を行っておられます。
くわしくは氏の動画やサイトをご覧ください。いちばん詳しい動画として「20180709 目黒講演会 1~3」をお勧めします。
<お金で考えてはいけない>
お金のことに造詣の深い大西氏ですが、「お金で考えてはいけない」ということを主張しておられます。お金はそもそも銀行が帳簿上で作り出したものであるから、実体は存在しない。本当に現存しているのは我々の労力や時間でありその価値を無駄にしてはならない。この本質から物事を組み立て直さなければいけないというお考えです。
例えば
・「子育て」は価値を生み出す行為であるにもかかわらず、その対価があたえられていない。そのため一般的には夫への「依存」に頼っているのは不合理だ。
・「不労所得」は一掃すべき。特に土地はそれ自体価値を生み出さないので土地を買って借金をして利子を払うのは不合理だ。
<私たちの将来は?>
大西氏の描くような将来を想像するとワクワクします。ただの夢物語ではなく、経済理論に裏付けされているところに可能性を感じます。と同時にこの理念の体系を具体化するには、既存の政治の枠組みを飛び越えないといけないことも想像に難くない。
一方、大西氏も指摘していますが、日本の将来に時間的な余裕はありません。前出の水野和夫氏も同様の記述をしています。金融資本主義は末期的症状を呈している。逆手に取れば、少子高齢化、ゼロ金利がいち早く進行した日本が一番早く次世代のルールを見出せる可能性があるのですが。
<トホホなこの国の現状>
昨日、れいわ新選組の参議院選挙の候補者発表で安冨歩氏が意思表明をした。「資本主義を基にした国民国家が機能しなくなっている。そもそも『GDPを増大するという富国強兵策』から『一人一人の生活がたつ』という視点へ根本的な転換をしないといけない」と語っていました。同様の認識ですね。
実は大西氏もれいわ新選組の候補者にエントリーしているのですが、結果はまだ発表されていない。大西氏も政治活動を始めて数年になるがまだブレイクスルーは生じておらず、御苦労されてるようです。(本人からは苦労しているという表情は微塵もうかがえませんが。氏はいつも意気揚々です。)うまく風が吹いてくれればと願います。
*追記
7月2日、大西氏はれいわ新選組の候補者として発表されました!
62回目 「蛙(かわず)の見る空」(「建築にまつわるエトセトラ」改題)について
62回目 「蛙(かわず)の見る空」」(「建築にまつわるエトセトラ」改題)について
ー「空の青さ」が見えますかー
今回からブログのタイトルを「建築にまつわるエトセトラ」から「蛙(かわず)の見る空」に改題しました。そもそも建築にまつわらない内容がほとんどでしたのでいままでとても紛らわしかったと思います。
同時に、ブログの方向性も見えてきましたので、それに合わせて編集を行いました。
タイトルの出典は、おわかりと思います。
井の中の蛙大海をしらず、されど空の青さを知る
(荘子の文章を基に日本で加工された言葉です)
13年前に設計事務所のホームページを立ち上げる際にWEBデザイナーから「ホームページのプロモーションのためにブログを書くように」という命を受け、おっかなびっくりとブログを始めました。その後いろいろさまざまな出来事がありまして、詳細はブログをひも解いていただくとわかるのですが、(とはいえそれはなかなかめんどうな作業ではありますのでお勧めしません。)ものの考え方が根本的に変わってしまった。一言で言えば「成熟社会脳」が形成されてしまった。結果どのような自己の変化が生じたか・・
例えば
・プロモーションとはいえ、自己を誇示するために耳ざわりの良い言葉を発することに抵抗を感じてしまう。
・お笑い番組、バラエテイー番組を全く見なくなりました。試食コーナーなんかが始まると、即座にチャンネルを変えます。
この症状はどんどん悪化し、最近は素直に見れるTV番組は数えるほどしかありません。
・真面目で筋の通った話以外に興味がわきません。酒を飲んで騒ぐだけの席には必要以外には行かなくなりました。
・とはいえ、現実の世界では「道理は通らない」ことをいやと言うほど思い知らされました。
これは重症ですね~
最近発症した症状は、サッカー番組に、あまり興味を感じなくなった事です。昔サッカーをやってましたのでサッカー番組なら見境なく見ていたのですが。この例は分かりやすいので少し解説します。原因ははっきりしています。
・「フクシマはアンダーコントロールだ」とか「8月の日本の気候は穏やかでスポーツにもっとも適した季節だ」とか嘘をついて誘致したオリンピックに対する嫌悪があって、スポーツ一般に興味がなくなってきた。
・サッカー日本代表監督であったハリルホジッチ氏の解任を見て「サッカー界を動かしているのも金だけや!」とわかり、嫌になった。
この調子では心の居場所がなくなってしまう!どうしましょう!!
でも新たなマイブームも見つかっています。
その1:ボウリングのPリーグ(BS日テレでやってる女子プロのトーナメント戦)に癒されています。
ボウリングって球を転がすだけなのに選手のフォームは様々で個性があり、面白い。賞金はとても食っていけるような額ではないのにみなさん情熱を持って頑張っている。寺下智香プロ、小池沙紀プロ、頑張れ!
その2:たくましく生きているノラ猫にシンパシーを感じてしまいます。通勤途中で見かける猫に丸干しなんかをあげながら、頑張って生き抜けよ!とエールを送っています。かつては忠実な犬を好む犬派でしたが、最近は自由で束縛をきらう猫のほうに魅かれます。これも最近の心境の変化であります。
少し事情がわかっていただけましたか?やっぱりうざい人間だよね・・・・
ということで今後ともよろしくお願いします。
61回目 今年(2018年)の台風にまつわるエトセトラ
61回目 今年(2018年)の台風にまつわるエトセトラ
-「25年ぶりの勢力」から見えてくるものー
<25年ぶりの意味>
2018年9月4日に大阪地方に来襲した台風21号は25年ぶりの「非常に強い」勢力の台風だったそうです。被害については、後程コメントしますが、大きく言って①25年のうちに劣化した部分、②新しくても脆弱だった部分に被害を受けています。
この25年の歳月の意味はどちらの場合にも影を落としています。この25年で社会は大きく変化しましたよね。25年前は私は33歳で、働き始めて10年弱の時期でした。
まずは、もっとさかのぼって私が子供の頃の話。50年ほど前の事になってしまいます。私は岸和田市の山間部のみかん農家の生まれです。この地方では「錣(シコロ)葺き」と呼ばれる瓦葺きの農家が集落を形成しています。
台風が近づくと、皆が外に出て、屋根の棟を針金で固定したり、窓に板を張り付けたりしました。逆に言えば、そういう準備をする余裕があった時代でした。「家族で家を守っていた」時代とも言えます。
この25年で、過疎化が進み、御老人の一人暮らし世帯や、空家が
ずいぶん増えました。自分を最後にこの家に住む人間が絶えるという人も多くいます。このような事情が重なって、メンテナンスが行き届かず、劣化の進んだ家が被害を受けています。屋根瓦を飛ばされた家が多数出ましたが、同じ条件にあっても、あるいは多少古くても、メンテナンスができてる屋根は大丈夫でした。これが先ほどの①の実情です。
ちなみに風の被害は山間部より沿岸部のほうが、はるかにひどくて、写真は沿岸部の事例です。
<これは劣化じゃなくって手抜きでしょ!>
他方、新しいのに被害を受けてる構造物(上記②)もあります。
この25年はコストダウンが致命的な意味を持つ時代でもありました。思えば、1970年頃住宅戸数が世帯数を上回り、住宅不足が解消するとともに、「これからは大量供給から質の時代」と言われた。しかしながらこの流れは飽食の時代へと移り変わり、1991年にはバブル崩壊とともに2010年まで続く「失われた20年」へと急旋回することになった。安価な外国製品と競争するために「質」より「コスト」優先が求められた。そのひずみは今いろんなところで表に顕出されてきました。例えば、神戸製鋼のデータねつ造とかですね。
次の写真は、とあるホームセンターの看板。10年ほど前に開業し
たお店です。勝手な判断は軽率かもしれませんが、どう見ても大きさに対して柱の鋼材の断面が小さすぎると思いますよね。多分厚みは5mmもないように見えます。周辺では、もっと古くても倒れてない看板も多くあります。
上記の看板は、風圧を受けて、柱が折れています。例えば割り箸を地面に突き刺して、先端に水平方向の力を加
えます。割り箸が折れる(=柱が折れる)のは、地面に突き刺した基礎の部分はしっかりしてるのに、上部構造が弱かったということですね。
次は、上部構造ではなく、基礎部分が弱かったという事例です。コンクリートブロックでできたネットフェンスの基礎が壊れています。この事例は建築関係者としては、衝撃的です。
本来フェンスメーカーは、コンクリートの基礎を求めていますが、お手軽で安価なコンクリートブロックで代用する事はほとんど常識的に行われている。特にこの事例のようにネットフェンスで高さも1M程度であれば、風圧の影響はほとんどないと考えてしまう。
しかし今回の台風では、瞬間的には秒速60M程度の風が吹いたと考えられている。これは時速にすれば200KMを超える速度です。F1レースの車のように時速300KMに近づく高速になれば、空気は急激に抵抗が大きくなり、「壁」になると言います。風速が大きくなれば、常時では考えられない力が働くことの証左であり、建築関係者が教訓としなければいけない事例です。
<植樹した樹木は要注意!>
樹木もたくさん倒れました。まずは、街路樹の事例です。写真でお
分かりの通り、根こそぎ倒れています。これは上記のフェンスと同じで基礎部分が弱かったという倒れ方。もし基礎がしっかりしていれば、幹や枝が折れます。
造園の専門家によれば、自然に育った樹木は、上に伸びれば、その分下方向に根を伸ばし、横に枝を広げる樹木は横方向に根を張るという。
そういう見方をすれば、この街路樹は、根の深さがあまりに浅過ぎ!ほとんどちょこんと置いてるだけの状態です。風で倒れるのは当たり前ですね。これを台風のせいだけにして良いものか??
本来ならば、もう少し小さい木から育てて大きくするべきだったのでしょうね。
建物を建てる際に「緑化基準」を満たす必要があるのですが、最近の緑化条例は背の高い木を植えれば、面積を稼げる計算になっています。ますます「風で倒れやすい植樹」が増えることになるでしょう・・
<停電が怖い!>
その倒れやすい街路樹には、大体において電線がからんでいま
す。樹木に被害が出れば、電線も切れる。これはとても悩ましい問題ですね。
超高層マンションの30階に住んでる知り合いは、あちこちで電線に火花が飛び散っているのを見下ろしていたそうです。大阪では、あちこち「まだら状」に停電している地区があって、長いところでは一週間続きました。たちの悪いのは、この停電が果たして1時間後に復旧するのか、ずっと続くのか、全く電力会社から情報が提供されなかったという事。また、北海道地震による停電は、連日報道されて皆が原因を知ることができたのに、(しかも一日余りで復旧した。)こんなに長い間復旧しなかった大阪の停電は、ほとんど原因の追究がされていないのがとても不思議です。これは関西電力の差し金か?
大阪の人たちは、停電は何日も続くかもしれないということを思い知ったので、例えば支払いを電子決済に頼るという事は、しないと思います。また、ガソリン車なので、停電してないところまで移動できたが、これが電気自動車の充電できてない時点ならば、どうしようもなくなっていました。大阪ではEV車が売れなくなったのではと思う!
<最後に自慢話を>
私の設計した実家は、FRP製の格子でできた雨戸を付けました。
写真は閉めた状態ですが、これは全面開放できます。閉めた状態で外も見えるし光も入ってきます。今回の台風では、これがとても役に立ちました。
かつて住宅を設計した住宅の施主からも相談されたのですが、通常、雨戸やシャッターは主に「防犯」の観点から設計し、例えば泥棒の入ってきそうにない2階の窓には付けてなかったのですが、これからは風で物が飛んでくることも考えないといけませんね。