建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

70回目 楽しい農場<Fan-Fan-Farm>その①

楽しい農場<Fan-Fan-Farm>その①

ー栄養のある野菜をつくりたいー

 

<畑を作っています>

 

 今、1300㎡ほどの畑を作っています。現在は畝(うね)の形ができた段階で、これから栽培を始めます。ここまで紆余曲折があったのですが、経緯についてはFace Bookで一般公開しているので良ければ参照ください。(「山本一晃」で検索)

 私の本業は建築設計ですが、この実家の農地を活用して野菜を提供する事業を始めようと思っています。これから始める一連のブログは、そのコンセプトをまとめたものです。

 農業に関しては、このブログで2013年6月13日(15回目)から7月10日(18回目)まで「山本農園便り」として一度文章にまとめました。それから約10年。片手間に農業をかじりながら試行錯誤する中で考え直す必要がある事にもいろいろ気づきました。事業として始めるに当たり、改めて方針をまとめ直そうと思います。

<野菜の栄養は激減している>

 当時から変わらない問題意識は、私が生まれた頃(1960年代)と今を比べて「野菜の栄養は激減している」という事実です。「17回目山本農園便りその③」に詳しく書いています。今の時点で手に入った最新情報は以下の感じです。

AgriweBのサイトより

おたけ(ミスターT)@サプリアドバイザーのサイトより

 こうなる原因については、いろいろな説があります。上記の表は文科省の食品標準成分表を基に各々の方が比較してまとめていただいたものですが、50年前と今では分析方法の違いがあるので単純な数値比較はできないというのが前提です。それにしても少なくなっているのは確かですね。

 上の方の表が掲載されているAgriweBというサイトは、その原因を地力低下にあるのではという趣旨で。有機農業を推進しているようです。

 有機農業」と表現が似ていますが意味合いは異なる方法に「自然農」というのがありまして、私は後者の方法をとろうとしています。おいおい詳しく説明しますが「自然農」の考え方を理解すれば、なぜ今の野菜の栄養が激減しているかはだいたい想像がつきます。

<自分が育とうとする力を発揮させて育てる>

 そもそも野菜が自分に栄養を体に蓄えるのは、人間に食べさせるためではなく、自分の成長に必要だからですよね。

 わかりやすい例をあげます。エンドウ豆は秋に植え付けて、冬越しをしながら養分を蓄え、春に実をつけます。冬越しの間は自分で空気中の窒素を栄養にできるので、肥料はやらない方がよいそうです。他にもキャベツやダイコンも冬越しをすれば甘味が増します。寒さを乗り切るために糖分を蓄えるからです。体液の濃度を高めることによって自分が凍らないようにする意味もあります。

エンドウ豆の冬の様子

 けれども外から食べ物(肥料)をたらふく与えられ、虫などの外敵を農薬で退治してもらえば、体の中に自分にとっての栄養を蓄える必要はなく、どんどん育ちます。そういう環境を人為的に整えて効率的に栽培を行うのが今の慣行農業だということです。これによって安定的な生産が可能となり、農業が産業として成立します。その代償として「栄養を手放した」と言えそうです。

<自然農のやり方>

 自然農では、基本的に土は耕さず、雑草や虫や細菌の地中活動によって土を作ってもらいます。自然にまかせるわけです。作物があくまで自分の力で育つことを優先しますので、雑草は作物が負けそうにならない程度にしか刈りません。肥料は基本的には人間が作物を収穫することによって、畑から足りなくなる分を補います。やりすぎないことが肝心です。農薬も基本的には不使用です。雑草と競合しながら虫に対する抵抗力のある体をつくってもらいます。とはいえこれはなかなか簡単なことではないし、虫への抵抗力を身に着けても鳥には食べられます。従ってほったらかしで育つわけではなく、助けは必要です。

 この10年、いろいろやってみましたが、その年の気候にすべてが左右されるので収穫時期もバラバラだし、収穫量も不安定であることを実感しています。(もちろん私の技量の未熟さも大きいですが)

 自然農の大家である川口由一氏「人の70%できたら良しとしなさい。『足るを知る』ことが大事です。」とおっしゃいます。

 それは本質をついているお話ではありますが、さてそれではこの地で趣味の範疇を超えたことをしようとするとどういうやり方があるのでしょうか?という事を十年間考えてきたわけです。(つづく)

 

 
 

 

69回目 困った時も困らない方法

 困った時も困らない方法

―自己防衛型の管理は人を殺す―

<子供の時、風邪をひいたら>

 子供の時、風邪をひいたら、お母さんがずっと看病してくれたり、おいしいものを食べさせてくれたりして、いつもより幸せな気分になった事はないですか?こんなことならずっと治らなければよいのにと思った事はありませんか?

 子供が苦しい時になるべく楽をさせてあげたいというのは親としてはごく自然な行為ですよね。

<一方避難所では・・・>

 よく指摘されることですが、災害に遭った人たちが身をよせる避難所で、体育館の床に寝かせるのは、日本だけだと言われています。ましてや高さ1Mくらいの段ボールの簡易な間仕切りでプライバシーもなく女性がストレスを感じずに何日も生活できるわけがありません。

 例えば火山の噴火が多いイタリアでの避難所生活はこんな感じです。

 とにかく①プライバシーを守るテント②温かい食事を提供するキッチンカー③シャワーは自治体ごとに備蓄されており、いつでも出動できる状態にあるとの事です。 

 国家が国民に対して親心を持っているなら、心に痛手を負いながら送る避難生活を少しでも快適にする努力をするのが当たり前だと思いますが、この国の対応はとてもお粗末ですね。

 

<行政の危機管理は何のため?>

 思い起こせば2011年3月11日の夕刻、福島第一原発の事故を受けて、政府は「直ちに危険はない」旨の声明を出し、さらには緊急時放射能予測システム(SPDEEDI)のデータを開示せず、避難者を放射能の危険にさらすことになりました。開示されなかったのは放射線量の総量が不明だという、わけのわからない理由からでしたが、放射性物質がどちらの方向に拡散するという情報だけでも公開すれば避難すべき方向がわかるので多くの被爆は避けられたはず。いったい政府は何を守りたかったのでしょうか?

<管理が人を殺す>

 同様の事例は枚挙にいとまがないほど。コロナの感染症対応では、この国は他国に比べて人口当たりのPCR検査数が極端に少なく、とにかく感染者を少なく見せる努力(?)をしてきました。それによって一番守ろうとしたのは「医療体制」であり、感染者ではありませんでした。

 もう明らかだと思いますが、事実をなるべく明らかにせずに、混乱を避けるというのがこの国の基本方針ですね。この国の政府にとって「国を守る」ということは、体制としての国家(State)を守ることであって国民国家(Nation)を守るという事ではありません。

 そのために政府は「管理」を強化します。今回の石川県能登自身の政府対応を検証してジャーナリストの菅井完氏「管理は人を殺す」と表現しました。国が自らの体制を自己防衛するという方針で「管理」をすれば人が死にます。もう少し一般的に柔らかく言えば、「下々の者が切り捨て」られます。

<困った時に困らない方法>

 人が被害を受けても困らない社会を想像します。まずは地震災害について考えましょう。まずは発災直後は水・食料・住まいなどの基本的な物資を迅速に供給する必要があります。これについては先ほどのイタリアの事例のように地域単位でテントやキッチンカーを備蓄しておけば何とかしのげます。この国ではしょっちゅう地震災害が発生しているのに、なぜ同じことができてないのでしょう。ジャーナリストの青木理氏の話ですが、能登地震でまともなトイレで用を足せない女性が、トレーラーで移動できるトイレを利用した際、涙を流して喜んでいたとの事。(多分必要のない)オスプレイ一機でこの(こちらは必ず役に立つ)トレーラーが何百台も買えるのにとこぼしていました。

 少し前の首相が「まずは自助と共助、それでもだめなら公助」と言ってましたが、逆ですよね。備蓄して準備をすることが可能なのは「公」だけです。地震はどこで発生するかわからないですから、全国をカバーできるのは国だけです。このあたりにこの国で準備が進まない原因がありそうです。「公」が最低限の生活を保障してくれているという安心感があれば、個別の対応で「自助」「共助」にいそしむことができます。

  その場を何とかしのげれば次はこれからの生活を再建する必要があります。住宅の再建については2000年の鳥取西地震までは個人住宅に対する公費の補助金は存在しませんでした。この文章を書いているのは2024年1月31日ですが、この時点で政府が検討している補助金は住宅全壊で300万円、半壊で100万円との事。再建しようとする場合はほとんどが個人負担です。今避難している人達は、その場しのぎの衣食住と共に、こういった不安を抱代えているはずです。

<社会的に考える>

 多くの地方で同様ですが、能登地方は高齢化が進み、住宅を再建する意欲に乏しい住民が多いとの事。当たり前ですよね。この人たちにとっては、持っていた土地を買い取ってもらって、その分で公的住宅を借りれたらよいというのが希望としては多いでしょう。その役割を国が担ってくれればとても安心です。しかしそういう発想で国は運営されていません。

 能登地震の場合は同時多発的に多くの人が困った状態に陥ってますから、政府も何かしないといけないという意識がありますが、空き家耕作放棄については、同じことが日常で起きています。私は山間部のいわゆる田舎に住んでいますが、農地や空き家の処分に困っている人がたくさんいます。これらに人には全く公の手は差し伸べられていません。国が引き取ってくれて活用を考えてくれたらどんなに助かるか!

 こういう考え方は個人より社会に重点を置く考え方です。社会主義というと旧ソ連や中国の国家体制と誤解されそうですが、むしろ正反対で、市民の意思を重視した社会民主主義の考え方です。具体的にはスエーデンやデンマークといった北欧の国々の社会体制です。基本的な生活のベースは国の負担となり、医療費や教育費は基本的に無償です。

 以前確か関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」というTV番組で、関口氏が北欧を旅した際、「日本もこういう豊かさを目指していたのではなかったか?何か間違ってしまったのではないか?」という意味の感想をのべてました。

 もちろんこういう体制を維持するためには代償も必要です。政府予算は増大しますから、税金は高くなり、国民の財布の中はあまり豊かではありません。その代わり不安もないという仕組みです。「自己責任」「格差」とか新自由主義とは対義語だと思えばわかりやすいかもしれません。ただ、そのためには国民が政府を信頼でき、国民が政府をハンドリングできているという意識が必要です。これは今の日本にとっては、高すぎて超えられないハードルに見えますねえ。

<「加速主義」という考え方>

 社会学者の宮台真司は、今の政治家や官僚の行動原理を理解したうえで、このままではどうあがいてもまともな民主主義には向かわないと見限った上で「加速主義」を主張します。社会の崩壊が加速して「カタストロフ」と言える悲劇を迎えないと変革はできないだろうという考え方です。理解はできますが、今がそんな社会であること自体が悲劇的ですね。

<少しの希望>

 もし希望があるとしたら北欧の国々もかつては普通の資本主義国でありましたが、政策の決定権をどんどん国民に降ろしていくことにより今の体制がつくられたという事実です。北欧の国々の思想については当ブログ2013年9月13日付「そもそも私たちの目標は何だったのだろう」でも少し詳しく述べていますし、関連として2013年12月19日「『苦難』を克服するもうひとつの方法」でも社会の「包摂」について述べました。今回は特に能登地震にたいする対応を見て同様の感慨を強くしました。

<最後の救い、あるいは抵抗?>

 前出の宮台真司もよく語っていますが、そういう世の中を生き抜く手立ては「仲間をつくる」ということです。社会がどうしようもないとしたら、どうしようもある小さな社会を自分のまわりで作ろうということだと思います。思えば歴史上、常に不合理はあるわけであり、いつの時代でもそう思って人々は生きてきたのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

  

 

68回目「らんまん」と「大阪万博」一方「泉大津市長」

68回目「らんまん」と「大阪万博」一方「泉大津市長」

ー見えるものと隠れているものー

 

<最近のこと>

 最近以前よりも本格的に農業を始めました。これについてはちゃんと整理して文章にする予定ですが、人に遊びに来てもらおうという意図もあり、FaceBookでは畑をつくる様子を公開しています。

 (以下個人的な事情ですので次の段落まで読み飛ばしてもらって結構です。)

 そんな中、FaceBookに見ず知らずの方から丁寧な友達リクエストが届きました。このブログを読んだことのある方ならお分かりかと思いますが、私は世の中に批判的な意見を吐露することも多く、そういう人間は、はたから見ると「うざい」存在であることも自覚しています。ですのでFaceBookのようなオープンな空間では、迷惑を拡散しないためにも、ある時期から原則的に友達は増やさない事にしました。共感してくれる方は、ブログを選択してもらえばよいという考えです。その旨その方にお伝えしました。

 ただ、ひょっとしてその方がブログを読んでくれるならば、しばらく更新していない状態も失礼かなあ、と思い、最近思ったことを綴ろうと思いました。

<「らんまん」を見てました>

富太郎とすえ子

 NHKの朝ドラ「らんまん」は先日終了しました。もともと朝ドラを見る習慣はなかったのですが、自宅勤務になったのと、農業してると天気予報を必ず見るので、続きで見るともなく朝ドラを見ていたところ「カムカムエブリバデイー」で市川実日子さんが出演してたのが目にとまり、毎日見るようになりました。ただ次の二作は正直脚本が薄っぺらかった。

 「夢は願えばかなう」という単純なお話がご都合主義的に展開されるだけでは、白けてしまう。少し脱線しますが、中島みゆきさんの歌が心に響くのは、それを超えた所に人生のひだがある事を感じさせてくれるからです。

 次のドラマは「牧野富太郎」という実在した植物学者がモデルだという。男性が主人公?今回もあまり期待はでけへんなあ~と思っていました。ところが・・・

 まず脚本が面白かった。主人公の万太郎(現実は富太郎)を含め、登場人物は欠点もあるが魅力的。私が一番気に入っていたのは、万太郎が窮地に陥った際、周りを説得するセリフです。現実では「理」が通らないことも多いですが。ドラマでは皆、万太郎に説得される。これもご都合主義と言えなくはないが、そこがスカッとさせてくれる。ご都合主義の使い方が上手でした。

 ところが、現実の様相はいささか異なります。まず現実の富太郎の方は、土佐に妻を置いて上京し、すえ子と知り合い、(本妻とは後日離婚しますが)何と(!)13人の子を持ったという。お坊ちゃん育ちの浪費癖により借金を重ね、実家の酒屋をつぶしてしまう。(借金は研究費よりも女郎屋通いが主だったようで・・)その後も懲りずに借金を重ねる富太郎を見かね、ドラマにも出てきた三菱財閥の岩崎が当時億単位の借金を肩代わりする。それでも借金を続けるのを見て愛想をつかされるがまた次の出資者(池長氏)が現れる。すえ子も待合茶屋を経営して資金を賄ったという。とにかくそれだけ魅力のある人物であったことは確かなようです。

大阪万博の表と裏>

万博会場現在案

 現実の富太郎には少しびっくりしますが、ドラマの面白さとは関係はないし、現代の人々に害がおよぶわけではありません。しかし「大阪万博」はそういうわけにはいかない。こちらの裏の顔は、予算の上積みが必要ということで隠れていた問題がやっと現れてきました。

 おそらく一番は軟弱地盤の問題、その他、交通アクセス、給排水などのインフラストラクチャーの問題、建築工期の問題。これらは開催地をこの埋立地にすると決める時点で検討されていなければならない話です。それが政治家の権威にかき消されて、今まで隠されていたわけですね。建前上はなるべく人の責任にできる言い訳がされていますけどそんなことはあり得ません。

 実は私の大学時代の友人が定年まで大阪市役所で、万博の責任者をしていたが、定年後、大病を患って今も再就職できていない状態。おそらく、あちらを立てればこちらが立たない無理難題を背負わされていたことは想像に難くない。なんで政治家のメンツを保つためだけに周りが被害を受けなあかんねん!!!物事を論理的に考えずに、権威を振り回す人物に権威を与えてはいけません。

 少し脱線しますがこれは、当初の会場配置案です。

        

 コンセプトは「あえて中心を創らない分散配置」私はこちらの方が断然好きです。「分散」+「多様性」は、あるべき21世紀の社会モデルなのですが、現実は逆行し、「勝ち組」になるためのスケールアップがいたるところで進行し、権威(中心)をもった者が独占を強める動きが加速している。それに伴い「自主性」はどんどん奪われる。

 付け加えられた「リング」はまさにそういった傾向の象徴に見える。まあそんなややこしい話は抜きにしたところでこの構造物は明らかに「過剰」と思いませんか?建築の専門家として、巨大すぎて雨除けの役にも立ちそうにない屋根を200億もの費用をかけて作るのは全く理解できません。

付け加えられた「リング」

 <そして「泉大津市長」>

泉大津市長南出氏

 なかなか表に出ない裏側の事実をちゃぶ台返しのようにひっくり返しているのが泉大津市長の南出氏です。「10月から始まるワクチン接種の前に知っていてほしい事実」として解説されていますが、20分弱のビデオメッセージは「ホンマかいな~」「うそ~」の連続です。ここで述べられている「事実」は、公のデータであるにもかかわらず、一般の人々が普段接することのないところにこっそり置かれている事実なんでしょう。本来、その仕事をするのは「マスコミ」のはずですが、福島第一原発の「汚染水放流」と同じく大本営発表しか報道しない人たちには到底無理な話。同じく政権よりの政党に属している市長さんには、決してできない芸当です。南出氏の出自は良く知らないので、もろ手を挙げて称賛するのは、よい事かはよくわかりませんが、このメッセージは素晴らしいです。とにかくご覧ください。

新型コロナウイルスに関する市長メッセージ(R5.9.20) - YouTube

<とにかく栄養のある野菜を作りたい!>

 冒頭で言った通り、農業についてはいまやろうとしていることをまとめますが、唯一の目的は「とにかく栄養のある野菜を作りたい!」そのためにいろいろなことを考えています。

67回目 心を休める時間について

 67回目 心を休める時間について
ー立ち止まって、ゆっくりとー

<せわしない日常>

 若者が数人たむろして暇を持て余しながら「なんか面白いことないかな~」とつぶやく。かつては日常的にあった光景ですが、今は見られません。今はみんなスマホの画面を見つめていますよね。
 最近のTV番組は、例えば1時間番組の場合、「視聴者が1時間じっと画面を見つめて番組を見ているということはない」という前提で場面構成をしているという。たしかにそうです。本当に見たいなという番組が少ないこともありますが、ほとんどBGMとしか認識していない。じっとしている時間がもったいない。逆にそれがろくな番組ができない原因になっているのかもしれませんが。

<女木島の美容室>

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 鏡ではなく海を見ながら髪を切ってもらう。そんな美容室が高松市の沖合に位置する女木島にありました。この美容室は、瀬戸内国際芸術祭の作品としてつくられたのですが、なかなか鋭いアイデアやなあと思いました。
 髪を切ってもらってる時間は、強制的に休息させられる時間です。もちろんスマホは見れませんし、まあ無理やり雑誌を見ることもできないではないですが、私の場合はたいてい散髪屋さんと無駄話をしています。ならば、その間、うっとうしい自分の顔を見るのではなく、美しい風景が見られたら、心が休まりますね。平静な心持で物思いにふけることもできそうです。
 この美容室はドキュメンタリー番組で紹介されていたのですが、例えば50歳になる人生の節目として髪を切りに来た女性もいました。どんな思いで髪を切ってもらっていたのでしょうか?美容師さんによれば、髪を切ってるときに鏡を見たいといった人はいなかったそうです。
 他にこのような時間を持てるのは、寝てるとき以外は、病院で点滴を打ってもらってる時くらいではないでしょうか?

<心の傷を癒すこと> 

 TV番組で、もう一つ別の場面構成の手法として、ローラーコースタームービーのように展開を速くして、息をつかせないことによって画面に注目してもらおうというやり方がある。「相棒」なんかその一つだと思います。確かに退屈しないのでチャンネルを変えるという機会を少なくするという意味では成功しているかもしれませんが、見ながら物を考える隙間もないので、いわば「思考停止」させる番組ともいえる。
 「心の傷をいやすこと」(NHKの土曜9時ドラマ。R02年1/18~2/8計4回)は意識してその真逆の作り方をやってるのではないかと思う。主人公の精神科医のセリフはテンポが遅く、ボソボソという感じで聞き取りにくいので、TVの画面に近づいて見てしまう。もちろん精神科医が患者に話しかける際は、時間をかけて相手の気持ちや反応を考えながら話すものでしょうから、当然そうなるのですが、ドラマ全体がそういう場面展開になっている。多少じれったいと感じる部分もあるが、いろんな事を考えさせる内容なのでそれにふさわしいテンポだともいえます。

 実は、このドラマの主人公のモデルであり、原案作成者である安克昌(2000年没)は中学・高校の同級生であり、机が隣同士だったこともあるので、特別な思いで見ています。

 彼は、阪神淡路大震災後、心の傷ついた人々を診ながら、当時まだ深く認識されていなかった「心のケア」の概念を手探りで確立していった人物です。

 どんなに慌ただしくって混乱状態であっても、心の傷を癒す診察においては、ゆっくりと、ゆっくりと話に耳を傾け、アドバイスを与える、それがこのドラマのペース配分です。したがって多くのストーリーを描くことは不可能で、凝縮された言葉が淡々と流れていく。私としては、もっと患者との会話シーンを長くしてほしかったなーと思いましたが。

<36時間に来ませんか>

 自分のペースで生きると24時間で足りないのであれば、1日を36時間にしてしまおう!

  ゆっくりゆっくり 悲しみは癒えるだろう
  大切に大切に 愛する人と歩くだろう
  おそるおそる 人は変わってゆけるだろう
  追いつめられた心たちよ 36時間に来ませんか
  (中島みゆき 「36時間」)

<私の日常>

 私も今年で60歳になります。認知機能は徐々に低下してる。ものを忘れないように、極力メモを残すようにしてますし、動作がどうもぞんざいになりがちなので、ドアを閉めたり、スイッチ操作などはなるべくゆっくりするようにしています。
 ゆっくり過ごしたら、悩みが解決するわけではないですが、慌てるのはダメなのは確か。本当に一日が36時間になればいいんですけどね・・・

 

 

 

66回目 私はファミマ猫

66回目 私はファミマ猫
ー生きていてもいいのかにゃ~(私の「にゃん権」のこと)ーf:id:rib-arch:20200203134152j:plain

 

私です

 誰かが近づいてくる。私はほとんど反射的に、ちょこんとお座りして「にゃおん」と鳴きます。すると何人かの人は足を止めてこっちを見てくれる。何度も繰り返してるとそのうちまた何人かの人は、食べ物をくれる。いつも何か食べるものを持って来てくれる人もいます。
 「にゃおん」というねこなで声は、本来は親猫におねだりする時の鳴き声なんだけど、生まれた時にはどっかに行っちゃってたので、私にとっては、道行く人が親代わり。で、こうやって食べ物をねだって生きてきたの。
 私はファミリーマート横の物置の下で生まれたサビ柄のメス猫。おととしの暮れに生まれました。最初は茶トラのおにいちゃんと二匹だったけど、おにいちゃんは、オス猫の習性で旅に出た。今頃どうしてるかなあ~

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お兄ちゃんです

 でも、ノラ猫生活はなかなか大変!今の街で、猫が自分で食べ物を見つけるのは難しい・・だからあまりおなかが減ったときには、仕方なく、ファミマから出てきた人の足元にまとわりついておねだりする。
 時々飼い猫を見かけるけど、空腹なんかに縁がなさそうで、とってもうらやましい!!なんでこんなに差があるんだろう?私はこのまま生きてていいのかにゃ~

<人権ならぬ「にゃん権」について>

 ということで、筆者はファミマ猫のねこなで声に懐柔され、食べ物を運ぶ人間の一人です。私自身、自分で食い扶持を探しながら働いてる身なので、ノラ猫の気持ちはよくわかる。私が見えたら、こちらへ食べ物をもらいに走ってくる姿を見ると、こちらまで癒されます。何とか生き延びてくれ!と思う。
 一方、世の中では「動物のエサやり禁止条例」ができたり、「ネコに餌をやらないでください」という張り紙を見たりする。誰かに迷惑がかかっているとは思えない場合でもそういう理屈がまかり通っているのはなぜでしょう?ネコに人権ならぬ「にゃん権」は存在しないのか?
 そもそも、「人権」とは、何か?憲法学者木村草太氏によれば、「想像力を働かせて自分とは異なる人の立場になってみること」というものです。わかりやすい考え方ですね。この考え方に従って、「困窮した人は助けないといけない」→「最低限の生活の保障」となるし、誰も人に殺されたくはないから、殺人が罪になったりするわけですね。

<動物の権利(アニマルライツ)の一般的な考え方> 

 もちろん、「人権」と同じレベルの権利を動物に認めることは不可能です。動物といっても、ペットや食用動物から野生動物までいろんな立場(?)があるので、社会的な慣習とか、個人の感情とかにより、千差万別の考えがあります。
 アニマルライツセンターによれば、一般的な概念としては、「苦痛を感じる能力に応じて、動物には人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある。」というものです。
 これは、哲学者のピーター・シンガー「功利論」に基づく概念で、比較的現実と折り合いをつけている。さらに動物の権利を認めて、商業畜産や動物実験を禁止しようとする概念を唱える人もあるのに対して、動物の苦痛を伴う殺害や残虐行為を止めれば十分だとしている。従って、苦痛を伴わない殺し方をして、食用にすることは認めるということですね。でないと牛も豚も食べられなくなります。ただ最低限として「動物が持っている唯一の権利は、平等な思いやりを受ける『権利』である」としています。
 もちろん、これはあくまで環境倫理学の概念であり、現実のルールがこれに従っているわけではありません。

<人間の身勝手さと差別意識について>

 では、「ネコにエサをあげないでください」というルールは正しいルールでしょうか?上記の考えによると、「エサをあげない」ことは、直接苦痛を与えていないという意味では、論理に反していないともいえる。ましてや「(最近あまり見ませんが)ノラ犬を放置すると噛まれれば危険だし、狂犬病が蔓延するおそれもあるのですべて駆除しよう」というルールは正しいように聞こえる。

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 でもファミマ猫や私の立場からすれば「私らは誰にも迷惑をかけてないから、みそくそ一緒にしないで!」ということになります。

 わかりやすく考えるために、人間対動物ではなく、人間対人間で考えましょう

[ケーススタデイ1] 例えば犯罪を犯した人は、個別に裁かれるのはあたりまえですね。ところが、ある外国人(C国人としましょう)が犯した犯罪については、C国人は、危険だからみんな排除しようという傾向になりがちですね。C国人の犯罪率が、この国の犯罪率より低いかもしれなくても、そう考えがちです。どうも人間は自分の属さない集団については、個人個人ではなく、みそくそ一緒に考えがちです。これが「差別」であり、ヘイトスピーチに結び付く。

[ケースステデイ2] 人間対動物では、人間が動物を支配しているので、支配する側がルールを決めるのが当然だと思っている。これが人間対人間で考えるとちょっと違ってきます。
 例えば、中東なんかでは、軍事的に支配されることにより、いつロケット弾が飛んできて、命を落とすかもしれないという人々がいる。支配されているほうの人々から見ると、たまったものではありません。ましてや「食料の供給ルートを断つ」と支配する方が勝手に決めてしまえば「死ね」と言ってるのと同じことですね。

 上記のスタデイを踏まえれば、動物の権利が「人間と平等に思いやりを受ける権利」しかないのだとしても、人間と平等の思いやりを受ければ、「ネコにエサをあげないで」とみそくそ一緒にしたルールはおかしいのでは、と疑問を感じてしまいます。場合によっては「死ね」といってるのと同じことですから。皆さんはどう思いますか?

<「ホモ・サピエンス全史」の問題提起>

 少々話は大きくなります。ホモ・サピエンス全史」(を読んだ人)によれば、最終章でホモ・サピエンスは他の人類を滅ぼし、地球を支配し、めざましい進歩を遂げてきた。これを支配された動物の歴史のほうから見れば、ほとんど「食われる」か「飼われる」対象しか残っていないという、とんでもない歴史である。ホモ・サピエンスは今後神の領域に近づき、ホモ・デウスを生み出すであろう。その時人類は幸せといえるだろうか?」という問題提起がされているそうです。
 支配する方が、全体のことを考えずに、自らの利益のみを追求すればどういうことになるかは、今の政治を見て明らかで、いやになってしまいますね。
 環境倫理学の現在の考え方は、先ほどの「功利論」からベアード・キャリコット全体論へと展開されています。すなわち、「環境」にとって見れば、「人」は時間的にも空間的にも小さすぎる存在であるため、その時のニーズで物事を決定すれば、生き物の住む場所が壊れ、かえって人の尊厳も失われる。そうではなくて、環境全体をひとつの生き物としてとらえたときに、自然な答えを出す必要がある、というものです。
 そう考えれば、一概に人間の害になるものはすべて排除すればよいという結論にならないと思いますし、やはり今回は駆除が必要だという結論になるかもしれません。

<ファミマ猫との距離感>

 ファミマ猫は、人が近づいても逃げずに挨拶をしてくれるという、ノラとしては半人前のネコです。しかし1M以内には寄せ付けないし、食べ物もこちらが見てる間は警戒して食べないというところはノラっぽい。決して飼い猫にはなれません。その距離感がなかなかたまりません。
 私は昔はイヌ派だったのですが、最近は断然ネコ派になってしまいました。
 

 

 

 


 

 
  

 

65回目 ミスあゆみはミスターあゆむを軽やかに踏み越える

65回目 ミスあゆみはミスターあゆむを軽やかに踏み越える
ーれいわ新選組のユニークな候補者たち(安冨歩編)-

安冨歩さんという人物>
 れいわ新選組の候補者として東京大学教授の安冨歩が登場した際、思わず快哉を叫んだ。何というユニークな人選!
 安冨氏と言えば、女性装が際立ちますが、氏の話を聞いていると、単に女性の恰好が性に合っていたという以上に深い内面の挌闘があったようです。氏の事は女性装以前から知っていましたが、経済・歴史・宗教など幅広い分野の知識により、鋭い文明批評を行っていました。ただ女性装をしてから、開放されたというか、リラックスして活動しているように思います。
 今回の主張は「子供を守ろう」というシンプルでいささかお茶目なものですが、その背景には深い思考と洞察がありそう。
 氏の事は半分も理解できているとは思えませんが、氏の言葉をもとに、氏の世界に少しでも入り込めたらと思います。

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<教育についての二つの質問>
 氏は街頭で親たちに質問をします。
質問その①:「今、学校へ行って6時間授業を受けれますか」
 →ムリですよね。おとなは「お金くれなきゃ行かない」と言うだろうというのが氏の見解。私も「絶対ムリ!」です。なぜ子供の頃、平気でそんなことができていたのかわかりません。授業もそうですが、退屈な校長先生の訓話を聞いたり、体育座りして、順番を待ってたり、今なら我慢ができませんね。
質問その②:「学校で習ったことを覚えていますか?」
 →人によるでしょうが、微分積分や行列って何だったんでしょうね?全く思い出せません

 氏はこの結果で学校の授業がいかにムダか、ご飯を食べられない子や暴力をうけてる子がいるのになぜ授業ができるのか、その前に学校は子供たちを救う基地であるべきだ、と主張します。

 そもそも学校は軍隊教育の子供版だった。戦前は「天皇の子」としての臣民になるため枠をはめる必要がありました。戦後もその流れが続いていますから、枠からはみ出ないように「標準化」することはむしろ善であったわけですね。これが今の時代に合ってない事はいうまでもありません。枠からはみ出した子供にとっては苦痛でしかありません。

<父性から母性へ>

 候補者発表の際、氏は語りはじめました。

今の国民国家の仕組みは機能不全に陥っており、まるで「豪華な地獄」です。もはや「政策」でどうかなる段階を超えており、原則を変更しなければどうしようもない。
 私にとってはそれは「富国強兵」から「子供を守ろう」です。

 これはまさに「父性から母性への転換」ですね。これは氏自身の人格をかけた転換でもあったわけです。(まるで冗談みたいですが!)
 氏は、自分は「児童虐待からの生存者です。」と語っています。氏の両親は、戦時中の思想をもって厳しく氏を育てた。「あゆむ!そんなことをしたら、兵隊になれません!」と教育(?)されたそうです。
 女性装はそんな自分からの脱出でもあったわけですね。「あゆむ」と呼ばれることにも抵抗があって、今は「あゆみ」と名乗っています。両親とのすさまじい葛藤があったわけですね。

<ミスあゆみの選挙活動>

 氏はステレオタイプの選挙活動はしていません。「ユーゴン君」という白馬と練り歩いたり、音楽家片岡祐介とラップ風の音楽に乗せて主張を語ったりしています。一見すれば、真剣に当選する気はないように見える。ただ一人でマイクを握って話し始めると、聞いてて胸を締め付けられるような気分になります。
 氏が候補者発表の際、最後に語った内容が、その本気度を示している。それはもし当選したら得られる「国政調査権」を使ってこの国の国家の仕組みを解明したい、ということです。これはかつて民主党石井紘基議員が、特別会計の闇を調査していて暗殺された事実を踏まえている。氏は石井議員を最も尊敬する政治家だと言う。

<大西つねき氏との対照が面白い>

 63回目で紹介した大西つねき氏と安冨氏とは根本的な考え方で共通している。それは、
・今の社会システムは根本的に変革しないとどうしようもない。
・経済成長はもはや幻想でそれに依存しない社会を目指す必要がある。
・無駄な時間の使い方を無理強いされるのは間違っている。
といった共通の方向性を持っている。ただ、その表現の仕方が対照的で面白い。
 大西氏はひたむきに理屈立てて自己の考えを説明する。その説明はとても上手で説得力があり、その内容によって希望を与える。
 対して安冨氏は先ほどのように、肩の力が抜けた緊張感のないやりかたで、少数の人に対して語りかける。ただその内容は豊富な教養に裏付けられており、融通無碍。創価学会員の野原ヨシマサ氏のあとに登場すれば、野原氏の話をうけて仏教思想の話をするし、なぜ馬が選挙に登場する必要があるのかを語ったり・・・

 この二人はよいコンビになると思うのですが!!!

 

 

64回目 「当事者主権」について

64回目 「当事者主権」について
     -れいわ新選組のユニークな候補者たちー

<れいわ新選組の候補者選定>

 党首の山本太郎は、当事者を国会に呼ぶ!」というコンセプトで候補者を選定したという。結果、とてもユニークでチャーミングな候補者たちが集まりました。

はすいけ透氏:元拉致被害者の事務局長、拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」というショッキングな本の著者

安冨歩:東大教授。女性装で話題に。官僚言葉を「東大話法」と揶揄する。

木村英子氏:重度障害者。障害者支援法と介護保険法の統合による不合理を指摘している。

三井よしふみ氏:元コンビニオーナー。日本におけるフランチャイズ制の搾取構造を訴える。

野原ヨシマサ氏:沖縄の創価学会員。公明党と学会の理念のかい離、沖縄の基地問題を訴える

辻村ちひろ:環境NGO職員。身近な環境破壊について警鐘をならしている。

大西つねき氏:元JPモルガンのデイーラー。前回紹介しました。経済のエキスパート

ふなごやすひこ氏:難病ALS当事者、全身麻痺ギタリスト、株式会社アース副社長!

渡辺てる子氏:元派遣労働者・シングルマザー、ホームレス経験もあり。演説はすごい迫力!

それぞれ明確な主張があり、ぶっとんだ人達ですね。

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<「当事者主権」とは>

 山本太郎氏の主張を聞いて、「当事者主権」という言葉を思い出しました。これは同名の著書(中西正司・上野千鶴子共著)で提示された概念です。
 まず「当事者主権」とは何か、について同著から引用します。

 「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、当事者とはサービスのエンドユーザーのことである。(中略)当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれもー国家も、家族も、専門家もー私がだれであるか、私のニーズが何であるかを変わって決めることを許さない、という立場の表明である。」

 前述の木村英子氏ふなごやすひこ氏は介護がないと活動ができない。そういう人は立候補するのではなく、「代議士」を建てるのが筋だ、と指摘する人もいます。はたして代議士はその役割を果たせるでしょうか? 
 前述の三井よしふみ氏は、コンビニの労働環境問題を国会で取り上げてもらおうと、大物政治家に面会したところ、「票に結びつかない」と断られたという。
 代議士はニーズの把握はできても、それをダイレクトに伝えてくれるとはかぎらないわけですね。それなら直接訴えるしか方法がありません。これが「当事者主権」です。

<「主権」の持つ意味>

 ここからは私の解釈です。「主権」は「自分の事は自分で決定できる権利」のことです。なんで「権利」という言葉を使わないと聞き入れられないかが問題です。
 「福祉政策」といえばなんとなく「恵まれない方に施しをする」というイメージがある。これでは「お願いして費用を出してもらい、押し戴く」という態度になってしまいます。
 そうではなくって、これは「生きる権利」なのだから、堂々と主張すればよい、という意味が込められていると思います。

<どちらも同じ制度です>

 少し考えてください。「42回目「円」のホットスポットについて」で詳しく説明しましたが、お医者さんが老人ホームへ行って週5日健康診断をすれば、手取り100万円程度の収入になります。
 一方、同じ場所で働いている介護ヘルパーさんたちは、24時間介護の責任を負いながら、低賃金で働いている。
 激務に苦しむお医者さんの話も聞きますが、上記のように比較的楽な仕事で安定した高収入を得るお医者さんもいます。親を施設に預けている私の立場からすれば、介護ヘルパーさんのほうがよっぽど重要な任務をしてくれている。
 では、なぜこんな格差が生じるのかと言えば、単に「制度」がそうなっているだけの話ですね。上記のお医者さんの高収入を支えているのは単に医療保険の点数がそう決められているだけです。介護ヘルパーさんの給料が安いのも介護保険制度がそうなっているだけの話です。これらは我々の「代議士」さんが決めている。

 お医者さんの給料の源泉は、9割とか7割は一般市民の支払う健康保険料です。いわば、一般市民の「施し」ですわ。障害者に支払われる障害者支援と何ら変わるものではありません。お医者さんは、自分の給料は当然の権利として受け取っています。障害者支援金も当然の権利として受け取ってよいわけです。それが不足であれば、要求しないといけません。

<制度やルールの在り方が不合理を生む>

  前述の木村英子氏の訴えている「障害者支援法と介護保険法の統合による不合理」の話。現在、障害者は65歳になると「障害者」ではなくなり、介護保険法のみ適用される「高齢者」になるという。その時点から、介助者を探して在宅で生活していた障害者が、介護ヘルパーによる介護に切り替わるため、施設に入所を余儀なくされる。しかし障害者の症状は千差万別であるのでなかなか介護ヘルパーでは対応できないのが現状だそうです。
 これが我々の「代議士」が作ったルールです。「当事者」が声をあげる必要性がよくわかりますね。

 他方、お医者さんは何かと優遇されている。その理由の第一は、利益団体としての医師会の政治力ですね、多分。医師会が自分たちの利益を守ろうとする態度はあからさまです。私の娘は精神保健福祉士ですが、彼女によれば、精神疾患に携わる臨床心理士の診察には医療保険は適用されません。医師会が拒否し続けているそうな。これは故河合隼雄の宿願でしたが成就していない。自分たちの利益が減ることを拒否しているわけです。
 お医者さんは命を預かる仕事であるから、十分な給料をもらうのは許されると思うのは一般感情ではありましょう。でも恐らくそれに乗じて、手厚すぎる費用配分になっているというのが、先ほど挙げた事例です。国民から(強制的に)集めたお金が金額的に適正か?その配分は適正か?恐らくそのチェックが機能していません!!というか、はっきり言って、健康保険料は、権力のある人たちの餌食になってるのだと思います。

<強制的な徴収は不合理の温床だ!>

 とにかく「強制的に料金を徴収する」というのは不合理の温床です。最後にすこし話はそれますが、NHKの話。
 最近NHKと打ち合わせをすることがあった。うちの実家は山間部の難視聴地域でありまして、共同アンテナ設備を介して各戸にTV線を引きこんでいる。この設備のうち本線部分はNHKの所有になっているが、なぜだか管理は地元住民がつくる組合が行うことになっている。年月が過ぎて山の中で生い茂った樹木を伐採しろという。NTTや関西電力は、樹木の枝がかかってくると、切ってもいいですか?と連絡してきてちゃんと切ってくれる。ましてや独占企業であるNHKがなぜ自ら所有する配線をメンテナンスしないのかと問うたところ、「そういうルールなんです。」という答えしか返ってこない。
 NHKの職員の平均給与は1100万を超えている。内部留保は700億を超えている。NHK受信料の徴収額は過去最高を更新し続けている。なんでやねん!!!これについては国民全員が「当事者」ですよ!!!!