建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

63回目 「お金で考えてはいけない」と思いたい!

 

 

63回目 「お金で考えてはいけない」と思いたい!
     -大西つねき氏のワクワクする語り口ー

<最後のピースが見つかった!>

 お金のことを考えずに暮らしたいと思いますが、なかなかそんなことはできません。現に今も、今年度の仕事の見込みが定まらず、不安をいだきつつも(結果、時間があるので)この文章を書いています。
 最近ネット上でMMT理論(近代貨幣理論)」について解説する動画が散見できる。簡単に言えば

「インフレにならない範囲では、自国通貨建ての国債をいくら発行しても破綻することはない」

 という、一見うさん臭そうな理論です。金をばらまきたい議員が飛びつきそうな考え方やなあ、という気がしますよね。ここで詳しくは解説しませんが、間違ってはいないようです。

 中野剛志氏の解説→三橋貴明氏の解説の動画を見た後、(どういう素性の方かと思いながら)大西つねきという人の動画を見た。タイトルはMMTの前に理解すべきこと」

 最初、説明の上手な人だと思った。約20分後、いままで欠落していた知識の空白部分に最後のピースがはめられて、「経済」の全貌がわかったような気になりました。

<「経済成長」をめぐるジレンマ>

 多くの人がそう感じていると思いますが「経済」のことはどうもよくわからない。わからないながらも、しつこく様々な方の言葉をひもといていると、これは正しいと理解できたこともあった。それは、

 「経済成長には限界があり、以前のような成長は不可能。
従って、『経済成長に依存しない社会』にシフトする必要がある。」という事実です。 

 これは、多くの識者が根拠をもって説明しているにもかかわらず、政治家はもとより、一般的にはほとんどタブーとなっていますね。

 根拠のひとつで一番シンプルなのは「人口減少」です。この先人口が1割減少すれば(これは十数年後と推計されています)GDPの6割を占める個人消費は1割減少する。約6%のGDPの減少分を労働生産性の向上とかリノベーションで埋められるはずはありません。
もっと詳しく知りたい方は水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」をお読みください。

 先ほどのMMT理論に関する中野剛志氏や三橋貴明氏の解説に納得いかなかったのは、「国債をどんどん発行して財政出動すれば経済成長を取り戻せる」という論点でした。

 これに対して、多くの識者はまた「今の金融資本主義は『経済成長』がないと成り立たない」とおっしゃる。これはどういう意味なのか?もしどちらも正しいとすれば、解決策はないのか?というのが埋められない部分でした。

<しくみを変えなければ解決できない!>

 まず金融システムと経済成長の関係が明快に説明された。結論から言えば、今の金融システムは、経済成長なしでは成り立たない。なぜなら、お金は誰かが借金することでしか増えない。(「信用創造」といいます)借金は利子をつけて返さないといけないので、全体としてお金が増えないと借金を返せない。そのためには経済成長して経済が拡大する必要がある。
 しかしバブル崩壊以降、経済成長は鈍り、今はほとんどゼロ成長である→銀行の貸し出しも増えていない。→お金の総体(マネーストック)は増えないといけないので不足分は国債が埋めている。この先経済成長する前提条件もあり得ない。
 というのが現状であるが、こんなシステムはいつかは破綻する!
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氏の解決策としては、
①借金によってお金を作り出すというしくみ自体を変えないといけない。
財政出動する際は、借金をすれば利子が将来世代のつけになるので国債によらず、政府通貨によらねばならない

ここまで明快な説明は聞いたことがありませんでした。

<大西つねき氏の理念>

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 もちろん、そう簡単に実現できる解決法ではありませんが、筋道を通して考えれば、やらないといけないということです。この事実を直視せずに、「経済を成長させるんだ!」と意気込んで失敗し続けているのが現状ですね。浜矩子氏はアベノミクスを「浦島太郎の経済学」と批判しています。
 大西つねき氏は、この転換を実現するためには政治の力が必要だと考え、自ら政治団体「フェア党」を立ち上げ、活動しています。
 単に上記の変革をするだけでは、人々は幸せにならない。あまりにも世の中不合理が多すぎる。そもそも国家経営の本質とは?ということから理念を組み立てて講演を行っておられます。

 くわしくは氏の動画やサイトをご覧ください。いちばん詳しい動画として「20180709 目黒講演会 1~3」をお勧めします。

<お金で考えてはいけない>

 お金のことに造詣の深い大西氏ですが、「お金で考えてはいけない」ということを主張しておられます。お金はそもそも銀行が帳簿上で作り出したものであるから、実体は存在しない。本当に現存しているのは我々の労力や時間でありその価値を無駄にしてはならない。この本質から物事を組み立て直さなければいけないというお考えです。
例えば
・「子育て」は価値を生み出す行為であるにもかかわらず、その対価があたえられていない。そのため一般的には夫への「依存」に頼っているのは不合理だ。
・「不労所得」は一掃すべき。特に土地はそれ自体価値を生み出さないので土地を買って借金をして利子を払うのは不合理だ。

<私たちの将来は?>

 大西氏の描くような将来を想像するとワクワクします。ただの夢物語ではなく、経済理論に裏付けされているところに可能性を感じます。と同時にこの理念の体系を具体化するには、既存の政治の枠組みを飛び越えないといけないことも想像に難くない。

 一方、大西氏も指摘していますが、日本の将来に時間的な余裕はありません。前出の水野和夫氏も同様の記述をしています。金融資本主義は末期的症状を呈している。逆手に取れば、少子高齢化、ゼロ金利がいち早く進行した日本が一番早く次世代のルールを見出せる可能性があるのですが。

<トホホなこの国の現状>

 昨日、れいわ新選組参議院選挙の候補者発表で安冨歩氏が意思表明をした。「資本主義を基にした国民国家が機能しなくなっている。そもそも『GDPを増大するという富国強兵策』から『一人一人の生活がたつ』という視点へ根本的な転換をしないといけない」と語っていました。同様の認識ですね。

 実は大西氏もれいわ新選組の候補者にエントリーしているのですが、結果はまだ発表されていない。大西氏も政治活動を始めて数年になるがまだブレイクスルーは生じておらず、御苦労されてるようです。(本人からは苦労しているという表情は微塵もうかがえませんが。氏はいつも意気揚々です。)うまく風が吹いてくれればと願います。

*追記

7月2日、大西氏はれいわ新選組の候補者として発表されました!   

  

 

  


 
 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

     

62回目 「蛙(かわず)の見る空」(「建築にまつわるエトセトラ」改題)について

62回目 「蛙(かわず)の見る空」」(「建築にまつわるエトセトラ」改題)について
ー「空の青さ」が見えますかー

 今回からブログのタイトルを「建築にまつわるエトセトラ」から「蛙(かわず)の見る空」に改題しました。そもそも建築にまつわらない内容がほとんどでしたのでいままでとても紛らわしかったと思います。
 同時に、ブログの方向性も見えてきましたので、それに合わせて編集を行いました。
 タイトルの出典は、おわかりと思います。
 
  井の中の蛙大海をしらず、されど空の青さを知る 
  (荘子の文章を基に日本で加工された言葉です)

Photo_1

 13年前に設計事務所のホームページを立ち上げる際にWEBデザイナーから「ホームページのプロモーションのためにブログを書くように」という命を受け、おっかなびっくりとブログを始めました。その後いろいろさまざまな出来事がありまして、詳細はブログをひも解いていただくとわかるのですが、(とはいえそれはなかなかめんどうな作業ではありますのでお勧めしません。)ものの考え方が根本的に変わってしまった。一言で言えば「成熟社会脳」が形成されてしまった。結果どのような自己の変化が生じたか・・

例えば
・プロモーションとはいえ、自己を誇示するために耳ざわりの良い言葉を発することに抵抗を感じてしまう。
お笑い番組、バラエテイー番組を全く見なくなりました。試食コーナーなんかが始まると、即座にチャンネルを変えます。

 この症状はどんどん悪化し、最近は素直に見れるTV番組は数えるほどしかありません。


・真面目で筋の通った話以外に興味がわきません。酒を飲んで騒ぐだけの席には必要以外には行かなくなりました。

・とはいえ、現実の世界では「道理は通らない」ことをいやと言うほど思い知らされました。
  
 これは重症ですね~

 最近発症した症状は、サッカー番組に、あまり興味を感じなくなった事です。昔サッカーをやってましたのでサッカー番組なら見境なく見ていたのですが。この例は分かりやすいので少し解説します。原因ははっきりしています。

・「フクシマはアンダーコントロールだ」とか「8月の日本の気候は穏やかでスポーツにもっとも適した季節だ」とか嘘をついて誘致したオリンピックに対する嫌悪があって、スポーツ一般に興味がなくなってきた。
サッカー日本代表監督であったハリルホジッチ氏の解任を見て「サッカー界を動かしているのも金だけや!」とわかり、嫌になった。
 
 この調子では心の居場所がなくなってしまう!どうしましょう!!

 でも新たなマイブームも見つかっています。

その1:ボウリングのPリーグBS日テレでやってる女子プロのトーナメント戦)に癒されています。
 ボウリングって球を転がすだけなのに選手のフォームは様々で個性があり、面白い。賞金はとても食っていけるような額ではないのにみなさん情熱を持って頑張っている。寺下智香プロ、小池沙紀プロ、頑張れ!

その2:たくましく生きているノラ猫にシンパシーを感じてしまいます。通勤途中で見かける猫に丸干しなんかをあげながら、頑張って生き抜けよ!とエールを送っています。かつては忠実な犬を好む犬派でしたが、最近は自由で束縛をきらう猫のほうに魅かれます。これも最近の心境の変化であります。Photo

 少し事情がわかっていただけましたか?やっぱりうざい人間だよね・・・・

ということで今後ともよろしくお願いします。

 


 

 

 

 

 

 

 

61回目 今年(2018年)の台風にまつわるエトセトラ

61回目 今年(2018年)の台風にまつわるエトセトラ
     -「25年ぶりの勢力」から見えてくるものー

<25年ぶりの意味>

 2018年9月4日に大阪地方に来襲した台風21号は25年ぶりの「非常に強い」勢力の台風だったそうです。被害については、後程コメントしますが、大きく言って①25年のうちに劣化した部分、②新しくても脆弱だった部分に被害を受けています。
 この25年の歳月の意味はどちらの場合にも影を落としています。この25年で社会は大きく変化しましたよね。25年前は私は33歳で、働き始めて10年弱の時期でした。

 まずは、もっとさかのぼって私が子供の頃の話。50年ほど前の事になってしまいます。私は岸和田市の山間部のみかん農家の生まれです。この地方では「錣(シコロ)葺き」と呼ばれる瓦葺きの農家が集落を形成しています。
 台風が近づくと、皆が外に出て、屋根の棟を針金で固定したり、窓に板を張り付けたりしました。逆に言えば、そういう準備をする余裕があった時代でした。「家族で家を守っていた」時代とも言えます。

 この25年で、過疎化が進み、御老人の一人暮らし世帯や、空家がPhoto
ずいぶん増えました。自分を最後にこの家に住む人間が絶えるという人も多くいます。このような事情が重なって、メンテナンスが行き届かず、劣化の進んだ家が被害を受けています。屋根瓦を飛ばされた家が多数出ましたが、同じ条件にあっても、あるいは多少古くても、メンテナンスができてる屋根は大丈夫でした。これが先ほどの①の実情です。
 ちなみに風の被害は山間部より沿岸部のほうが、はるかにひどくて、写真は沿岸部の事例です。

<これは劣化じゃなくって手抜きでしょ!>

 他方、新しいのに被害を受けてる構造物(上記②)もあります。

 この25年はコストダウンが致命的な意味を持つ時代でもありました。思えば、1970年頃住宅戸数が世帯数を上回り、住宅不足が解消するとともに、「これからは大量供給から質の時代」と言われた。しかしながらこの流れは飽食の時代へと移り変わり、1991年にはバブル崩壊とともに2010年まで続く「失われた20年」へと急旋回することになった。安価な外国製品と競争するために「質」より「コスト」優先が求められた。そのひずみは今いろんなところで表に顕出されてきました。例えば、神戸製鋼のデータねつ造とかですね。

 次の写真は、とあるホームセンターの看板。10年ほど前に開業しPhoto_2
たお店です。勝手な判断は軽率かもしれませんが、どう見ても大きさに対して柱の鋼材の断面が小さすぎると思いますよね。多分厚みは5mmもないように見えます。周辺では、もっと古くても倒れてない看板も多くあります。

 上記の看板は、風圧を受けて、柱が折れています。例えば割り箸を地面に突き刺して、先端に水平方向の力を加21
えます。割り箸が折れる(=柱が折れる)のは、地面に突き刺した基礎の部分はしっかりしてるのに、上部構造が弱かったということですね。

 次は、上部構造ではなく、基礎部分が弱かったという事例です。コンクリートブロックでできたネットフェンスの基礎が壊れています。この事例は建築関係者としては、衝撃的です。
 本来フェンスメーカーは、コンクリートの基礎を求めていますが、お手軽で安価なコンクリートブロックで代用する事はほとんど常識的に行われている。特にこの事例のようにネットフェンスで高さも1M程度であれば、風圧の影響はほとんどないと考えてしまう。Photo_3
 しかし今回の台風では、瞬間的には秒速60M程度の風が吹いたと考えられている。これは時速にすれば200KMを超える速度です。F1レースの車のように時速300KMに近づく高速になれば、空気は急激に抵抗が大きくなり、「壁」になると言います。風速が大きくなれば、常時では考えられない力が働くことの証左であり、建築関係者が教訓としなければいけない事例です。

<植樹した樹木は要注意!>

  樹木もたくさん倒れました。まずは、街路樹の事例です。写真でおPhoto
分かりの通り、根こそぎ倒れています。これは上記のフェンスと同じで基礎部分が弱かったという倒れ方。もし基礎がしっかりしていれば、幹や枝が折れます。
 造園の専門家によれば、自然に育った樹木は、上に伸びれば、その分下方向に根を伸ばし、横に枝を広げる樹木は横方向に根を張るという。
 そういう見方をすれば、この街路樹は、根の深さがあまりに浅過ぎ!ほとんどちょこんと置いてるだけの状態です。風で倒れるのは当たり前ですね。これを台風のせいだけにして良いものか??
 本来ならば、もう少し小さい木から育てて大きくするべきだったのでしょうね。
 建物を建てる際に「緑化基準」を満たす必要があるのですが、最近の緑化条例は背の高い木を植えれば、面積を稼げる計算になっています。ますます「風で倒れやすい植樹」が増えることになるでしょう・・

<停電が怖い!>

 その倒れやすい街路樹には、大体において電線がからんでいまPhoto_2
す。樹木に被害が出れば、電線も切れる。これはとても悩ましい問題ですね。
 超高層マンションの30階に住んでる知り合いは、あちこちで電線に火花が飛び散っているのを見下ろしていたそうです。大阪では、あちこち「まだら状」に停電している地区があって、長いところでは一週間続きました。たちの悪いのは、この停電が果たして1時間後に復旧するのか、ずっと続くのか、全く電力会社から情報が提供されなかったという事。また、北海道地震による停電は、連日報道されて皆が原因を知ることができたのに、(しかも一日余りで復旧した。)こんなに長い間復旧しなかった大阪の停電は、ほとんど原因の追究がされていないのがとても不思議です。これは関西電力の差し金か?

 大阪の人たちは、停電は何日も続くかもしれないということを思い知ったので、例えば支払いを電子決済に頼るという事は、しないと思います。また、ガソリン車なので、停電してないところまで移動できたが、これが電気自動車の充電できてない時点ならば、どうしようもなくなっていました。大阪ではEV車が売れなくなったのではと思う!

<最後に自慢話を>

 私の設計した実家は、FRP製の格子でできた雨戸を付けました。Photo_3
写真は閉めた状態ですが、これは全面開放できます。閉めた状態で外も見えるし光も入ってきます。今回の台風では、これがとても役に立ちました。

 かつて住宅を設計した住宅の施主からも相談されたのですが、通常、雨戸やシャッターは主に「防犯」の観点から設計し、例えば泥棒の入ってきそうにない2階の窓には付けてなかったのですが、これからは風で物が飛んでくることも考えないといけませんね。

 

 

 

 

 

 

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう!その2

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう!その2
     -私は「何物」?-

<日大悪質タックル問題から>

記者の質問
「監督の指示がご自身のスポーツマンシップを上回ってしまった理由は何か?」

選手の返答
「監督・コーチからどんな指示があったにせよ、自分で判断できなかったことは自分の弱さです」

この問題に関するTBSテレビキャスターの松原耕二氏のコメント
「私がニューヨーク支局時代、ヤンキーススタジアムで野球を観戦すると、観客・選手・監督の間に「敬意」が感じられた。日大チームにはこの「敬意」が感じられない。」

 選手が自分で判断することを尊重する環境をつくるのは、管理者側の仕事ですから、これは選手のせいではないよね。個々の判断を尊重することを松原氏は「敬意がある」と表現した。これは意味深い話ですね。

イチローが日本に帰って来ない理由>

 この「敬意」の存在がイチローアメリカに引き留めているのだろうと私はひそかに確信しています。おそらく「記録」や「名誉」よりも「敬意」アメリカで野球を続ける楽しさに結びついているのだろう。

 日本の組織では、上からのコントロールが優先されて、間違っていると知りながら自分の意思で判断できないことはおそらく数多い。今、日大の選手と同じ思いを抱いているだろう方たち・・

 書類を改ざんしたり隠したりさせられる財務省防衛省のお役人たち、それを指示したり、ほのめかせたりした方たち・・・・

<そして私は「何物」なんだろう?>

 正論を声高に叫ぶのはたやすいですが、実行するのは難しい。正論だけでは「社会」と折り合いがつかないことも多い。それは「賢い」とは言えない結果になりがち。どう折り合いをつけるかは、一人ひとりが自分で考えないといけない。

 「何物」は学生達が就職活動という場で自己と向き合いながら、社会とどう折り合いをつけていくかを描いた朝井リョウ氏の小説です。

例えば

二宮拓人(主人公)
大学時代は演劇活動をしていたが、辞めて就活を始める。冷静な分析・判断ができるがゆえに、自分を殺して「就活用の演技」をすることにためらいがあり、なかなか内定がもらえない。他人のこれみよがしな取り組みに対しても裏では冷めた目で批判的に見ている。

A君(名前は無し
与えられた質問にユーモアを交え、人を引き付けながらそつのない回答ができる。無理をして「演技」をすることもなく「地」で就活できるタイプ。

小早川里香
留学経験や資格、委員活動など持ってるものすべてをアピールして就活に臨んでいる。まるでそれまでの活動はすべて就活に利用するためにあったかのよう・・ただ二宮に言わせると、「自分の意見はひとつもない」ということになる。

宮本隆良
「会社の考えに合わせて自分を変えたくない」と、就活しないこと宣言し、クリエーターを目指す。だが現実には、なかなか成果に結びつかない。

 自己との向き合い方の典型的な登場人物を挙げました。(これだけではありませんが)A君以外は、それぞれ悩みをかかえながら、就活に向き合います。二宮に言わせるとA君も「自己を持たない」という批判対象になるのだろうか?私はA君のように振る舞える人はある意味うらやましいと思う。(私にはできない芸当なので)

 私自身二つの事を思った。
 ひとつは、自分に対する反省。私はアルバイトしていた設計事務所に就職したので、きびしい就職戦線を知らず、彼らのような自己との葛藤を経験していない。その分「大人」になれずに社会人になっちゃったのではないだろうか?
 ふたつめは、若者に対する同情。こういう経験を通して、彼らは過度に社会に同調することを覚えてゆく。結果、先ほどの日大選手のように後悔する結果となるかもしれない。また社会に折り合いをつけることは「夢」を失うプロセスでもありますね。不必要な同調圧力が存在しない社会であってほしい!

<敬意の感じられる社会へ>

 今の与党と野党の間には「敬意」のかけらも感じられませんね。結果、まともな議論が成り立たず、道理が死ぬという結果になっている。
 なぜそうなるかというと、主導権を持っている側が、その権限を自分の「損得」のためにだけ使って、人をコントロールしようとするからですね。
 日大チームもそうであるし、就職活動も同じです。

 これを解決する手段のひとつは、主導権を持っている人間が、好き勝手に振る舞えないルールをつくるという方法。ところが多くの場合、ルールを変える権利は主導権側にしかない。これが問題ですね。

<ウオーターゲート事件の教訓>

 1972年、ウオーターゲート事件の際、アメリカは、大統領の犯罪を捜査するには、FBI等政権のコントロール下にある既存の組織では不可能であり、他に対応できる制度がないことがわった。その結果独立検察官」という制度を創設した。独立検察官は、大統領ではなく、司法長官が任命する。それに対してニクソン大統領は、司法長官を罷免する等して、自己のあらゆる権限を使って、事件の捜査妨害、もみ消しを試みた。これが明るみになって、弾劾裁判に結びつき、大統領が辞任することとなった。今も「独立検察官」の存在は、トランプ大統領に恐れを抱かせている。

 要は、アメリカは、最高権力者をチェックする機関がないことがわかれば、民主主義の危機だと認識して新たな制度をつくったわけです。逆に言えば、権力者はその権力を自分に有利に使いがちなので歯止めが必要だということですね。しかし多くの場合、そういうルールにはなっていません・・・コントロールする方の判断にゆだねられることになります。

<避難は自主的に>

 とにかく、人を無条件にコントロールしようとするのがどうも間違っていると思います。
 先日の豪雨では、私の住む地域にも「避難指示」が出ていましたが、「何から」避難させようということがまずわからない。OX川のどのへんの堤防が決壊しそうだと言ってくれれば、何が危険でどちらに逃げればよいか自分で判断できるのに・・・
 避難する側もいろんな事情があるので、とどまるべき人もおるだろうし、逃げたほうが良い人もいる。とにかく、そんな事情は無視して、こちらがのっぺらぼうな集団という見方で一方的に命令だけが来る。
 福島第一原発の事故では、放射性物質の移動方向が示されず、ただ逃げろと言うだけで、多くの人が無用な被爆をこうむりました。

<簡単な結論>

 コントロールする側はされる側に対して

①十分な情報を提供し、指針を理解できるようにする。
②個々の自主性と多様性を尊重する。


 この二つの条件を満たすだけで、実に多くの問題が氷解すると思う。
 スポーツであれ、会社であれ、組織の方針を理解して自分で発送しながらプレーするほうが、はるかに応用がきく動きができるだろう。これが先ほど述べた「敬意」の中身なんだろう。
 もう一つ付け加えていえば、「絶対に勝たねばならない」とか「失敗はゆるされない」といった考えが、人をコントロールしたがる方向に向かわせる要因かなと思う。とにかく勝ち組にならなければ生きていけないような社会ではないことが前提条件になりますね。・・・

 

 
 

 

 

 

 

 

 

59回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1

59回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1
     -コミュニケーション回避社会ー

<電車の中で>

 2017年10月23日、前の晩台風21号が通過した朝のこと。私は南海本線貝塚駅から大阪の難波へ向かいます。TVで正常運行していることを確認し、家を出たのですが、駅に着くと、その間に不通になっていた。
 こういう事故の場合、駅のアナウンスはだいたい要領を得ない。というか、この日は「ただ今不通です」という貼り紙をしているだけ。何の説明もない。しかたなく駅員に問い合わせると「めどが立たない」の一点張り。間違えてもよいから、いつごろ運転再開になりそうかくらい教えてほしいといつも思うのですが、答えてくれない。これでは待とうか、引き返そうか、判断しようがない。と思って周りを見渡すと、不思議な光景を見た!

 駅に着いた際から何か違和感があったのですが、まず人が改札の前に大勢溜まっているのにもかかわらず、異様に静である。よく見ればみんなスマホの画面を見ている。多くの人は、駅からの情報を期待せず、スマホで検索しているのだ!
 しばらくして、運転が再開されたのだが、その後違和感は増すばかり・・・再開直後は、各駅停車だけの運行でしたが、私は来た電車に何とか乗れた。駅に停車する度にそれまでずっと待たされていた人が乗ってくる。当たり前ですがすぐに満員になる。そうなると駅で待ってる人は乗れなくなる。
 満員といっても、もう少し奥の方に詰めれば乗れるのに・・・ドアの近くの人は詰めようとする気配もないし、積み残されそうな人も「もう少し詰めてください」とは言わない・・・

 以前は、そうしたやりとりが見られたのだが・・不思議で仕方がない・・・自主的な気配りとか、人にお願いするといったコミュニケーションがなく、とっても静かである。大阪でこうならば、東京ではもっと皆おとなしいだろうと思った瞬間、そういえばそういう光景をみたなあーと腑におちた!!!

  それは、東北大震災の際、海外メデイアが「災害時の日本人の冷2_3静さは賞賛に値する」と報道した右図のような光景!確かに多くの人はスマホを見ている!私の体験とそっくりなので雰囲気がよくわかる!とにかく異様に静かなんですよ。

 これを「日本人はすばらしい!」と自画自賛する向きもあります。たしかにわめいたり騒いだり扇動するような行動がないのは、ほめられてよい。ただこの種の報道で誤解を生みがちなのが、日本人のマナーの良さを賞賛するあまり、災害地で犯罪も全く起きてないような印象を与えるのは、実情に反しているということ。
 ただし、ここで問題にしたいのは、この点ではなく、「コミュニケーション不在」のほうです。この言い方も実は偏向している。災害時には水や食べ物を分け合う等、普段以上に助け合いが行われたのも事実です。この二面性を踏まえながら考えないといけません。

<若者と同調圧力

 今どきの若者は、「目立つ」ことをとても恐れるそうです。それは「いじめ」の標的になる可能性を意味するから。少々孤立するだけなら、その人間のキャラクターといえるとは思うのですが、今の時代は、孤立していると嫌がらせを受け続けることになるようで、それはつらいですね。
 結果として、空気を読みながら、自己主張せずに自分の役割を演じることが求められる。これを同調圧力としてストレスに感じる人間もいるだろうし、根っから上手に生きていける人間もいるでしょう。
 こういう社会(「学級」がその典型でしょうね。)を外から見ると、いさかいのない、うまくいってる社会に見えるでしょう。特に管理する側からはとても都合がよい。(学級の場合は先生ですね。)
 でも考えると恐ろしい。自己主張をしないことに慣れてしまうと自分の意見を持つことがなくなる。人の言うとおりに流されている方が楽だという考えになってしまう。

 実際この傾向は調査によって実証されている。
以下のデータは2016年8月「高校生の生活と意識に関する調査報告書」によっています。これは、日本・米国・中国・韓国の高校生の調査を比較したものです。詳しくは検索してご覧ください。
 この結果で、日本の高校生に顕著なのは、「自己肯定感」の低さ。例えばポジテイブな項目について、「自分の希望はいつかかなうと思う」「私は人並みの能力がある」については肯定的な回答が4か国で一番低い。涙ぐましいと思うのは、「友達に求めるもっとも大事なこと」については「思いやりがあること」を選んだ割合が四か国で圧倒的に多い。

 ここで思い浮かぶのは、他人のは反対してまで自分の意見を言おうという気概を持てず、「嫌われる」ことにおびえ、自分を疎外しないで欲しいと周りの友人に求める姿です。

 社会学者の宮台真司は、自己肯定感が低いと、「損得勘定だけにより」振る舞うことになる。この傾向は親や先生とのデイスコミュニケーションに結びつくことがわかっているそうです。

 30年ほど前に若者だった私には違和感だらけです。なんでこんな社会になってしまったのでしょう??

共感覚とコミュニケーション>

 もう少し宮台氏の説明を私なりに噛み砕いて詳しく述べてみます。
昔は社会に統一した価値観が存在したので、他人の事を自分の問題としてとらえる「共感覚」が存在していたが、コミュニテイーが崩壊し、個人が孤立すると、「きっと誰かがどこかで自分だけが得するようにうまいことやってるに違いない」という疑心暗鬼がうまれる。そうなるとコミュニケーションは成立しないし、コミュニケーションしようという意識もなくなる。
 
 電車の中の光景はその段階のお話であるのに対して、震災時に水を分け合ったお話というのは、自分も他人も困っているという「共感覚」が助け合いに結びついたという事例であり、実は正反対の意識だと言えますね。

京都大学の立て看板撤去のお話>

 京大名物であった、通り沿いの「立て看板」が全て撤去されたそうです。今の社会そのままの出来事やなあと思い、やれやれと思いました。
 私も1回生の折、高校の同期生と後輩の受験生のために応援看板を立てた。当時の漫画キャラクターの「タブチくん」がホームランを打ってる絵をかいて「たまには入ることもある」と文字をいれた。聞くところによれば、「こんな看板もあります」とニュースで紹介されたらしい。
 当時はこんなおとなしい看板だけではなく、特定の教授や学校側を糾弾するような看板であふれていた。今回撤去前の写真を見ると、そのような物騒な看板は影をひそめ、サークルの勧誘や、最も激しいものでも「原発再稼働反対」程度のものである。1_2
 これらは京都市景観条例」に違反するという名目で撤去されたそうです。その是非はともかく、違和感があるのは、学生の抵抗はほとんどなかったようだという事。記事によるとある団体の学生は「大学側の公認が取り消されると困るので自主的に撤去した」とか。とにかく自分たちだけが孤立するのは困るので粛々と体制に従うということですねえ。聞き分けのよい学生が多いわけです。権力側には無駄な抵抗をしないことはある意味「賢い」とも言えますが、なんとなく寂しい・・・

次回はそうした「若者の葛藤」について書かせていただきます。

 

 
 

 

 

 
 

58回目 比率6:4のむこう岸

58回目 比率6:4のむこう岸
      -多様性と安定性についてー

<比率6:4の話>

 前回、本年度の「社会意識に関する世論調査において「満足している(8.2%)」及び「まあ満足している(57.8%)」の合計が過去最高(60%)だったという結果に対して、現在社会制度や既得権益が守られていて、今の状態が続いてほしいという人達がそう回答したからではないかという説を紹介しました。その根拠の一つとして

正社員:非正規社員=60%:40%

という現実を紹介しました。これに類した数字をもう一つ挙げるとH26年の統計として全給与所得者において

年収300万円以上:年収300万円以下=60%:40%

というのもあります。貧困化が進み、この比率が逆転すれば、一気に社会は不安定になるだろうとお話ししました。
 実際、トランプ大統領の当選の要因として、中間層の貧困化が進み、特に白人の「負け組」が反乱した結果だと言われています。

<政権の安定性の話>

  さらに比率6:4のお話。

現与党(自民党公明党)が3分の2の勢力を獲得した第47回衆議院議員選挙の得票率

自民党公明党):(民主党+維新の党+社民党
=49.54%:30.67%
これもだいたい6:4です。

 あまり考えたくはないけれど、(でも可能性は高いと思いますが)与党が正社員、あるいは年収300万円以上の人達(=体制依存側と名付けます)の権益を守る政策を続け、その支持を得られれば、安定多数の議席を得られるという事になります。

 うーんこれは思い当たることが多々ありますねえ。トリクルダウン」なんかまさにこの考えによるものかも・・

2017年7月1日 - 安倍首相は東京都議選遊説で、聴衆の「 辞めろ」コールに対して「演説を邪魔する行為」と批判し、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言って激高した。これは「こんな人たち」というのは、4割は無視してもよいという考えを裏付けているのではと思ってしまいます。

 でも6:4の微妙なバランスですからいつ逆転してもおかしくはないような気もします。

<一億総中流時代の安定性>

 1970年代によく言われた言葉に「一億総中流というのがありました。内閣府の「国民生活に関する世論調査」において自らの生活程度を「中流」とした者は何と約9割に達しました。(ちなみに「中流」というのは自らを「中の下」「中の中」「中の上」と評価した人の合計です。)

 この時代を私達の世代は子供として体験しました。多分うちの父親は「中の下」くらいに思っていたのではないかと思います。
 実際には地域的に所得格差はあっただろうし、本当は今より当時の方が貧乏だったと思います。でも当時は近隣コミュニテイーが今より濃厚で、(うちが農家だったこともありますが、)皆同じような生活をしているという実感があったのがあったという要因がまずありました。サラリーマンは終身雇用制のもとで「会社コミュニテイー」を形成し、一体感をもちながら働いていました。もう一つの要因は、経済が確実に成長していたので、自分も少しずつ豊かになりつつある実感があったことが、そう思わせたのではないかと思います。

 当時「一億総中流」という言葉は、どちらかというと、自らを皮肉る調子がありました。でも今考えてみると、そう思えることはとてもよい傾向だったのではと思います。なぜかといえば

その①:自分たちが社会の中心に位置すると(錯覚もあったでしょうが)思えた。

その②:一体感のあるコミュニテイーが存在したということは、「他人の問題」を同じ立場にある「自分の問題」としてとらえることができた。

<画一性と多様性>

 では、皆が同じという「画一的」な状況が良いのかと言えば今は「多様化」の時代です。この流れは変わらないだろうし、むしろ望ましい方向性ですね。
 でも悲しいことに「多様な人々」が皆で議論をして、望ましい結果を導き出すという方法論が見いだせていない。結果、人と違う意見を持った人は孤立する方向になってしまいます。
 ということは、6:4の4のほうが6に増えても、孤立していれば変化は起こらないことになってしまう!

 ということは、とにかく勝ち組にすり寄っていくことが、自分を守るには一番良い手段だということになってしまいますね。

 これでは希望を見出せなくなってしまいます。とにかく「負け組」というものが存在するのがよくありません。孤立化してもプライドをもって生きていける世の中をつくることが先ということなのでしょうか?

<おわりに>

 この文章は夏の初めに書き始めたのですが、「希望のある結論」が見いだせず、ズルズルと年の暮れになってしまいました。

  この間、衆議院議員選挙もありましたが、上の構図はまったく変わらなかった。むしろ上でお話したように、まさに野党が孤立化して無力になる方向になりました。

  「6:4の構図」を考え出した際、この社会の悲しい構造がわかってしまった気がしました。私は明らかに4の方に居て、6のほう(アメリカの大統領選挙では「エスタブリッシュメント」という言葉が用いられましたが、まさにその内容です。)を眺めている立場です。

 「平均給与が上がった」というニュースで「世の中が上向いている」と思うのは間違いです。6の方の人たちの給与が倍になって、4の方の人たちの給与が半分になっても「平均」は上がります。これは「格差」が広がったことになるわけで、そういう内容は統計的に表現する手段があるにも関わらず、あまり大きくは語られない。そういう様子を見ていると、なにか騙されているような気がして、気分がめいってしまう年の暮れであります。

 
 

 

 

 

57回目 現在の社会に対して全体として満足していますか?

57回目 現在の社会に対して全体として満足していますか?
     -日本人の社会意識に見るヤレヤレな構造ー

<トランプ氏に喝采を送ってしまいそうな自分がいませんか?>

 アメリカのトランプ大統領北朝鮮に対して武力攻撃も辞さないという姿勢を表明している。これに対して日本の責任者が軽々しく「頼もしく思う」と発言するのは如何なものかと思いますが、一方、個人的には無責任に「やっちゃえ、やっちゃえ」と囃し立てようとする誘惑にかられることも確かですね。これは冷静に考えると避けなければいけない態度です。
 武器を持つと使いたい誘惑にかられる。これを他人が見ると、(攻撃対象が憎々しげに見える相手ならなおさら、)攻撃を期待してしまいそうになる。でもその結果は、何の罪もない人々に苦しみをもたらすというのが現実。先日実行されたアメリカ軍のシリア攻撃についても、命中率が半分くらいだったという報道もある。では命中しなかったミサイルがどうなったかは報道されません。どこかでとんでもない厄介をもたらしているかもしれない。
 2003年にアメリカがフセインを打倒するために行った戦争における民間人の被害者は推定数十万人にのぼるとも言われている。その事実はほとんど無視されている。人は自分に関係ない範囲では他人の痛みを無視できるという素地をもっている」というのが、今回のお話の第一の前提条件です。

<他人の不幸は幸福をもたらす?>

 東日本大震災の発生後、日本人の幸福度が上がったというデータがあるそうです。これに対して、同じような状況におかれた場合、欧米人の幸福度は下がる傾向にあるらしい。何となくわかるような気がしますが、そうであれば、日本人と欧米人の社会にたいする意識が異なるということですね。
 そういう場合に幸福度が上がるという人は、他人との比較の上で自分の幸福度を測る。他人が不幸になれば自分の位置が変わらなくても相対的に幸福度が上がるということですね。
 一方、幸福度が下がるという人は、社会は自分と一体であって、他人が不幸になれば、自分も不幸と感じるという話です。

 「日本人は、自分の幸福度を、他者との比較の上で感じる傾向がある」というのが第二の前提条件です。

内閣府の社会意識に対する世論調査の結果>

 4月9日に発表された内閣府の「社会意識に関する世論調査」において、社会に満足しているという回答が過去最高だっという報道がありました。これについて、不可解だということを前回「ポスト真実の生まれるところ」でお話ししました。やはり同様に感じる方たちが多いようで、社会学者さんたちがいろんなところで解説していました。その説明のひとつは、ストンと腑に落ちた! 

 もうすこし正確に把握しましょう。調査票を見てみると、この質問は、全部で15ある質問のひとつです。この質問の前には、「国を愛する気持ち」とか「地域とどう付き合っているか」とかいう質問があります。ちなみに調査員による面接調査です。このあたりの調査方法についてもバイアスがかかる原因となる疑いがありますが、とりあえず公正に調査が行われたという前提で考えましょう。
 質問は、今回のタイトルである、「現在の社会に対して全体として満足していますか?」という文章です。「満足している」と答えた人が過去最高の66%と報道しているマスコミが多いですが、内訳は「満足している」が8.2%で「まあ満足している」が57.8%ですこの合計が66%だというのが、正しい数字です。少し報道のイメージと違いますね。一方「満足していない」6%と「あまり満足していない」27.4%の合計が33.4%(≒33%)となっています。なので積極的に「満足」「不満足」と答えている人はわずかなのですが、ここでは「満足側グループ」66%「不満足側グループ」33%として話を進めます。

<なぜ満足側グループが優勢という結果になるのか?>

 ストンと腑に落ちたのは、中央大学の山田まさひろ教授の解説です。まず、「将来、社会がこういう姿になってほしい」という理想や希望があるならば、今の社会に対する不満点を多く認識しているわけですから、不満足度が高くなる傾向があるとのこと。これはとてもよくわかる。
   でも調査結果は逆の傾向を示しています。不満を持つ人は少数派で、「この社会は変わらなくてよい」と考える人が多数派らしい。
 では、「満足側グループ」に入るのはどういう人達でしょうか?それは、今現在社会制度や、権益にまもられているので、今の状態が続いてほしい考えている人達だそうです。
 ここで登場するのが「格差問題」。いろんな格差の問題がありますが、多くの人々が関係しているのが、非正規労働者問題ですね。

正社員:60%  VS  非正規労働者:40%

 これが今の現実です。非正規になることを恐れたり、非正規の人たちに自分の権利を渡したくないと考える今の正社員は、まさに上で述べた「満足グループ」に属します。

 今の日本社会における格差の拡大は、いまさら言うまでもない事実ですが、例えば非正規労働者とか下級老人とか子供の貧困とかに陥っていない人達が、今の社会制度や権益を変えてほしくないと答えたのが「満足側グループ」であり、66%くらいになるというのが現在の日本社会の構造であというのが教授の説明です。なるほどと思いました。

<質問をよく見てみれば・・>

 でもそもそも、質問文は「現在の社会に対して全体として満足していますか?」であるのに対して内容的には「自分個人の生活に満足していますか?」という質問と解釈して答えているということですね。わざわざ「全体として」という言葉を入れているのは「個人として」ではないという意味だと思うのですが。恵まれていない人に対しては無関心でいられる(先ほど述べた第一の前提条件)、自分が今恵まれていれば、他人より幸福だと感じる(先ほど述べた第二の前提条件)、と言う意識の結果として、こういう回答になるということでしょう。個人が社会全体を考えてもどうしようもないという無力感がそうさせるのかもしれません。
 私なんかは、社会のしくみの現実を知れば知るほど、矛盾が見えてきて、不満足が高まるのですが、そういう人間は疎まれるのがこの社会の構造なんですねえ。ヤレヤレ・・

<社会全体の安定性を考えるのは誰の役割?>

 高橋洋一氏は、多少景気がよくなっても天下り機関に国家予算が吸い取られていると指摘する。受信料でなりたっているNHK職員の平均給与は一千数百万にのぼるらしい。このまま制度や権益に守られている人たちが、それらを死守し続ければ、格差はどんどん開くでしょうね。ではだれがそのバランスをとることを考えてくれるのでしょう??

 

 今の政権の考え方は「日本を偉大にする」でありまして、一見勇ましく聞こえますが、これは上のようなバランスをとる方向性とは異なります。GDPを増やすためには、トヨタや三菱といった世界的な企業の収益があがればよいわけですから、そういうことには熱心に取り組む。トップ選手ばかりさらに強化すれば、日本として誇りが持てると考える。そう考えると平均以下の人たちは無視してもかまわない。そうやってどんどん格差が拡大する。トップの成績を多少下げても底上げをするという発想がなければ、バランスはとれない・・というのは算数でわかる程度の話なんだけど。

 

 こうして、今のところは、自分の利益が守られていると感じる人が、他人よりも相対的に幸福だと考えて、何となく社会に対して不満がないような結果になっている。でもそのうち、「満足側グループ」と「不満足側グループ」の数が逆転すれば、一挙に社会は不安定になるかもしれません。社会の安定を図るには、どうすればよいのでしょう?そもそも今が不満足であっても、将来に希望が持てる方がはるかに健全な社会であると思いますが、そのためには、どうすればよいのでしょうね?これは次回までの宿題にいたします。