建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

66回目 私はファミマ猫

66回目 私はファミマ猫
ー生きていてもいいのかにゃ~(私の「にゃん権」のこと)ーf:id:rib-arch:20200203134152j:plain

 

私です

 誰かが近づいてくる。私はほとんど反射的に、ちょこんとお座りして「にゃおん」と鳴きます。すると何人かの人は足を止めてこっちを見てくれる。何度も繰り返してるとそのうちまた何人かの人は、食べ物をくれる。いつも何か食べるものを持って来てくれる人もいます。
 「にゃおん」というねこなで声は、本来は親猫におねだりする時の鳴き声なんだけど、生まれた時にはどっかに行っちゃってたので、私にとっては、道行く人が親代わり。で、こうやって食べ物をねだって生きてきたの。
 私はファミリーマート横の物置の下で生まれたサビ柄のメス猫。おととしの暮れに生まれました。最初は茶トラのおにいちゃんと二匹だったけど、おにいちゃんは、オス猫の習性で旅に出た。今頃どうしてるかなあ~

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お兄ちゃんです

 でも、ノラ猫生活はなかなか大変!今の街で、猫が自分で食べ物を見つけるのは難しい・・だからあまりおなかが減ったときには、仕方なく、ファミマから出てきた人の足元にまとわりついておねだりする。
 時々飼い猫を見かけるけど、空腹なんかに縁がなさそうで、とってもうらやましい!!なんでこんなに差があるんだろう?私はこのまま生きてていいのかにゃ~

<人権ならぬ「にゃん権」について>

 ということで、筆者はファミマ猫のねこなで声に懐柔され、食べ物を運ぶ人間の一人です。私自身、自分で食い扶持を探しながら働いてる身なので、ノラ猫の気持ちはよくわかる。私が見えたら、こちらへ食べ物をもらいに走ってくる姿を見ると、こちらまで癒されます。何とか生き延びてくれ!と思う。
 一方、世の中では「動物のエサやり禁止条例」ができたり、「ネコに餌をやらないでください」という張り紙を見たりする。誰かに迷惑がかかっているとは思えない場合でもそういう理屈がまかり通っているのはなぜでしょう?ネコに人権ならぬ「にゃん権」は存在しないのか?
 そもそも、「人権」とは、何か?憲法学者木村草太氏によれば、「想像力を働かせて自分とは異なる人の立場になってみること」というものです。わかりやすい考え方ですね。この考え方に従って、「困窮した人は助けないといけない」→「最低限の生活の保障」となるし、誰も人に殺されたくはないから、殺人が罪になったりするわけですね。

<動物の権利(アニマルライツ)の一般的な考え方> 

 もちろん、「人権」と同じレベルの権利を動物に認めることは不可能です。動物といっても、ペットや食用動物から野生動物までいろんな立場(?)があるので、社会的な慣習とか、個人の感情とかにより、千差万別の考えがあります。
 アニマルライツセンターによれば、一般的な概念としては、「苦痛を感じる能力に応じて、動物には人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある。」というものです。
 これは、哲学者のピーター・シンガー「功利論」に基づく概念で、比較的現実と折り合いをつけている。さらに動物の権利を認めて、商業畜産や動物実験を禁止しようとする概念を唱える人もあるのに対して、動物の苦痛を伴う殺害や残虐行為を止めれば十分だとしている。従って、苦痛を伴わない殺し方をして、食用にすることは認めるということですね。でないと牛も豚も食べられなくなります。ただ最低限として「動物が持っている唯一の権利は、平等な思いやりを受ける『権利』である」としています。
 もちろん、これはあくまで環境倫理学の概念であり、現実のルールがこれに従っているわけではありません。

<人間の身勝手さと差別意識について>

 では、「ネコにエサをあげないでください」というルールは正しいルールでしょうか?上記の考えによると、「エサをあげない」ことは、直接苦痛を与えていないという意味では、論理に反していないともいえる。ましてや「(最近あまり見ませんが)ノラ犬を放置すると噛まれれば危険だし、狂犬病が蔓延するおそれもあるのですべて駆除しよう」というルールは正しいように聞こえる。

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 でもファミマ猫や私の立場からすれば「私らは誰にも迷惑をかけてないから、みそくそ一緒にしないで!」ということになります。

 わかりやすく考えるために、人間対動物ではなく、人間対人間で考えましょう

[ケーススタデイ1] 例えば犯罪を犯した人は、個別に裁かれるのはあたりまえですね。ところが、ある外国人(C国人としましょう)が犯した犯罪については、C国人は、危険だからみんな排除しようという傾向になりがちですね。C国人の犯罪率が、この国の犯罪率より低いかもしれなくても、そう考えがちです。どうも人間は自分の属さない集団については、個人個人ではなく、みそくそ一緒に考えがちです。これが「差別」であり、ヘイトスピーチに結び付く。

[ケースステデイ2] 人間対動物では、人間が動物を支配しているので、支配する側がルールを決めるのが当然だと思っている。これが人間対人間で考えるとちょっと違ってきます。
 例えば、中東なんかでは、軍事的に支配されることにより、いつロケット弾が飛んできて、命を落とすかもしれないという人々がいる。支配されているほうの人々から見ると、たまったものではありません。ましてや「食料の供給ルートを断つ」と支配する方が勝手に決めてしまえば「死ね」と言ってるのと同じことですね。

 上記のスタデイを踏まえれば、動物の権利が「人間と平等に思いやりを受ける権利」しかないのだとしても、人間と平等の思いやりを受ければ、「ネコにエサをあげないで」とみそくそ一緒にしたルールはおかしいのでは、と疑問を感じてしまいます。場合によっては「死ね」といってるのと同じことですから。皆さんはどう思いますか?

<「ホモ・サピエンス全史」の問題提起>

 少々話は大きくなります。ホモ・サピエンス全史」(を読んだ人)によれば、最終章でホモ・サピエンスは他の人類を滅ぼし、地球を支配し、めざましい進歩を遂げてきた。これを支配された動物の歴史のほうから見れば、ほとんど「食われる」か「飼われる」対象しか残っていないという、とんでもない歴史である。ホモ・サピエンスは今後神の領域に近づき、ホモ・デウスを生み出すであろう。その時人類は幸せといえるだろうか?」という問題提起がされているそうです。
 支配する方が、全体のことを考えずに、自らの利益のみを追求すればどういうことになるかは、今の政治を見て明らかで、いやになってしまいますね。
 環境倫理学の現在の考え方は、先ほどの「功利論」からベアード・キャリコット全体論へと展開されています。すなわち、「環境」にとって見れば、「人」は時間的にも空間的にも小さすぎる存在であるため、その時のニーズで物事を決定すれば、生き物の住む場所が壊れ、かえって人の尊厳も失われる。そうではなくて、環境全体をひとつの生き物としてとらえたときに、自然な答えを出す必要がある、というものです。
 そう考えれば、一概に人間の害になるものはすべて排除すればよいという結論にならないと思いますし、やはり今回は駆除が必要だという結論になるかもしれません。

<ファミマ猫との距離感>

 ファミマ猫は、人が近づいても逃げずに挨拶をしてくれるという、ノラとしては半人前のネコです。しかし1M以内には寄せ付けないし、食べ物もこちらが見てる間は警戒して食べないというところはノラっぽい。決して飼い猫にはなれません。その距離感がなかなかたまりません。
 私は昔はイヌ派だったのですが、最近は断然ネコ派になってしまいました。