建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

43回目 「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!

43回目 「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!
     -日本人と「ルール」のしっくりいかない関係ー

<「自己責任論」に対する違和感>

 2015年1月に発生したイスラム国による日本人人質事件は、悲劇的な結末となりました。TVで「彼らはビジネスが目的だから、身代金を得るのが唯一の目的だ」とコメントしていた多くのコメンテーターは懺悔していただきたいと思いますが、もうひとつ気になったのは例の「自己責任論」です。同様の事件があるたびに聞こえてくる「国に迷惑をかけやがって!」という「自己責任論」は欧米の人たちにとっては、奇異に写り、「日本人はなんて冷たいのだろう」と感じるそうな。
 私も同感です。彼らは「失敗」を犯したかもしれないが「ルール」を破ったわけではない。その意味で罪はない。たとえば親はいい年をした子供が自分の意思で道路を歩くことを認めます。(当たり前の話ですが・・)「自分の責任で気を付けて歩くように」と認めるわけですね。結果、飛び出してきた車にはねられたとしましょう。その時親は「あんな危ない道を歩くからお前が悪い!俺は知らん!」というのでしょうか?
 特に欧米人にとって、「自由」は犯すべからざるルールらしい。イスラム教の預言者を風刺した漫画や、北朝鮮の指導者を揶揄した映画は、出来の良しあしにかかわらず、当事者から攻撃されればされるほど、国を挙げて擁護する。
 一見これは全体主義的に見えます。全体主義はかつて日本人の傾向であり、これに対して欧米人は個人主義的だと言われますが、どうもそう単純な話ではなさそうですね。

<欧米の人たちのほうがルールに従順?>

 もう少し例を挙げます。日本の政局ではよく「○○おろし」とか言って、政党が自分たちが選んだ党首を辞めさせようとする動きが起こります。でもアメリカでは自分たちの選んだ大統領の人気がなくなることはあっても、辞めさせようとはしません。
 次はスポーツの世界の話。ソチオリンピックフィギュアスケートでは韓国ではキム・ヨナの、日本では浅田真央の、採点が不公平だと、かまびすしい報道合戦が巻き起こりました。一方、サッカーW杯で起こった、みなさんご存知の「マラドーナの神の手」といわれるプレーは、明らかにハンドの反則でしたが、試合後に「無効試合だ!」とか「提訴する!」といった動きは生じませんでした。(もちろん直後に抗議はありましたが。)これは「主審の判定は絶対である」というルールが厳格に守られているからです。これは「権威に弱い」ということでしょうか?日本人が「ルールに従えない」のでしょうか?

<「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!>

  これは我々、設計者がお客様と打ち合わせするときの格言です。かなりの確率で真実です。
 なぜそうなるかは、明白。我々がたとえばお客様の家を設計する際、まず、お客様の希望を聞き、敷地の立地条件を見ます。それをもとに、この家はどういうコンセプトで設計しようか方針を立て、お客様に提示します。これによって方向が決まります。それは例えば「徹底的に主婦が動きやすい家」かもしれないし「機能性よりもデザインコンセプトを重視する家」かもしれません。ですから、ここはお客さんに、完全に理解してほしいところなので、方法を尽くして説明します。これでこの家を設計するための「ルール」が決まるわけです。なのでお客さんが妥協してほしくないところです。それがこちらに遠慮してか、邪魔くさいのか、「お任せします」といわれると、困ります。あとでボタンのかけ違いが発生する可能性が高くなります。

<主張するところと従うところ>
 
 つまり「ルール」を自分たちがつくったという意識があれば、それに従うのは当然だと考えるということですね。
 とりわけフランス人は「自由」にこだわるらしい。これは、フランス革命を通じて、彼らが血を流しながら勝ち取った権利だからです。
 また、アメリカは独立を勝ち取った際、「自由」と「平等」を実現するために権力を委ねる者たちが守るべきルールを「独立憲章」という形でまとめました。(これが近代憲法のルーツです。)
 あるいは、デンマークでは、高い税金の配分を自分たちで決めるため、市民参加により、政策が徹底的に議論されます。結果、「民主主義の質の高い国ランキング」で世界一位の国となりました。(23回目に詳しく書きました。)
 「日本人は議論の仕方を知らない」とはよく言われる話ですが、もう少し正確に言うと「議論を通じて、自分たちが同意できる地点を見つける方法を知らない」ということなのでしょう。そもそも統治における根本のルールである民主主義的「憲法」を自ら決議したことはありませんし、今の状況を見ると、とても「民主主義的な議論を経て憲法を決定し、皆がそれに従う」なんてできそうにありません。ましてや、先ほどの「○○おろし」の場合は自分たちが選出したという事実を否定するわけですから、何をかいわんや!ですね。

<日本の歴史から>

 この「社会性の欠如」は、「国の成り立ち」と関係あるんじゃないかと思っています。

 まずは、誰かが言ってましたが、「そもそも日本は温暖な気候のおかげで、食糧生産の余剰が生じ、自活が可能だったため、政治力にたよる必要がなかった。」すなわち社会のルールをつくらずとも、人に頼らず暮して行けた。「支配」はあくまで「お上」が強制的に行うものであり、政治に対してはあくまで受動的であったという特性があります。
 あるいは宗教の違いも影響してるかもしれません。「キリスト教」と「仏教」で一番異なる点は「キリスト教は救いの宗教」であるのに対して「仏教は悟りの宗教」であるということです。すなわち、キリスト教では「救い」が得られるかどうかは、「最後の審判」において神が決定します。逆らうことはできません。でも個人ではどういう善行を積めば救われるかはわからないので、皆で聖職者に教えを乞うことになります。
 一方仏教では自分一人で修業することによって「悟り」が得られます。宗派はありますが、むしろ何もかも捨てて一人で修業をしろ!というのが根本的な教えです。

  明治以降、近代国家としては国家のルールが必要になりましたが、共同体としての「社会契約」をすることもなく、ルールがなぜ必要なのか理解する手続きもなく、今に至っているわけですね。

<無視できないルール・・「手打ち」>

 よいか悪いかは別として、西欧社会は「ルール」によって、国際社会を維持してきた。多くの民族が、国境を隔ててひしめき合う状態では、そうやってかろうじて平和を維持できたわけですね。ルールを破るときは戦争で決着をつけるわけですが、「負けたほうは屈服する。」というのもルールですね。そこで「手打ち」をしてチャラにするということが便宜上、行われます。それが知恵なわけですね。
 だから別に勝ったほうが「正しい」とは限らない。しかし、このルールが、遵守されなければ大混乱に陥ります。インデイアンが「アメリカ大陸を返せ!」とかメスチーソが「破壊されたインカやマヤを返せ!」というのも正当な主張でしょうが、そんなこと今言ってもしかたがない。
 サンフランシスコ平和条約も同じこと。「広島・長崎の原爆投下は人道上ゆるせない。」「靖国神社に参拝することは何らはばかる必要はない!」というのも正当性がないとは思いませんが、それを国際社会に向かって主張するとしたら、「手打ち」を理解していないと言わざるを得ませんね。

<日本が自ら「ルール」を作る必要な時代が来た>

 敗戦後の復興・成長時代は、今まで述べた日本人の特性にはふさわしい時代だったんじゃないかと思います。お互いを気遣わなくても、個人個人が同じ方向を向いて利益を拡大すれば、全体の利益につながるという時代でした。多少一人が傲慢に利益を囲い込んでも、「成長」が落ちこぼれをすくい上げることができた。
 ここから先は、このブログで何度も述べてきましたが、今は成熟期を迎え、限られたパイをみんなで分かちあう必要のある時代となりました。成長に頼らずとも皆が生きていけるためのルールを自ら作ってそれを守らないといけない。日本の歴史上初めて自らが自らを律する必要があるという転換期を迎えたといっても過言ではありません。
 にもかかわらず、自分たちで議論をして道理のある理念を作れそうには見えません。本当に困ったことですねえ。

<「イスラム国」の逆を発想する>

 こうした民主主義の未成熟は、「意思」を行使する手段を持った組織に完全につけこまれている。「電力会社」とか「マスコミ」とか「政府」とか「官僚」とか。
 「正しい」ことを「正しい」という人は封じ込められる。たとえば「放射能は完全にコントロールされている」といった「不合理」がなぜかまかりとおる。
 本来これらは、世論が正常に機能していれば、防ぐことができます。「こんな論理は国民が許さないだろう」という市民社会における民度がプレッシャーにならないといけない。

 再度「イスラム国」のお話。テロリストが、「恐怖」によって、空気を支配しようとするのとは、逆のベクトルをもった「正当な論理に向かうプレッシャー」が醸成されねばなりません。でないと自分たちの首がどんどん絞められていきます。

 その意味で<逆テロリズム>を!!