建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

44回目 素顔のままで

44回目 素顔のままで
     -「普通」のありがたさー

 

司馬遼太郎が22歳の自分にあてた手紙>

  「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」司馬遼太郎は22歳の時(これは終戦の年です)の思いです。「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いたと述べておられます。
 上記の言葉を1991年に文化功労者の受賞記者会見の際に述べました。勇気ある言葉ですね。(今なら古賀茂明氏や桑田佳祐氏のようにやたらバッシングされたでしょう。)なぜなら,そう言い放つことは、戦争で亡くなった方たちが「無駄な死」であったと言ってる話でもあるからです。氏もそんなことは承知の上で、それを差し引いて余るほど、自分の体験してきた戦争の論理が「馬鹿らしかった」と言いたかったのでしょう。だからこそ、この言葉はとても重い。
 生の声を聴きたい方は、YOUTUBE「知の巨人たち 第4回 140726」(https://www.youtube.com/watch?v=iRgG-piMnp0)をご覧ください。案の定、視聴者の書き込み欄には批判的な投稿がありまして、「司馬は単なる“知れもの”に過ぎない。こんな輩を保守派などと思ってはいけない。」などと書かれております。
 「今の日本の姿があるのは、戦争で命を落とした先人のおかげである。」という見方は否定できないし、ガンジーが欧米に立ち向かった日本の姿勢に影響を受けたというのも事実です。でもその裏にとんでもない愚かな行為が無数にあったことも事実ですね。
 自分に誇りを持ちたい気持ちもわかるし、自分のやったことが無駄だったと思いたくない気持ちもよくわかる。ただそれにとらわれて、周りを見ない態度は客観的に見て愚かですね。ましてや反省しようとする態度が即「反日」などと非難するのは、それこそが反日なんだけど・・「反省が足りない態度」はほかにもよく見かけます。

<なぜかその場しのぎがまかり通る>

 例えば、A首相が、 福島第一原発放射能漏れは完全にコントロールされている。」とか「福島の復興は着々と進んでいる。」と堂々と表明する態度。私も聞いた瞬間、耳を疑いました。こういった言葉を平気で言えるということは何を意味するのか?これは、聞いてる人がそれを鵜呑みにし、真実を確認することはないと確信していると考えているか、あるいは「自分に報告した人間がそういっているから」という言い訳を考えているかどちらかですね。
 市民の意識がが高くて、「こんな不誠実な発言をしたら市民が黙っていない」という環境があれば、こんなことにはならないと思いますが、そうでないのはとても残念です。今の日本では「神様がみてるよ」という言葉は死語なのでしょうね。「はったり」を使ってでも、他より優れて見せたい、というのは素顔に自信がないということでしょうか?なぜ自然体でいられないのでしょう?

<「普通」に価値観を見出す・・マイルドヤンキー・・>

 私の知人が名言をつぶやきました。 「『普通の人々』はいるけど『普通の人』はいないのよね・・」
 『普通の人々』を構成する個人はみな個性を持っている。いろんな物事に対していろんな指向をもっている。『普通の人』はその全体を平均化してとらえた結果であり、個性のばらつきを捨象してしまっています。なので『普通の人』は概念上だけの存在です。
 ここでは「普通」の価値についてお話しようと思っていますが、個性や多様性をもった集合体としての「普通」です。他人と差異があることを否定するわけではありません。

 「普通」に価値を見出している人々として「マイルドヤンキー」がいます。彼らは以下のような特性をもつ人々です。

・地元で行動する。(半径5Km以内という人もいます)
・小中学時代からの友人とずっと付き合い続ける
・「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き。


 なんとなく顔が想像できますね。いいかえれば、 「自分の身近に幸せを見出して生活している人たち」です。幸福度指数の高い北欧の人々は同じような価値観を持っているということを22回目にお話しました。このような社会は包摂度の高い社会でもあります。
 おそらく彼らの同級生が全国的に有名になれば、彼らは手放しで応援するでしょうし、もし外へ出てチャレンジしたが、失敗して返ってきたとしても、彼らは優しく迎えるでしょう。仕事にあぶれた人物に知人の職場を紹介するかもしれません。このような「普通の人々」が分厚い層として存在するほど、住みやすい社会になる。かれらは仲間を蹴落としてでも一番になろうという指向はもっていないと思います。
 1970年頃は「一億総中流の時代」といわれ、これに近い意識を持った人が多かった。これに対して「上昇志向のなさ」と批判的な見方もできたわけですが、(かつての私もそうだった・・)今のように格差が拡大し、「承認されない人たち」が孤立する現実を見ると、当時の状況のありがたさを実感しますね。

<Just the Way You are>

 ビリージョエルのこのタイトルの曲は「素顔のままで」と訳されています。もっと素直に訳すと「ありのままに」ですね。
 以下は本日のTV番組のタイトルです。
「地球イチバン」「超絶凄ワザ」「奇跡体験アンビリーバボー」「ニッポン絶景街道」
 「ありのまま」に価値を見出す人にとっては、こういうタイトルを目にすると「うざい」としか言いようがない!「奇跡」とか「絶景」という言葉は「ここぞ!」という時に使ってほしいものです。必要以上にはったりを利かすのは「たたき売り」の常套手段であり、却って自分を貶めているのにね。そうでなければ、見る人の目を低く評価しているかどちらかです。
 「自分の素顔をありのままに見る」ことをしないと、どんどんこうなっちまいますね。だから空から日本を見てみようといった素直なタイトルの番組を見ると微笑んでしまいます。

 こんな私はひねくれものなのでしょうか????