建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

29回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その①

■H26年2月21日

29回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる
      ~里山資本主義と「心のよりどころ」~

「倫理」とか「道徳」なんて口に出したらみんな疎ましくて逃げ出して行きますよね、きっと!「建前の話か?」とか「何を気取ってるの?」という声が聞こえてきそうです。それどころか「そんなものは偽善や!そんなことを考えてたら競争に勝てんわ!」という人もいそうです。(これがいちばん多い意見か?)「倫理」は今やどぶに捨てられ、日の目を見ない可哀そうな存在です。

 ただこれは世界的に見て少なくとも先進国においては稀有な話です。明治の教育者・倫理哲学者であった新渡戸稲造は海外で、次のような驚きの声を聞きました。
 「(日本には)宗教教育がない!それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか」

<ドイツでは「倫理」が原発を止めた!>
 それまで原発推進派であったドイツのメルケル首相は2011年、福島の事故の後、脱原発へと政策の大転換を行ないました。その背景には、チェルノブイリの事故や、かつてから脱原発を主張していた緑の党の躍進がありましたが、最終的には「倫理委員会」の出した結論が、背中を押したのです。
 それは以下のようなロジックによります。
原発を停止することによるリスクは限定的である。(日本的に言えば「想定内」となりますね。)それに対して原発を稼働し続けることによるリスクは限定不可能である。(想定不可能である。)従って原発を稼働し続けることは「倫理的に」許されない」
 経済でもなく雇用でもなく電気代でもなく、倫理」が最優先されたわけですね。なぜでしょう?ちなみにこの委員会は「脱原発」を目指して構成された委員会であることは確かなのですが、原子力の専門家や電力会社の利害関係者は一切排除して、公開しながら議論を進めています。苦労してやっと出した結論だったようです。でも大事なのは結論ではなく「なぜそうするのか」という、万人が認められる考え方だったわけです。それが「倫理」だったわけですね。この場合はドイツ国民が社会的規範としてこの方針をほぼ共有できたと言えるわけです。

<日本では「武士道」が「倫理」だった!>
 新渡戸稲造は「学校では習わずとも明治時代には道徳的な習慣がPhoto日本人に行き渡っていた理由は武士道にある」と思い至り、「武士道」を著した。この本は世界に対する日本人のアピールでもあるので、多少のひいきは割り引いて読む必要はあると思うが、特にキリスト教との比較をしながら、幅広い知識により、武士道を客観的に解説している。
 注釈しますと、当時の日本において武士道の精神は、その下の階級に属する人々にも浸透していたとのこと。上に立つ者が尊敬に値すれば下々の人々はそれをまねていくからだそうです。(どこかの国の権力者に聞かせたいですよね!)その証拠のひとつは、大衆の娯楽(芝居、寄席、小説等)はあまねくサムライの話である。(義経や信長、秀吉やはては桃太郎の話まで)なるほど!
 新渡戸は最後に「世界に武士道ほど宗教と同列の資格をあたえられた道徳体系はない」と結論付けています。

<日本におけるその後の「倫理」・・・>
 ここで話題にしたいのは、生きていくうえで何に価値を置くか、あるいは何を目標にするかというという社会規範です。どうしたらよいか迷った時の道しるべとなる「心の拠り所」です。それは「宗教」が教えてくれたり、武士道のような「理念」であったりします。ちなみに武士道は仏教にも儒教にも影響を受けています。
 新渡戸稲造は武士道がその後の時代には通用しなくなることを既に見越していました。

 「近年、私たちの生活の幅はより広がり、向上している。武士の訴えてきた使命よりも、さらに大きな使命が、今日私たちに要求されている。(中略)人はもはや臣下としての身分ではなく、だれもが平等である市民という存在に成長した。いや、市民を超えて人間そのものなのである。」(新渡戸稲造「武士道」による)
 
 はたして武士道より広がりを持った社会規範をその後の時代の人々は持ちえたのか?明治も時代を経ると、日本は西欧近代への文明の乗り換えを行う中で、予想通り仏教や武士道はその立場を失い、天皇という絶対者のもとで「富国強兵」を行うということが、社会的な目標となっていった。さらに第二次大戦後は「経済成長」により豊かになることが、絶対的な価値だったと言えます。これらが社会規範としてふさわしいものだったかは後述するとして、今はどういう時代か?
 生産効率が上昇し、結果としてモノが飽和し、経済成長が見込めなくなると、日本人は何に価値の拠り所を置いたらよいのかわからなくなりました。そのあたりについてはこのブログでも触れてきました。21回目で述べたように、以前は農村社会や町人社会といった「中間社会」に包摂性があったのですが、これらも都市への人口移動により空洞化し、拠り所がないまま、個人は社会の中に漂っています。前回の言い回しでは「今は自己存在の根拠をめぐる闘争はとても過酷で個人には厳しい時代です。」(南直哉)
 すなわち今は①中間社会の再構築と②社会規範の再構築をどちらも考えないといけない状況です。政府が意図しているように、経済成長が復活するなら(原理的にはないと思いますが)、これらの問題はまた忘れ去られるかもしれません。でも今これらの再構築による社会変革を実行しておく方が将来のためですね。

<これからの心の拠りどころはどうしましょう?>
 ①中間社会の再構築についてはこれまでも述べてきたように
里山資本主義」が処方箋となります。すなわち物事を「小さく回す」ことにより、個人の価値を相対的に高めながら、包摂度の高い社会を創造すればよい。(簡単じゃないけど・・)
 では②社会規範の再構築のほうはどうしたらよいのか?というのが今回のポイントです。もちろん「そんなものいらない!」という人もいるでしょう、というかほとんどの方は今までそうやって生きてきたわけです。でもこれからは何が違うのか?成熟社会というのは、資源にしても食料にしても頭数の分しかなかったら、一人がよけいに取ってしまうと、かならず足りなくなる人がいるという時代なわけ。なので重要なポイントのひとつ目は
「他人の痛みがわかる」「他人の事情にたいして想像力を持てる」ということですね。孟子の言う「惻隠の情」です
 そもそも「社会規範」が持つべき条件のひとつはそれを「誰もが認められる」という
「共有性」でないといけません。それは上記の「他者に対する想像力」と必要十分な関係といってもいいでしょう。なぜならある人がある考えをなぜ正しいと考えられるか想像することによって考えを共有できるからです。
 もう一つの条件を設定するにあたって
「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」ということを考えてください。法的には(=便宜的には)戦争では他人を殺してもよいことになっています。また自分を殺した人は罪には問われません。これは「倫理的」には許されますか?もし許されるならテロリストが「これは戦争だ」といえば、殺人は許されることになってしまう。自殺もダメですよね?なぜか?
 要は「便宜」でものを決めたらだめだという事ですね。「社会規範」には
「自律性」が必要です。「便宜」は時代によって変わりますが、「倫理」は「人間としての生き方」ですから、簡単に変わってはいけない。でもなぜ人を殺してはいけないのでしょう?これはひとつめの「他者に対する想像力」では解決がつきません。なぜなら自分を殺す人もいるのですから。これはもう理屈では説明できない。つきつめると「人間の尊厳」を認めるということしかありません。これを認めなければ「奴隷制度」も「中絶」も無条件で正当化されます。倫理はこれを認めるところから始まるといってもよいかと思います。
 
 さて、社会規範におけるこの
「共有性」「自律性」という二つの条件に照らして、私たちの金科玉条であった「富国強兵」「経済成長」は「社会規範」たり得てたでしょうか?いうまでもなく「NO!」ですね。
 このふたつの条件を考えると宗教は「絶対神」を設定するのが人々に理解されやすいということがわかります。皆が「神」という同一の対象を信仰することによって、皆が「価値観を共有する」というのと「絶対的な真理をもつ」ということが同時に実現できます。今の時代は「神」を
「イマジネーション」による理念で代替するしかありません。だからイマジネーションを鍛えることが大事だし、発揮できる社会でないといけません。(これは28回目の話題でした)
 「社会規範」に必要なふたつの条件を持ち得ましたので、次回はこれに基づいて世の中のいろんな出来事を「倫理的に」考えてみたいと思います。

 哲学者の萱野稔人氏は「没落する文明」(集英社新書)の冒頭で次のように述べています。

 「健康でいるとき、私たちは身体というものをほとんど意識することがない。しかしひとたび病気になったり怪我をしたりすれば、自分が身体という、意識によってはどうにもならない有機的物質からなりたっていることを強烈に意識させられる」

 と述べています。これからは、身体の有限性を意識しながら、「むやみに勝ってはいけない」という難しい時代ですね。そのための「社会規範」はどうしたらつくれるのでしょう?・・・ということをうちの奥さんに話したら「そんな理屈は負け犬が自分を正当化したいだけや!とにかくうまく稼いだものが勝ち!」と一蹴されてしまいました。やれやれ・・・・・・・・・