■H26年1月24日
28回目<僕が「中島みゆき」の歌を愛する理由>その②
~歌ってよ南直哉(じきさい)さん~
昨年11月、姉の夫が逝去した。車を運転しながらそんなことや、「もうすぐ好きだった高校の先輩の一周忌やなあ」とかいったことをしみじみ考えていた。そんな時、ふと車のCDから中島みゆきの「誕生」が流れてきた。涙が止まらなくなった。
ふりかえるひまもなく
時は流れて
帰りたい場所がまたひとつずつ
消えてゆく
すがりたい誰かを失うたびに
誰かを守りたい私になるの
わかれ行く季節を数えながら
わかれ行く命を数えながら
祈りながら嘆きながら
とうに愛を知っている
みゆきさんの歌は時に人の心の底をえぐります。 深く深く・・
しかしそれは「そんな季節もある。でもあなたはそのままそこに居ていいのよ」と語りかけてくれるような心地よさがある。その世界は誰もが失いかけた「自己の存在理由」をすくいとれる空間です。まるでお母さんに抱かれるように・・・
<恐山の僧 南直哉さんは語る>
御注意:この先は今まで「この世の中は生きづらい」とか「いっそ死んでしまいたい」と思ったことのない人は読んでも意味がありません。
11回目に中島みゆきさんのことを書いた時にも南直哉さんのこと
をお話しました。氏は「生きていたくない」と恐山を訪れる人々に、あえて自殺も人間の選択肢の一つであることを否定せず、それでも「覚悟を決め、苦しみを引き受けた上で生きる決断をする」ことを促し続けます。その語り口に私は中島みゆきさんの歌における「癒し」と共通するメッセージを読み取ります。
今回は南直哉氏の語り口をたどりながら、みゆきさんの歌をオーバーラップさせてみたいと思います。なお、氏の言葉は①YOUTUBE「ニュースの深層 私とは誰なのか?http://www.youtube.com/watch?v=0ZCWgqnRHpk」及び②南氏の著書「なぜこんなに生きにくいのか」(新潮文庫)から引用または聞き取りしています。
人は自己の存在理由を見いだせないと生きてゆけません。その際には「生まれてきたことを全面的に受け入れてくれる誰かあるいは理念」を必要とするのです。
Remember 生まれたとき
誰でも言われたはず
耳を澄まして思い出して
最初に聞いた「Welcome」
Remember けれどもしも
思い出せないなら
私いつでもあなたに言う
生まれてくれて「Welcome」
(「誕生」)
高度経済成長期には「自己の存在価値を見出すための作法」が誰もに存在しました。ところが今は自己存在の根拠をめぐる闘争はとても過酷で個人には厳しい時代です。「そんなことくらい我慢しろ」といってすませられたのは過去の話です。
暗い水の流れに
打たれながら
魚たちのぼってゆく
光っているのは傷ついて
はがれかけたうろこが揺れるから
いっそ水の流れに身をまかせ
流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて
魚たちのぼってゆく
ファイト! 闘う君の歌を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
(「ファイト」)
自殺したくなるほど苦しい人が、自殺しないで生きていると、「えらい」と思います。(中略)そういう人に心から共感します。
仕方ない仕方ない
そんな言葉を
覚えるために生まれてきたの
少しだけ少しだけ
私のことを
愛せる人もいると思いたい
初めましてあした 初めましてあした
あんたと一度つきあわせてよ
(「はじめまして」)
価値は「ある」ものではなく「作る」ものだというのはまさにそういうことです。生きるのが尊いのではなく生きることを引き受けることが尊い。
もういくつめの遠回り道
行き止まり道
手にさげた鈴の音は
帰ろうと言う
急ごうと言う
うなずく私は
帰り道もとうになくしたのを
知っている
(「遍路」)
「敬う」というのは基本的に想像力です。先ほどの「慈悲」の話と一緒です。相手のあり方とその苦しさを何とかわかろうとする努力。ここに慈悲の根幹があります。
ああ
人はけもの
牙も毒も棘もなく
ただ痛むための
涙だけを持って生まれた
裸すぎるけものたちだから
僕はほめる
君の知らぬ君について
いくつでも
触れようとされるだけで
痛む人はやけどしてるから
通り過ぎる街の中で
そんな人を見かけないか
(「瞬きもせず」)
「個人」は別のものに照らさないと見えてきません。そのための「鏡」としての宗教は今の日本には存在しません。だから人間関係をつくるための「共同体」が必要とされています。
月よ照らしておくれ
涙でにじまないで
僕の身のほどじゃなく
夢だけを照らしてよ
夢の通り道を僕は追ってゆく
(「夢の通り道を僕は歩いている」)
<心の行き場を受け入れる里山資本主義>
このところ、里山資本主義のお話をしながら「社会を小さく回すことにより包摂度を上げることが必要」ということを何度も述べてきました。社会、行政システム、経済、エネルギー等の観点から様々な識者が同様の考えを持つに至っていることを紹介してきました。
ここに至って心の問題からも同じ要請があるということがわかりますね。
中島みゆきさんはDJとして、南直哉さんは禅僧として、今を生きる人たちの様々な悩みに直面しながら、「頑張ればなんとかなる」では問題は片付かないことを、直感的に感じていると思います。それが以上のような言葉に昇華されています。
ひとつだけ中島みゆきさんにお願いしたい!かつてDJとしてリスナーと共有していた時間はまさにここでいう「小さな社会」だった。そこは誰もが承認される広場のようなものだった。そういう意識で、新たな場を復活させて欲しいですね!
(現在「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」として少しだけ復活しています)
<僕が死にたかった頃>
35歳で設計士として独立して三年目に、ばったり仕事がなくなった。数ケ月全く売り上げがなかった。その間も所員の給料や事務所経費に蓄えはどんどん消えてゆく。最後は食費しか削るところはないので、夜は食べ残しを冷凍しておき、昼は朝、家で食パンを二枚焼いてきて食べた。とはいえ「頼る先」はあったので、経済的にどうしようもなくなるわけではなかったが、心はどうしようもなかったですね。
当時夫婦仲は最悪で、よるとたかると掴み合いの喧嘩をしていた。原因は根深く、将来は真っ暗だった。でもやはり「子はカスガイ」でした。
「こんな時代もあったねといつか話せる日がくるわ」と中島みゆきさんの「時代」を口ずさみながら、「いつまでこの歌を歌い続けないといけないのかなあ・・・」と思った。夜は「朝、目が覚めなければよいのに」と思いながら寝ました。
今も仕事は世の中にさほど認められているわけではないけれど、「目の前のお客さんに喜んでもらえばそれ以上は欲を出さない」と割り切っています。
最近、奥さんとは仲良しです。やはり「受け入れること」しか、道はない。昔は「自分の信念に従う」ことが最優先事項だったので、奥さんがわかって欲しいと思うことをわかってあげられなかった。南直哉さんの言う「慈悲の心」「想像力」が欠如してたわけです。昨年そのことを奥さんに謝りました。気づくのが遅すぎですね・・・