建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

31回目 あなたにもっとユーモアを!

 

■H26年3月14日

31回目 あなたにもっとユーモアを!
~YOU MORE HUMOUR~

お笑い番組と「ユーモア」>

 
最近お笑い番組を全く見ません。別に何か主義主張があって、そうしてるのでは全くないし、他の人が見るのを否定する気もありません。ただ見る気がしないというか頭が拒否反応を起こす。なぜそうなったんだろう??
 かくいう私も、昔は
明石家電子台から探偵!ナイトスクープまで、大好きなお笑い番組がありました。特に探偵!ナイトスクープは「これ以上のTV番組はない!」と思ってたほど夢中になってた。今「全国アホバカ分布図」を初めて見たとしても、面白いと思うでしょう。この番組を見なくなった理由とお笑い番組見る気がしない理由は多分密接に関係していると思います。
 まずきっかけは
探偵!ナイトスクープ-アホの遺伝子」という番組のプロデューサー(松本修氏)が書いた本を読んだことだと思う。この本の基調にあるのは「いかにアホなことをして人に受けるか」という考えに基づいて、この番組がどうやって成功したかを自画自賛することだった。そうか「笑わせるための演出」だったのだな・・と考えると嫌になってきた。でも局長が上岡龍太郎だった頃はそれだけではない何かがあった!
 
「全国アホバカ分布図」の場合は、まず「アホという地域とバカという地域の境界線を探ると、その間にタワケという言葉を使う地域があることが分かったので、アホとタワケの境界線を調べた」というのがまず第一歩でした。「それならは全国のアホバカにあたる言葉と、その境界線を調べてみよう」と発展した。そうして視聴者の協力により全国アホバカ分布図が完成した。すると、東北と九州といった、かけ離れた地域で同じ言葉が使われていることが視覚化された。この事実は、日本文化が都であった京都を中心に同心円が広がる形で文化が伝播したという説の証明であることが判明しました。
 もうひとつ私が感銘をうけたのは
「淀川の対岸まで紙飛行機を飛ばせますか?」という質問に真剣に取り組んだ話です。どうなったと思いますか?私は「無駄なことを!だいたい川に平行に吹く風に流されて対岸まで届くはずない!アホか!」と思いました。でも事実は逆でした。まさにその風を利用することで可能だったのです。そのためには、リリースポイントを高くすることが必要とわかり、最後はクレーンを導入しました「一見できそうにないこともやってみれば可能性はある!」ことを目の当たりにし、思わずTVの前で快哉を叫んでしまいました!!
 アホバカ分布図の場合は「この調査を全国に広げたらどうなるか?」という発想が必要だっただろうし、紙飛行機の場合には「とにかくいっぺんやってみよう」という飛躍が必要だったはず。これが「思ってもみない」結果を生み出した。「受け狙い」の場合には予定調和が必要ですから、このような番組は決してできなかっただろうと思います。多分そのポイントで上岡龍太郎氏は重要な役割をしていたのだと想像します。
 このへんに「ユーモア」の本質がありそうです。

<日本人と「ユーモア」>
 「ツービート」や「ざ・ぼんち」の全盛期だった1980~82年の「漫才ブーム」は「予定調和的」「定型的」な笑いのパターンの宝庫でした。観客は「受ける」ことを前提に見てましたから、漫才師が登場しただけで大爆笑になるような世界だった。このような場を否定するつもりはありません。なんの弊害もないし。(強いて言えば芸人の質が低下するということくらいか?)「お笑い番組が大好き」という叔母がいますが、77歳でいまでも農作業を一人前にこなしています。きつい水ナス栽培作業を終えて、夜にお笑い番組を見るのはストレス解消にとても良いと思います。感覚的」な笑いはとても健康的だと思います。 
 たぶん私の場合は体のストレスより心のストレスがたまってるのでしょうか。この種の笑いでは、あとに何も残らない虚しさがあります。時間の無駄だと感じてしまいます。かけらでもいいから「虚像」ではなく「真実」が欲しいなと思うわけ。べつにいい恰好をしようとしてるのではありませんが、笑う時も「理性」に訴えてほしい
 明治初期に来日し、日本文化を研究したイギリス人のバジル・チェンバレンは著書の中で「日本人の笑いは、英国人のユーモアに見られる隠された涙、自己批判、というものが欠けている。(中略)日本人の笑いは、古代ローマのお祭り騒ぎを連想させる。野卑な冗談、無礼な駄洒落、悪質なあてこすり、騒々しい馬鹿笑い」とこき下ろしました。多分これは五割方、文化の不理解によるもので、あと五割は、ストレス解消のための笑いを冷たい目で見たからでしょう。でも日本人にユーモアのセンスが決して欠けていないことは、「ユーモア」精神が第一に要求される「イグノーベル賞を多数受賞していることで証明されています。

<イグノーベル賞と「ユーモア」>        

Photo_2 例えば鈴木松美は2002年に犬語の翻訳機バウリンガルによりこの賞を受賞しています。  面白いことに受賞部門は「平和賞」。とはいえ、この章の場合「受賞部門」の枠はなくて、受賞者を決めてからそれにふさわしい受賞名を決めるとのこと。面白いですね。また2007年に山本麻由氏がウシの排泄物からバニラの香り成分を抽出した研究により「化学賞」を受賞して以来、2013年まで日本人が連続受賞しています。
 この章の受賞のための公式基準は「まず人を笑わせ、そして考えさせること」です。では何を考えさせるのか?志村幸雄氏著「笑う科学・イグノーベル賞」(PHPサイエンスワールド新書)によれば、
①理にかなっている
②アイデアが卓抜
③目の付けどころがよい
④常識にとらわれない
⑤真理をついている
⑥些細なことを解明する
⑦誰も相手にしなかった問題に光を当てる
⑧集中力を発揮して執拗に取り組む
⑨対象テーマが非科学的であることを立証する
⑩興味本位のテーマだが一応筋道を立てて解き明かす。

 「ユーモア」の本質をうまく言い当てていると思ったので列挙しました。「ユーモア」は「真実をウイットを用いて柔らかく伝えること」と言えるかもしれません。

 

<「ユーモア」のある時・ない時>
 話を整理します。「笑い」には「感覚的な笑い」と「理性的な笑い」がありますが、「ユーモア」は後者にあたるものです。では「ユーモア」がないとどうなるか?何の役に立つのか?思考実験スタート!
 ここはとある音楽雑誌の編集室。次号の目玉は歴代のアーテイストのランキング付けですが、Rさんはローリングストーンズ、Bさんはビートルズが1位だと主張して譲らない。自分自身の音楽観をかけた議論が沸騰寸前。ヒットチャートの成績、コンテンツの売り上げ、テクニック、等数値による比較は拮抗しています。正直二人とも疲れてきています。さてどう決着したものか?そこに編集長がやってきて事情を理解して言いました。「石でカブトムシをどついたら、死んじゃうからやっぱローリングストーンズの勝ち!」・・・さて二人はどう反応するか?
Rさん:「編集長!そんな話をしてるんとちゃいますよー」
Bさん:「まあ一理あるからいいっかーもう疲れたしー」

なんとか決着がつきそうです。(とそんなにうまくいくとは限りませんが)
これは上の「⑨対象テーマが非科学的であることを立証する」が近いような気がします。要は全く異なる視点を持ち込むことによって二人の目線を同じ方向にひきつけてるわけ。そのバカバカしさによって、自分たちの主張を続ける価値について再考させる効果があったと考えられます。結果妥協が成立する可能性が出てきました。

<「ユーモア」と議論>
 「笑い」はそもそも争い事をおさめる手打ちの儀式として発生したらしい。(
コンラート・ローレンツ「攻撃」より)以降「ユーモア」は「友好のためのテクニック」として発達したという面があります。
 イギリスでは伝統的に「ユーモア」は資質として重んじられ、議会の討論においても駆使される。
チャーチル首相ブレア首相も達人であったらしい。

 
ブレア首相の演説:「イギリスが抱えている問題は3つある。・・・教育と・・・教育と教育だ」 
 演説が始まった時の緊張した空気を想像すると思わず吹き出してしまいますね。

 こういうのは日本の政治家は徹底的にダメですね。自分(たち)の主張を繰り返す、あるいは相手(の人たち)を非難ばかり。そこに
「妥協」による創造的な結論はあり得ない。その結果「多数決」だけが決定の手段しかなり得ないという、レベルの低さ。上に立つ者が手本となる正しい議論の方法を示してこそ国民に広く行き渡ると思うのですが・・・・とにかくここから何とかしなければ参加主義による本当の民主主義ははるか彼方の存在です。2010年に亡くなった法社会学小室直樹は生前「日本人にはまだ自らの憲法を書けない」と語っていたそうです。

 最後に我らが(?)小泉首相の国会答弁:
(イラク戦争の際、「イラク大量破壊兵器が見つからない状況で米国を支持したことに対してどう責任をとるのか?」とただされて。)
 「いや、私は出ると思いますよ。フセインの死体が出ないからと言ってフセインはいなかったことになるんですか?」
 この答弁に対する社会学宮台真司氏の感想:
 まるでブラックジョーク!ジョークを前ふりしてから本題を話すのかと思ったら、それが本題だった!(笑)

 はあー