建築にまつわるエトセトラ

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リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

30回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その②

■H26年3月7日

30回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その②
     ~成熟社会は「お先にどうぞ主義」で!~

前回、「倫理」には「人間の尊厳を認める」という不変性を持った「自律性」と「他者の痛みを想像する」という「共有性」が必要条件だというお話をしました。これをもとに、最近の出来事を倫理的に考えてみることにより、「倫理」についてもう少し深く考えてみます。

<一流ホテルによるメニュー偽装と罪悪感>
 
この場合の嘘が法的な罪状以上に倫理的に間違っているのは誰にとっても異論はないでしょうが、なぜこのようなことが、多くのホテルで行われていたのでしょうね?想像しますと・・

 (経営者→料理長)「今年の経営目標を達成するためのは、食材のコストはこれだけに抑えてくれ。ただし、質は落とさないようにね」
 
(経営者の心の中)「無理を言ってるのはわかってるけど、あとは知らないし・・・」
 (料理長→食材の納入業者)「ってわけだから、これだけのコストカットをしてくれという上からの命令なんだ」
 (食材の納入業者)「それなら『クルマエビ』を『ブラックタイガー』にしたらどうですか?味は遜色ありませんよ」
 (料理長→食材の納入業者)「でも質は落とすなと言われてるんだ」
 (食材の納入業者→料理長)「『ブラックタイガー』はクルマエビ科のエビですよ。その意味では同等品と言えますよ。実は○○ホテルさんも同じ手をつかってるんです」
 
(料理長の心の中)「それならメニューはそのままでも言い訳できそうだな」
 (食材の納入業者の心の中)「何かあってもこちらの責任じゃないしね」

 というわけで、めでたく「罪悪感」は約1/3となりました。「マイケル・サンデルの白熱教室」にもでてくる話ですが、多くの人は「自分の手を汚す」ことに抵抗を感じます。例えば目の前の1人を殺したら100人の人が救われるとわかっていても、他人がそうするのは容認するが、自分で実行するのは躊躇する傾向がある。同じ理屈で良心がとがめることでも、罪悪感が薄まれば抵抗がなくなります。という仕組みで、<19回目>にもお話ししましたが「システムは大きくなるほど良心が欠落していく」
 しかし、一人一人が小さな罪悪感に基づいて行動した結果、罪悪が大量生産される結果となりました。多分自分で看板を背負ってる個人経営のレストランでは、同じことは起こりにくいだろうと想像できます。

JR北海道と「衣食足りて礼節を知る」>
 JR北海道の検査データが改ざんされ、あるいは整備不良が多発した事件については、「罪悪感」のあり方が少し異なります。一般マスコミよりもネットの世界で多く語られていますが、JR北海道は、そもそもあまりにも不利な条件での経営を強いられている。鉄道営業キロ数はJR九州とほぼ同じにもかかわらず北海道の人口は九州の約1/3です。経営が他社に比べて格段に厳しいのは、あらかじめわかっていたので、国鉄分割民営化時にはいくらか交付金が出たようですが、焼け石に水でした。
(記事事例:http://www.labornetjp.org/news/2013/1028kuro
 でもこれは始めからわかっていたこと。ある企業の関連会社が格別、経営的に不利であれば、ふつう、再編して助けますよね。JR西日本大阪駅というもっとも便利な場所を私有化し、これをもとに莫大な収益を上げている。JR東海はリニアモーターカーの開業を目指している。JR北海道はどう考えてもドル箱の東京を抱えるJR東日本が面倒見るのが当たり前かと思いますが・・そうしないなら何と包摂度の低いグループでしょう!何かよからぬ利権のにおいがプンプンしますね。
 そもそも最初に倫理を問われるのは、国鉄分割を差配した、政治家や官僚ですが、彼らの過失(作為かもしれない)は何も問われない。こうして「衣食が足りないので礼節を守れない」状況が生じてしまいました。そのせいで歴代JR北海道の社長のうち二人自殺しました。(と思われています。)想像ですが技術者として、わかっててサボらねばならぬ状況はいかほどに苦しかったと思います。
 というわけでこちらは「罪悪感があっても守れなかった倫理」の事例です。で、結果は非常に重い倫理違反となりました。

<個人の倫理観と組織の非倫理的行為>
 上記二例は、「個人」「組織」における倫理観を考えるための事例です。ここには二段階の問題があります。
①個人としての倫理観は組織(あるいは社会)で共通の規範を共有すべきか?
②個人としての倫理が共有できていても組織としての非倫理的行為は止められないか?

 ①についてはそもそも「倫理」の意味が「社会的規範」なので、問題の立て方自体がおかしいのですが、日本では共通の社会的規範が存在しないことが常態化しているためにあえて問題としました。個人の倫理観がバラバラだということは、何の歯止めもないわけですからよいわけはない。前回も申し上げましたが、ここではその社会規範のあり方を考えます。よく指摘されることですが、欧米にはキリスト教が個人の好き嫌いにかかわらず存在するので、「最後に心の拠り所とする場所」があり、歯止めになり得るわけです。でも「メニュー偽装」のような行為が欧米でもないわけではない。こういう「組織の非倫理的行為」に対しては、「社会に対して償う」(例えば公的機関に寄付を行う)というのが彼らの考え方のようです。合理的ですね。
 問題は②のほうです。これについては後でもう少し深く考えますが、もう一つ明確にしておかないといけないのは、ここでは「法律」ではなくあくまで「倫理」を問題にしているという事です。さきほど「歯止め」という言葉を使いましたが、強制的な「罰則」がなく、「宗教」のように信仰に裏付けられることもないという条件で、何を「歯止め」にしたらよいのでしょうか?

市場経済の参加者は道徳を守ることが条件!本当?>
 「経済学の父」アダム・スミス「見えざる手」を機能させるために「市場」と「道徳」が必要と述べている。同じく小室直樹「企業家」と「ギャングやマフィア」の違いは「倫理の有無」と述べている。本来「倫理」のない所には正常な市場経済は成り立たないわけですね!でも一般の風潮としては「企業は利潤をあくことなく追求するのが正しい姿」というのが当たり前になってます。なんだか矛盾しますね。「泥棒さんは規律を守らないといけない」と言われてるような気がします。
 「リーマンショック」は結果的に経済の秀才たちが考えた「サブプライムローン」が原因だった。これがもし「破綻を予期しつつ目先の利益を追い求めた行為」であるなら莫大な「非倫理的行為」ですね。少なくとも何らかの原因によって、多くの人が損害を受けたにもかかわらず、当事者は罪には問われていない。このような「市場のような大きな組織における倫理性」はどう考えたらよいのでしょう。でも「サブプライムローン」を考えた人たちが必ずしも悪意や作為を持っていたとはかぎらない。どうも「倫理」とは何かよくわからなくなってきました。
 
 アダム・スミスの「道徳」とは少し違うのですが、マックス・ウエーバー資本主義がアメリカやイギリスで発生したのは「プロテスタンテイズムの倫理」があったからだと結論付けている。「プロテスタントの人々は神の教えに従い、ひたすら労働することにより、富が生み出された。企業家はそれを浪費したり、自分の快楽のために使用することなく、富を再投資した。こうして結果的に営利を追求することが「神の祝福を得ること」と意識されていた。」
 資本主義の発生時においては、「再投資」が「善を行う事」と直結していた結果、営利の追求が行われました。それはなんの矛盾もなかったどころか、社会の幸福に結びついていたわけです。
 この話でやっとなんとなくわかってきました。私は日本の高度成長時代に団塊の世代が「利益」を追求したのに伴い「効率性」を求めるあまり、様々なものを失う結果になったことを嫌悪してきました。この事実は変わらないと思いますが、でも当人たちはそれを幸福の追求のために当然のことと思い、努力してきたわけですから「倫理的には正当であった」と評価するしかない。すなわち

「倫理」は
【社会の変化によってあるべき姿が変わる】
【行う人の心の幸福に結びつくことによって達成される】

<成熟社会における「倫理」は「お先にどうぞ」主義
 
前回、「倫理は簡単に変わってはいけない」と述べましたが、この考えには修正が必要な事がわかりました。簡単に変わるのはよくないけど、社会体制や世界の状況により、ふさわしい「倫理」があると考えないと「過去」との整合性がとれません。ということはこれからの社会にふさわしい「倫理」を考えればよいという事ですね。ここまでくるとわりとスムーズに考えが進みます!
 前回の最後に考えたことをもとにすれば、成熟社会における「非倫理的行為」は「むやみに利益を追求することにより他者が生きていけなくすること」です。ですからそういうことがないように
「他者に配慮すること」が社会規範とならなければなりません。高度経済成長時代にはかならずしもそうしなくても、他者は生きて行けたわけです。
 これは<そこのけ主義>ではなく<お先にどうぞ主義>と言えばわかりやすいのではと思います。これにはまず前提条件があって、
お先にどうぞ」と言えるためにはまず、衣食が足りていなければならない。JR北海道のような場合は、放置していてはいけない。そういう包摂度の高い社会を実現するのがまず先です。保護されるべき弱者や公益的な組織でない場合は、自分で衣食を確保しないといけませんが同時に「お先にどうぞ」と言われる立場です。遠慮はいらない。なぜなら、<お先にどうぞ主義>では、謙譲の精神が行為者の幸福に結びつくからです。でもはたして「お先にどうぞ私はゆっくり景色でも見ながら歩きますから」・・・というような社会規範が日本で成り立ち得るだろうか?

<北欧における「ヤンテの掟」の不思議
 
22回目にデンマークの幸福度についてお話した時に、割愛してたのですが、北欧には「ヤンテの掟(JanteLaw)」という不思議な教えが人々に影響を与えているそうです。これは1933年にデンマーク人作家が書いた小説に出てくる「ヤンテ」とういう街の11か条からなる掟です。例えば「自分が特別だと思い上がるなかれ」「自分が人より善良だと思うなかれ」というような、謙虚を美徳する教えが並んでいる。デンマークにおける平等を重んじた社会の根底に、この教えがあるとも言えるし、「出る杭を打つ」ような足枷となっていると批判する人もいるようです。いずれにしても、誰もが共通の理念を基準に自分の立ち位置を選ぶということで、この掟が社会と深く結びついているのは確かなようです。
 この掟の精神は仏教の教えを思い起こさせます。

 自分には他者のことは「わからない」ということがわかっていないといけないでしょう。わからないから想像するのです。(中略)ここに「慈悲」の核心があるでしょう(南直哉「なぜこんなに生きにくいのか」新潮文庫

 「人にわかってもらえるとうれしい」「人に喜んでもらえるとうれしい」という価値観で生きるのは幸福だとは思いますが、これと相容れない価値観の人間が大部分(今の日本社会はそういう世の中ですが)という中でこの態度はなかなか難しい・・・単なる「お人好し」になる可能性があります。その意味で「ヤンテの掟」はお手本になる事例です。実際北欧の国々は「平等とは何かを一人一人が考え、実践し、それが幸福に結びつく社会」を試行錯誤しながら作り上げました。

<社会の「パラダイムシフト」が必要                      Photo      

 今、謙譲や慈悲の気持ちを一番持っているのは東北の被災者の人たちかもしれません。さきの大雪で福島の国道4号線に立ち往生したドライバーに飯舘村の住民達がおにぎりを差し入れました。彼らは「これまで国内外からさまざまな支援を受けてきた、ほんの恩返し」と謙虚に語っています。「お先にどうぞ」と言えるためには同じことを言われた経験が大事というわけですね。
 飯舘村ように
「小さく回る中間社会」が重要なのはこの場で何度もお話してきました。難しいのは「競争」「成果」を求められる「企業」のような組織がふるまう際、「うちは神様じゃないのでその振る舞いが社会にとって善なのか悪なのかわからん!」という困難があることです。「謙譲」が「萎縮」に結びついてはいけない。そうなると健全な社会ではありません。
 ここに社会としての
パラダイムシフトの必要性」があります。これは小さな社会を包摂する国家というような大きな社会の話でしか解決不可能な問題ですね。大きな社会は、「富のばらまき」ではなく、「再分配」や「格差の調整」や「セーフテイネットの構築」が主要な仕事となります。これは高度成長時代とは明らかに重点のシフトが必要な作業ですね。これがないと倫理の再構築も出来ないという共通認識が必要となります。
 

<「お先にどうぞ主義」は連鎖する>
 
高校の二年先輩に通称「Dさん」がいました。(とても残念な事にお亡くなりになられました。)まさに「お先にどうぞ主義」の人でした。車に乗せてもらうと、どんどん他の車に道を譲ります。それがとても気持ちがいい!何に対しても後ろ向きの話は決してしませんでした。私もいろいろお世話になりました。「まわりの人が幸せになることが幸せ」ということを、ごく自然に実行していた人でした。なのでDさんの周りにはいろんな人が集まってきて楽しかった。今や伝説の先輩です。
 私も20回目以降この
里山資本主義」シリーズを考えながら、頭の中がすっかり「お先にどうぞ主義」になってしまった。昔は例えばスーパーで駐車する際、なるべく入口の近くに止めれないとムカついていたものですが、最近は近くはお年寄りとかが止めればよいと思い、却って止めにくい所を選んで止めます。いいでしょ!今の目標は典型的高度経済成長時代型<そこのけ主義>である私の奥さんを感化することですが、これが難しい!Dさんとの人間力の差を痛感しています。