建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

32回目 「フーテンの寅さん」から日本の再構築を考える

■H26年3月28日

32回目 フーテンの寅さん」から日本の再構築を考える

<子供の心を持ったまま大きくなった大人>

 武田邦彦氏がいいことを言ってた。(言葉そのままではありませんが)「赤ちゃんはみんなやる気満々です。物を触ったり、なめたりしてるのを見ると、身の回りの事柄に興味津々であるのがよくわかります。それが成長する過程で、なぜか無気力で無関心な大人になってしまう。とっても残念です。」・・・考えさせられますね・・・
 なので「子供の心を持ったまま大人になった人」は魅力的です。そういう人は「大人げない」行為で周囲の人たちを困惑させることもある一方、分別のありすぎる大人には不可能な行為により、キラリと光る真実を感じさせる事もある。そういう人物が主人公として
描かれたのが「じゃりんこチエのテツ」であり、男はつらいよの寅さん」です。
 テツにも寅さんにも周囲に熱烈なファンがいます。テツの場合は例えば
花井拳骨。(テツの小学校の先生でもあり、地元の名士でもあPhoto る。) 花井先生はテツを教え子の同窓会に連れて行く。なぜなら先生は教え子の出世自慢を聞くのがいやだから。テツにはそんな世俗的・常識的な話は通用しない。「それがなんじゃ!」と品の良い教え子たちを蹴散らしてしまう。そんなテツを見て花井先生は溜飲を下げます。
 寅さんの場合は、毎回登場する様々な境遇のマドンナ役の女性ですね。
吉永小百合(歌子)は、父親との関係で悩む女性だったし、岸恵子(りつ子)は経済的に苦しむ画家でした。寅さんは誰でも先入観なく彼女らを受け入れ、励ますことにより、自然に彼女らを癒すことになります。

<「フーテンの寅さん」の世界>

 最近、(特にやしきたかじんさんの亡き後)見たいと思うTV番組がなくなりました。今は唯一、関西では土曜日にBSジャパンでやってる男はつらいよだけが楽しみです。なぜ今寅さんなのか?
 この映画は水戸黄門と同じく、毎回決まったパターンを持ったストーリーで構成されています。それでは前回話に出た「漫才ブームの漫才」と同じで「定型的なパターン」ではないか?と思われる方もいるかもしれませんが、違うのです。その決まったパターンの中で「その時代における人生の真実」を描こうとしています。吉永小百合の場合は父親一人を残して結婚する苦悩であるし、岸恵子の場合は女性が芸術家として独り立ちすることの苦悩です。その苦悩を寅さんと、Photo_2 寅屋の家族達は暖かく包み込みます。一緒に悩み、考えます。そのあり様は、今では、少なくとも私の身の回りでは、かつてはあったが失われてしまった世界です。そこのところが、心を打つ。結果、マドンナの悩みが解消されることもあれば、悩みを引き受けながら生きていく決意に至ることもある。解消しない場合でも妹のさくら倍賞千恵子さん)が、「困った時はいつでも来てね。」と声をかける。まさに包摂度の高い世界です。今、こういう空間があれば、救われた人がどれだけいるだろう。「水戸黄門」のように「権威」によって問題が解決するのではない。ここが一番の違いですね。ですので、私は悩みを抱えるマドンナが、寅屋を訪れて、みんなで楽しく食事をする場面がいちばん好きです。うるうるしてしまいます。ここで癒されたマドンナは方向を見出して新たな一歩を踏み出します。その結果寅さんが失恋するというのが物語のパターンですね。

<「フーテンの寅さん」の構造>

 この映画一作ごとの性格は寅さんと毎回変わるマドンナ(とその関係者)で規定されます。極端にいえば、その他はいつも全く同じ構成です。この部分を「胴体」とすれば、寅さんとマドンナは「頭」の部分と言えます。テレビ版も含めると変わっていないのは寅さんの渥美清氏だけです。氏がいわば「フーテンの寅さん」のアイデンテイテイーだったわけです。そのアイデンテイテイーはマドンナと共にに発揮されます。だから映画のポスターは大抵、寅さんとマドンナが大写しになっています。またその結果、氏が役を演じられなくなると同時に「フーテンの寅さん」も終わりました。 
 しかし、この作品を質的に成立させているのは「胴体」部分です。胴体Photo_4部分はさくらをはじめ、柴又帝釈天の御前様等々、のレギュラー出演者、山田洋次監督はじめスタッフとなりますが、メンバーは入れ替わりながらも同質性を保っている。ほとんどの作品で監督・脚本を担当している山田洋次氏が中心的な役割を果たしてるでしょう。以下映画配給会社、制作会社等々莫大な数の人・もの・金が関わっています。これらをベースとして「頭」の部分が乗ってる構造ですね。ただ「胴体」の多くの部分は視聴者からは見えません。また「頭」をすげ替えても作品としては成り立ちます。ただこの作品の場合は渥美清氏のアイデンテイテイーがあまりに強力だったので、頭をすげ替えることはありませんでした。
 「頭」と「胴体」の部分がお互いを尊重しあい、要求を出し合い、あるいは喧嘩しながら映画はできていったのでしょう。

<身体と心の関係> 

 私達の「自意識」「身体(本能)」も同じ関係にあります。「身体」は膨大に複雑で精密な活動をしています。「本能」は意識しなくても生きていくのに必要な行動をしてくれます。私たちの意識はその上にあぐらをかいている会社のCEOのような存在です(7回目「無意識」への招待その1参照)身体は1年もすれば分子レベルで100%入れ替わります。(福岡伸一氏「動的平衡に詳しい)1年前の自分は今の自分とは物質的には別人です。
 この「胴体」部分の上に「頭」部分である「自意識」が乗っかってる。この部分が、アイデンテイテイーを保持しているので、物質的には別人であっても「自分」だと言えるわけです。7回目でもお話したように、「頭」部分はほとんど「胴体」部分がやってくれていることを追認しているのですが、理性を使って考えることにより「胴体」部分に命令することもできる。例えばもっと体を強靭にせねばと思えばトレーニングすることもできる。かじ取りをすることができるわけですね。進化の結果この「自意識」を獲得したことが人間の人間たる由縁です。

<日本の肉体改造の方向性> 

 ここからが、本題なのですが、この関係は国家といった社会構造の場合も全く同質です。「頭」部分は政府とりわけ総理大臣ですね。「胴体」は累々と存在する議員、官僚、その他公務員らの構成する統治機構、および国民が構成する社会ですね。さしずめフーテンの寅さんの「胴体」部分における主役が山田洋次氏であるとすれば、国家の場合は国民です。「頭」と「胴体」の関係は上の文章がそのまま当てはまります。今、日本は「再構築」が必要で、実際そのための努力が行われています。この構造を前提と考えた場合、はたしてその再構築における方向付けは正しいか??
 日本の現在の状況は29回目(どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その①)で述べたように、個人の存在根拠が見つけにくく、
なおかつ社会の個人に対する包摂度の低い世の中です。「胴体」の構成要素自体が病んでいるのですから、まず「頭」より「胴体」の体質改善をする必要があります。といった方向性が認識されているか?

<この体はドーピングでは持たない!> 

 最近のニュースで「海外で通用している優良中小企業100社を選定し、優先的に補助する」とありました。また昨年、「産業競争力会議」において成長戦略の唯一の目玉として市販薬のインターネット販売の解禁が話し合われた。どちらも同じ方向性なのですが、とにかく看板女優をしたてあげてマドンナにするというやりかたですね。まず見かけの良いポスターを刷りたいというのが見え見えです。
 今のモノが飽和した状況で、ある企業が突出して成長するということは、競争に勝つ→敗者をつくる。という構造が全然理解されてません。マドンナをまつり上げるほど、胴体部分が衰弱してしまうのです。
 TVを見てても、経済を立て直すために日本の企業がとるべき戦略としてイノベーションにより付加価値の高い商品を開発し、競争に勝ち残る」ということを述べる解説者がいます。これは「ある企業が生き残るための方策」であり、「日本経済全体に対する処方箋」ではない!!今必要なのは、「スターを作って牽引役にすることではなく、普通の国民が、努力すれば食える仕組みをつくること」であり、そのために必要なのは「分かち合い、包摂、適正な再分配」の政策です!!「パイが限られていれば、競争して取り合うのではなく、上手に分けないといけない」というのは算数レベルの話なのですが、なぜ分からないのだろう?不思議ですね??もちろんスターをつくることも必要なのですが、それだけでよいと思ってるところが大問題ですね。
 今行われている方法(いわゆる「アベノミクス」)を経済学者の浜矩子氏はある番組で「いかさまドーピング」だと話していました。正しい方向に向かうためには「胴体」の主役である国民が「頭」にもの申さないといけませんね。

<「フーテンの寅さん」のエンデイング>

 「フーテンの寅さん」の場合、しっちゃかめっちゃかになりそうな物語を収束させるのは、妹のさくらの役目です。会うべき人に会い、説得すべき人を説得し、バランスをとった解決法を探ります。いささかオーバーランしてしまった寅さんはさくらに諌められ、反省します。そして「いつかお前が喜ぶような 偉い兄貴になりたくて奮闘努力」するために旅に出てしまうのです。

いやあ本当にさくらさんって魅力的ですね~

<終わり>