建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

45回目 西洋的思考法の袋小路

 45回目 西洋的思考法の袋小路
      ー「全体論」へー

<西洋医学の限界>

 「免役革命」(新潟大学医学部教授 安保徹著)という本を読みました。最初のほうでは「温熱療法」や「玄米食」がガン治療に効果がある、というような話から始まったので、なんだか怪しげな本かと思ったのですが、結果、大いに納得してしまいました。
 要点は以下のようなものです。
現代医学(西洋医学)はガン、アレルギー疾患等の組織障害を伴う疾患に対しては全く無力である。基本的に対症療法でしかないので治癒力をかえって弱めてしまう。
 ガン細胞は普段でも我々の体の中で発生しているそうですが、リンパ球等よりもはるかに生命力が弱いので、簡単に撃退される。それが強度のストレス等の原因により、増殖して抑制できなくなって病気になる。ここで免役を高める治療をすることで回復が見込めるはずの場合でも、今の医学は全く無頓着に抗ガン剤を処方してしまう。これでは「症状を取り除く」ことばかり考える結果、本来の原因である体の働きを弱めてしまい、却って症状を悪化させてしまう。
 著者が主張するのは、「自律神経系」「白血球」「代謝エネルギー」の3つのシステムをとらえることにより身体のシステム全体のバランスを考える医学が必要だということですこれは対症療法を重視する西洋医学の方向性とは全く逆のベクトルをもった考え方です。

 西洋的思考法「抽象化」の上で「分析」することを旨とします。これを「還元主義」といいますね。ものをバラバラにして純粋な要素を取り出すことにより、原理を明らかにするという方法です。これにより、様々な事象が明らかになってきました。物体の「抽象化」により、運動方程式が導かれ、どのような物体でも、初期条件が明らかになれば、未来がすべて計算できると思われていました。
 ところが「量子」レベルに至って、この信念は崩れました。量子の「位置」と「運動量」は同時に特定できないことがわかってきました。その名も「不確定性原理」。初期条件が特定できなければ未来を計算することもできません。アインシュタインはこれが不満で、これは人間が観測する手段を持たないからにすぎない、と反論しました。これが「神はサイコロを振らない」という言葉になりました。しかしながら還元主義手法の限界はいろんな分野で現れてきています。

<遺伝子と脳細胞の研究から>

 分子生物学者の福岡伸一はかつてある物質を細胞内に取り込むための遺伝子を特定しました。ここまでは正しい分析的方法です。逆に、その遺伝子を持たないマウスを育てて、この遺伝子の欠如により、ある病気(糖尿病)になることで、この遺伝子の欠如と糖尿病が、必要十分な関係にあることを、実証しようとしました。ところが、待てど暮らせどマウスはぴんぴんしています。確かに特定した遺伝子の機能は損なわれていたが、別の遺伝子が、代替機能を発揮して、マウスを正常に保っていたのです。結局,病気の原因を確定することはできませんでした。

 生命というものは、総合的に補完しあいながら、働いているのであり、完全な分業で成り立っているのではないということです。結果、一つの原因では発病しないシステムが体の中に成立している。ということは、個々の部分を分析するだけでは、病気の仕組みは解明できません。同じようなことが脳細胞の研究でも発現しています。

 視聴覚等の刺激に対して脳のどの部分が機能を担っているかを分析することにより、脳の仕組みを解明しようという様々な研究が行われています。実験方法は飛躍的に発展し、ある刺激に対して脳のどの部分に電流が流れるかを測定することが可能です。ところが、ひとつの刺激に対して、様々な部分が反応します。ここら辺が一番主な部分かなと特定していっても、別の刺激でも反応したりする。また先ほどの例と同様に、見当をつけた部分を欠損させた脳を刺激すると、別の部分が肩代わりして反応したりする。こうしていつまでたっても、脳のしくみは解明できないというのが現状です。

<経済の仕組みが解れば苦労しない>

 経済学についても同様です。アベノミクスを推進する高橋洋一などは「これは、経済学で数理的に証明されている理論なので正しい」という説明をしますが、それが正解ならばとっくに景気が良くなっているはずでしょ。そんなに精密な理論があるなら、なぜ「リーマンショックが予想できなかったのか?」と問われるとおそらく答えに窮するはずです。
 なぜそうなるか。藻谷浩介氏はいつも「経済学」と「実態経済」は全く異なるのだ、と主張します。「抽象化」しないと数理化は難しいのですが、逆にどんどん実態とはかけ離れてしまうということですね。早い話が、42回目にお話したように、所得は「自由競争により能力のある人間が大きな成果を得る」ということは現実の世の中ではありえないのですが、「経済学」は自由競争を前提にした理論です。

 もうひとつ、経済や生命のようなシステムのメカニズムが解明できない理由は、要素同士が作用し合ってシステムに対して様々な「フィードバック」をもたらすことです。少しずつの変化が、ある時爆発的な変化をもたらすような作用となることもある。「恐慌」などはその例ですね。あるいは相互作用が、新たな秩序を生み出す「自己組織化」という現象も生じる。物質から「生命」が誕生したのはその例ですし、受精卵が機能分化して、様々な臓器となるのも自己組織化ですね。これらは結果を分析しても無意味な現象です。

<複雑性に取り組む姿勢>

 生命や経済のしくみといった、複雑な構造を明らかにしようとする試みのひとつが、アメリカのサンタフェ研究所の取り組みです。たとえば要素間の相互作用について、どういう初期条件を与えれば、複雑さを生じる振る舞いをするかを探っています。

 これに対して、全く逆な方向性で複雑性に取り組もうとする方法を提案しているのが、経済学者である金子勝と医学者である児玉龍彦による「逆システム学」です。これは私の理解では以下のような態度によります。

 そもそも要素からアプローチするのではなく、「全体」の動きを捉えようとする。ある変化や刺激に対して、「全体」がどういうフィードバックを引き起こすかを観察する。先ほど「脳」の例で挙げたように、実際には複雑な経路を経て、アウトプットが生じるのですが、そのひとうひとつの経路を明らかにするのではなく、結果だけを捉えることにより、全体の仕組みを(分析するのではなく)理解しようとする姿勢だと思います。

<うちの奥さんの複雑性>

 この「逆システム学」は「分析」ではなく、全体をあいまいなままとらえようとする、極めて「東洋的」な考え方のように思います。

 たとえば、私は奥さんと結婚して27年ですが、彼女を理屈で理解しようということについては放棄しております。例えば
・奥さんは電車にのるのが大嫌いです。電車のターミナルの近くに用事があるときでさえ、車で送れ!と私に申し付けます。
・私は犬を飼うなら、柴犬しかないと思っていますが、奥さんはいやだという。なぜか?柴犬の尻尾は巻いているので、お尻の穴が見えているからだそうな。(あんたが尻の穴を見せてるわけじゃないでしょうが・・)

 昔は価値観の相違により、離婚寸前まで、喧嘩をしたものです。今はなんとかおつきあいをしております。理屈ではなく、こういうことをしたら、こういう反応が返ってくる。これについては彼女にとって人格を否定するのと同じである。という、フィードバックを経験的に理解しております。こうして、理屈ではなく、経験的に彼女を理解しているわけです。多分「逆システム学」とはこういうものじゃないでしょうか。

環境倫理学から:ベアード・キャリコットの「全体論」>

 環境という、複雑な構造に対しても同じような「東洋的な」方向性が求められています。「環境」は、時間的にも空間的にも個人のスケールを超えてる。でも、環境にどう対応するかは、そこに住む人たちが判断しないといけない。ではどうすればよいか?
 ベアード・キャリコットは対象とする環境の全体を一個の生き物としてとらえる必要があるとする全体論を唱えています。
 詳しくは、宮台真司「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」というシンポジウムにおいて、市民が環境とどう向き合えばよいかという話をした中に詳しく説明されていますので参照ください。
http://world-architects.blogspot.jp/2013/11/nationalstadium-miyadai.html
 ここで注目したいのは、ベアード・キャリコットが京都学派哲学の影響を受けているということです。私は詳しく存じませんが、京都学派は、日本の学問が手本としてきた西洋的手法に東洋的思想を融合させようとしたとのこと。そこに全体論が生まれるわけです。

スペシャリストだけではどうにもならない>

 私は建築の設計の仕事をしながら、ひとつの物をまとめ上げるには、統合するための理念が必要だということを身に着けました。建築は分析だけでは成立しません。様々な条件を統合する作業です。構造設計者や設備設計者といったスペシャリストも必要ですが、彼らだけでは建築としてまとまりません。総合的に物事を判断するジェネラリストが必要です。
   ただ、世の中では何となくスペシャリストが重んじられ、本来専門外の物事を決定しています。原発問題なんかはまさにそうですね。原子炉(釜ですね)の専門家が、避難計画を審査したりしています。

全体論へ>

 だから物事を包括的に論じられるゼネラリストが必要なのですが、単なる「物知り」だけではいけないのが難しい。また、そういう人が重視されていないところが問題ですね。
 そもそも東洋医学」は「まじない」で「西洋医学」は「科学的」だという先入観を転換することが必要です。でなければ西洋的思考はここまで述べたように袋小路に入ってしまいますね。

 (冒頭にお話しした)「安保徹さんの本には『抗がん剤は使うな』と書いてありましたが、先生がガンになったらどうしますか?」と知り合いの内科医に質問をしました。
 先生も即断できないようでしたが、以下のような話をしてくださいました。「例えば、少し前まで不治の病気だったC型肝炎も、完全に治る薬ができています。西洋医学はダメだということは一概には言えませんね。」

 「西洋」がダメで「東洋」がよいと断言してしまうのもここで言う「西洋的思考法」になってしまいます。そうするとまた「全体」が見えなくなってしまいますね。

 *注:「東洋的」「西洋的」という言葉は本来、もっと多様な意味を持っていますが、ここでは説明のため大雑把に、「総合的」「分析的」程度の意味に使いました。念のため