■H26年4月15日
33回目 「ゲーデルの定理」によるコンプレックス解消法
~まずは身をかわし、ゆっくりと親しむ~
<私の「哲学」コンプレックス>
大学生時代、私は建築学科に所属した。妙に消極的な物言いですね。それは「なぜ建築学科を選んだか?」について、確固とした理由はなかったからです。「建築家は格好よさそう!会社勤めしなくてもよさそうやし?(当時ネスカフェのコマーシャルに清家清という建築家が出演していて、イメージがよかった)」「地に足がついた実践的な仕事のほうが好きだった。(当時から電磁気といった目に見えない分野は好きではなかった)」という理由で漠然とした選択をしただけです。今でも覚えていますが、一回生の時、建築家「丹下健三」の名前を知らなくて、理学部の友人をあきれさせた・・・
友人には、建築家になることを目標に入学してきた同級生がいました。必然的に彼らはみんなをけん引する存在になって行きます。私などは、彼らに振り落とされないようになんとか着いて行く金魚のフンのような存在でした。もちろん彼らは私の知らない建築家の名前を知ってますし、「哲学的建築論」にも精通していた。彼ら同志が会話してると訳がわからないので入っていけない!「フッサール」とか「バシュラール」とかいう哲学者の話をしている。当時は「記号論」とか「現象学」の流行した時代です。なんとなく憧れるがついて行けない。建築雑誌で紹介されていた「零度のエクリチュール」(ロラン・バルト)という本を試しに買って読んでみたがさっぱりわからない・・・
そのうち四回生になって、研究室を選ぶ段階になりました。これは、何を専門にするか選択するということです。上記のような先進的な友人は「意匠系」へと進みます。哲学書を読むのを避けたい私はフィールドワーク中心の「計画系」へと進みました。結果的にこれは正しい選択だったと思いますが、コンプレックスはその後も残り続ける・・・・
就職後のことですが、「ゲーデルの不完全性定理」と出会いまし た。本の名前は忘れましたが、内容は印象的だったので、それ以来記憶に残っています。本当は厳密な論理に基づく定理なので、完全に正確とは言えませんが、当時の私の解釈は以下の通りです。
なんと「どんな理論体系も、その体系の中でその理論が真であることの証明はできない」ということを証明した人がいる!
これは愉快だな!!と思いました。ということは、「ある哲学者が自分の哲学の体系を構築しても真であることは証明できない。」→「哲学は役にたたない」という事や!当時私は独立して建築設計をするための技術書ばかり読んでいた。それでも心の奥にコンプレックスはあったと見えて、そこから解放されたような気がした!!!
例えばあなたが何か大きな組織、体系などの対象にコンプレックスを持っている場合、その対象の理屈が真に正しいということをその対象自身が証明することはできません。例えば会社や大学の言ってることは、会社や大学の関係者が正しいと結論づけるのは不可能です。ですので、深刻に考えるのはやめましょう。
もしあなたが、身近な人にコンプレックスを持っている場合、その人に「あなたの言ってることはおかしい。あなたは嘘つきですよね?」と問うてください。その人が嘘つきの場合、嘘をついて「そうではない」と答えます。嘘つきでない場合ももちろん「そうではない」と答えます。どちらでも同じ答えになるわけですから、その人は自分が「嘘つきではない」と証明できないわけです。(実はこの「嘘つきのパラドックス」がゲーデルの定理の証明と深く関わっています。)詳しくは「ゲーデルの哲学」(高橋昌一郎著 講談社現代新書)を参照ください。
もちろん第三者が登場して、どちらが正しいかを客観的に判断すれば、証明となります。身近なコンプレックスはこれを実行するか、あるいは実行したと心の中で想像して、とりあえずコンプレックスから回避しましょう。(そうはできないコンプレックスもあるかもしれませんが・・)
<遠回りして「哲学」と近づいてしまった>
独立後は、「建築の技術のことしか知らないというのは薄っぺらな人間になってしまう!」と思い立ち、知識の範囲を広げることにしました。それでも「俺は理科系人間や!」という意識があったので、「経済・社会・政治」といった文系方面に興味を抱かなかった。ましてや「哲学」をや!
このブログシリーズ(特に20回目以降)を読んでいただいたらわかるのですが、最近は文系の本をよく読みます。これは以前にもお話しましたが、地元の公共事業(岸和田市丘陵地区整備事業)に地権者としてかかわることになり、事業の姿は本来どうあるべきか?という疑問から、社会・経済のことを知りたいと思ったからです。
その過程で成熟社会(=経済成長に依存しない社会)へのパラダイムシフトが必要だという事を認識しました。その方向性が「里山資本主義」であり「参加と自治による包摂度の高い社会」であるわけです。
では「参加と自治」はどのように実現可能か?どうしたらコミュニテイーが正しく物事を決定していけるか?その際の社会倫理はどうあるべきか?(これは29、30回目のお話です)ということで「哲学」に近づいてきてしまいました。
上記の設問に答えるためには「コミュニタリアニズム」という社会倫理の考え方が参考になります。ということで「これからの『正義』の話をしよう」(マイケル・サンデル)を読みました。マイケル・サンデルがコミュニタリアニズムにたどり着いた経緯を理解しようと思うと「アリストテレス」「カント」の哲学を理解する必要があります。
ああ「カント」までたどり着いちゃったか~って感じです。
<「コンプレックス」に親しむ!?>
今となっては何のコンプレックスもなく「哲学」と接しています。なんででしょう?多分、「避けたい気持ちがコンプレックスになってしまう」という気がします。今は自分の方から進んで近づいているのでなんの抵抗もない。年齢を経たということもあるでしょうね。若い時には、頭でわかってもできないことはある。現実は頭で考えるほど単純じゃない!その場合はとりあえず回避しておきましょう。それだけでは、気持ちがおさまらない場合は「ゲーデルの不完全性定理」を思い出して気を楽にしましょう!50歳を過ぎたころに再び向き合ってみれば、多分何とも思わなくなっているかもしれない。
確かに「哲学」というのは学者の数だけ理論があって、とても「誰が正しい」とは言えません。上記のマイケル・サンデルの著書の中にも「何をもって正義とするか」を様々な賢人が思考した過程が語られています。それは単に自己満足のためではなく、「公正な社会はどう成立するか?」という現実的な問題に直面し、苦悩した結果です。その真剣ささえ理解できれば、自然と親しみがわいてきます。
<それでも解消されない「コンプレックス」は最新科学に頼る!>
それでも癒されない「コンプレックス」はありますよね。たとえば「体の不具合」とか「容姿について」とか・・・究極的には本人の問題ですから、気休めにしかならないかもしれないけれど、「こんな考え方もあるかな?」というお話をします。(少し「飛んだ」内容ですが・・・)
あらゆる物質は原子で構成されます。私たちの体も、そこにあるリンゴも石もすべてそうです。原子は原子核とその周囲を回る電子から構成されますが、中身はスカスカです。原子核をテニスボールの大きさだと想像すると、軌道電子は5kmほど離れたところを回っていることになるそうな。それらの集合した物質が、なぜ透けて見えずに物質として見えるか?それは単に私たちの脳がそういう風に認識してるからにすぎません!10回目にお話ししましたが、ある脳科学者の女性(ジル・ボルト・テイラー)が脳卒中になり、「自己認識」にかかわる部分に損傷を受けました。その時彼女は世界を「粒子の流れであり、点描画のよう」に認識したという。最新の宇宙論では「私たちが世界を三次元として認識してるのは、宇宙に存在する二次元の情報を再構成しているにすぎない。」という説もあるそうです。私たちは粒子の流れに漂う、うたかたの存在にしか過ぎないわけです。
なぜかそのような存在に「自意識」という厄介者が乗っかってるので欲望や喜怒哀楽が生じてしまいます。前回もお話ししましたが、この「自意識」もほとんどは「無意識」が処理した結果を追認しているだけの存在です。いやなことは「無意識」のせいなのです。困ったことは「無意識」のせいにしてしまいましょう!
<私のもう一つのコンプレックス>
私には昔からもうひとつコンプレックスがありました。(実はさっきの「哲学コンプレックス」よりも深刻な話です)人前で話するのがすごく苦手でした。中学に入ったくらいから、授業中にあてられただけでも、話をしてると声が上ずってしまう。必要以上に緊張する性質だった。それはずっと引きずって、独立する際もそれが一番心配事でした。結果的には場数を踏むことによって、解消されました。いまでは「国会答弁だってやってやる!」と思ってますが・・
これについても、考えようがあります。知人が向精神薬によって、性格改善した実例も見ているし、脳出血で脳の一部に障害を受けると性格が変わるという例も多くあります。あくまで情緒に関する障害は脳の機能によるものです。「自分」のせいではありません。機能を改善することは可能です。
<ゲーデル氏の最期>
さてこれまでのお話でコンプレックスは解消できたでしょうか?そんな簡単ではないですよね・・・・
画期的な業績を上げたゲーデル氏でしたが、晩年は人格障害に病み、治療も拒否して食事に手をつけない状況で死を迎えたそうです。でも最後まで学問に対する情熱は衰えなかったらしい。「神」や「来世」の存在証明にも取り組んでいます。これは世の中に不合理があってはならないという信念に基づいているようです。以下はゲーデル氏が母へ宛てた手紙の結論です。
「世界は合理的に構成され、疑問の余地のない意味を持ってるという信念を、私は神学的世界像と呼んでいます。この信念は、即座に次の結論を導きます。私たちの存在は、現世ではきわめて疑わしい意味しか持たないのですから、それは、来世の存在という目的のための手段に違いありません。そして、すべてのものに意味があるという信念は、すべての結果に原因があるという科学的原理とも対応しているのです。」