建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

34回目 あなたが殺したい相手はどこに存在するのでしょう?

■H26年5月12日

34回目 あなたが殺したい相手はどこに存在するのでしょう?

<人の性格は脳の機能に依存するようです>

 母親が認知症になって以来、人の精神の不思議を実感する。週に一度母親は病院の脳トレーニングに通ってるが、「今日は足が痛くて大儀なのでやめとく」という。仕方なく病院の迎えを断るのだが、その後何食わぬ顔で洗濯してたりする。「足が痛くないのか?」と問うと「だいぶ良くなった」という。「医者に行くか?」と聞くと「それほどでもない」という。とにかく「時系列的に考える」とか「論理的に思考する」というのは全く無くて何につけても「その時、その場でつじつまを合わせてるだけ」なのです。
 ケアマネージャーさんにそういう話をすると「脳血管障害型」の認知症の場合などはもっと大変で、性格が変わって凶暴になったりする。とのこと。(ちなみにうちの母親は「アルツハイマー型」です。) 
 この種の話は脳神経関係の本で読んだことがある。脳卒中で脳の特定の部分にに障害を受けると、突然「性犯罪を犯す傾向」が生じたりするといった事例です。ということは「人の性格・性向は(100%かどうかはわからないが)脳の機能によって決定される脳内現象である」ということですね。

<自己意識は脳内現象か?>

 では、自分を自分と意識している存在(自己意識)は、脳内現象でしょうか?例えば交通事故で脳に障害が発生すれば、自己意識の在り方は変わるのでしょうか?私は多分そうじゃないやろ、と考えています。
 その根拠は以下によります。「9回目<無意識への招待>その3」  にも書きましたので参照ください。「超常現象」と考えられていた「臨死体験」は今では脳のある部分が作用する「脳内現象」であることがわかっています。ただそれでは説明がつかないのが、「体外離脱」とか「転生」とかいった現象です。ここでは詳しく説明しませんが、「意識」には今の科学では解明できていない存在形態があって、そこではこのような現象が起こり得ると考える方が合理的だと思っています。Photo_3 また「意識」の役割はなにかというと、会社のCEOのようなもので、体や無意識が勝手にやってくれていることに対してあとから報告を受け取る立場です。ただ、この報告をもとに意思決定をする役割でもあります。「7回目<無意識への招待>その1」参照)
 
この考え方をすると、通常の「精神」と「肉体」とは、区分する場所がひとつずれますので、ここでは「自己意識」「ヒト機能体」という区分で話を進めます。(図参照)脳が損傷すれば影響を受けるのが「ヒト機能体」であり、受けないのが「自己意識」だと思ってください。
 ちなみにこれは科学者によっても意見が分かれています。東大病院救急部の矢作直樹氏や解剖学者の養老猛氏は、同様の意見の持ち主ですが脳科学者の茂木健一郎は、すべてが脳内現象だと考える立場です。 

<例えば「脳死」をどう考えるか>

 でもこのように考えると「死」に向き合う態度が少し変わってきます。死がヒト機能体の死を意味するのは確かですが、自己意識にとっては何を意味するか?先ほどの「幽体離脱」や「転生」を説明するためには、死後も別の存在形態で存続するのかもしれませんが、「山本一晃」の意識が「山本一晃」として存続するわけではありませんから、そういう意味では「終わり」を意味しますね。ここでは霊魂や死後の世界の存在がテーマではありませんから、これを自己意識の「死」として話を進めます。
 例えば「脳死」はヒト機能体の死を人間の「死」と見なすということになります。山本一晃としての意識は死んでないのにこれを山本一晃の「死」とみなしてよいのか?疑問が残りますね。

<「死刑」はもっとわからなくなる!>

 「死刑」についても別の観点が見えてきます。最初にお話したように、犯罪傾向は脳内作用が影響します。A氏がB氏を殺したのはA氏のヒト機能体の原因によるものであり、A氏の自己意識によるものではないかもしれない。A氏を死刑にすることはどちらも一緒に死を宣告することになる。私は(少なくとも今までは)死刑廃止論者ではありませんが、こう考えるとわからなくなってきました。
 たとえば自己意識の例えを「CEO」ではなく保護者である「親」のようなものだとしましょう。子供が人を殺してしまったとき、親も罪の意識を持つでしょうが、親を一緒に強制的に死刑にしてよいものか?少なくとも「意思」を確認すべきでは?と思ってしまいます。
 これは死刑になった人に死刑を受け入れるか意思確認するという事ですね。小学校で8人の子供を殺傷した宅間守は死刑の早期執行を望み、実行されました。あり得ない考え方ではないのでは?と思います。

<他人の痛みを理解する手段>

 「他人の痛みをわかる」「他人の苦しみを想像できる」ことが社会規範の根拠となることを30回目(どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その②)でお話ししました。今回の考え方はそのための手掛かりになるのではと考えます。
 知り合いにうつ病の人がいます。それに対してまわりの家族もいろいろ悩みます。ついつい「本人の意志が弱いからだ。根性だせば治る!」と考えてしまいがちです。でも今回の考え方をすれば見方が変わってきます。つまり、病気なのはあくまで「ヒト機能体」の方なわけです。自己意識ではどうにもならないから本人も苦しいに違いありません。本人が悪いわけではない!

  「自己意識」は可哀そうなことに、ペアを組む「ヒト機能体」が、意志通り動いてくれなかったりするわけですね。CEOも苦労は尽きない!「個人」は英語でIndivisual「divide(分割)できない」と表現しますが、実は分割できるわけで、このペアでできている。かどうかは定かではないけれど、このように考えることは、無駄ではないと思います。おそらくですが、このペアのことを歌っているのが中島みゆきの「二隻の船」。かどうかは定かでないけど私はそうだと思っています。

おまえとわたしは たとえば二隻の船
暗い海をわたっていくひとつひとつの船
互いの姿は波に隔てられても
同じ歌を歌いながらゆく二隻の船
時流を泳ぐ海鳥たちは
むごい摂理をつぶやくばかり
いつかちぎれる絆 見たさに
高く 高く 高く