建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

46回目 それは重ね合わせられないでしょ!

46回目 それは重ね合わせられないでしょ!

<あっちこっちから一度に宿題出すな!> 

 ・・と思ったことありませんか?もちろん学生時代の話です。国語と算数と英語の宿題を明日までやってこいと一度に出されても困るわけです。それぞれの先生は、個人個人の事情は考慮せずに機械的に必要な宿題を出してるだけ。したがって場合によっては不条理に重なってしまう。されど一日にできる勉強時間なんて限度がある。人によっては、家業の手伝いをしないといけない学生もいるかもしれない。容量を超えて重ね合わせることはできない!そういう条件を考慮されるべき場合がある、という話です。

<重ね合わせの原理>

 重ね合わせが可能という現象もあります。高校の物理の授業で「重ね合わせの原理」というのを習いましたね。
 「電源を複数持つ回路において、回路における電流、電圧は、それぞれの電源が単独に存在していた場合の和に等しい。」
 大雑把にいえば、電源が、それぞれ単独にある場合の電流、電圧を計算して足し算すればよいという、物理の問題を解くには便利な法則でした。

 「重ね合わせできる」のは「波」に可能な芸当です。(写真参照)Photo
よく考えると「波」というのは不思議ですね。「伝わる」のですが、物質(媒質)は移動するわけではない。各点の変位がそれぞれの足し算(重ね合わせ)になるわけです。そうして波はもう一つの波に関係なく進んでいきます。これが「粒子」だとそうはいかない。異なる方向から飛んできた粒子がぶつかると、衝突の条件によって方向がかわり、二度ともとの軌道には戻れません。光は波と粒子の両方の性質を持っているというのも物理で習いましたね。これはとてもややこしくて不思議な話なので、深入りしません。
 問題は、重ね合わせ可能であるかは、「波」の性質か「粒子」の性質かによって、変わるんだということです。

<「重ね合わせ」の見られる現象>

 現実社会でも「波の重ね合わせ」に似た現象があります。最近「丹波地方では名古屋弁に似た方言を持っている」という話を聞きました。
 かの有名な「全国アホバカ分布図」(31回目参照)は、方言が京都を中心に同心円が広がるように伝播した、ということを見事に示しました。丹波地方の方言を見てみると、「昨日」のことを→「きんのう」と言ったり、「去る」のことを→「いぬ」と言ったり、私の地元(泉州地方)とよく似た言葉使いが見られます。これはまさに上の事実を示しています。
 丹波では、さらに名古屋を中心とした、文化の波が伝わって、重ね合わせられた方言を構成しているという事ですね。

<重ね合わせ可能性は条件による>

 「文化の波」のように「大きさ」がなくて「変化」に限界がないもののなかには重ね合わせが可能なものが見られます。冒頭で述べた「宿題」の事例では、「時間量」の大きさが関係するので、宿題に必要な時間が個人が使える時間に対して「飽和」してしまえば、重ね合わせは不可能になります。もちろん、「飽和」する前にも、宿題以外に使える時間は少なくなる。
 今となっては「宿題」からは、開放されましたが、同じような「邪鬼」が時間を食いつぶしに来る!それは「役所手続きに要する作業」です!!みなさん心当たりがあるでしょう!!!
 仕事でかかわったいろんな業界の方が同じ悲鳴を上げていました。介護業界の厚生省に対する申請業務、お医者さんの健康保険の点数計算等々・・・「業界」とは関係なく「年金の確認をしろ!」とか「裁判に参加しろ!」とか!おそらくこの30年で、この種の手続きは3倍になってます。(これは建築申請手続きにおける体感値です。)
 営業的には、これらの手続きは、売り上げには結びつきません。にもかかわらず、役所の人は、これらに要する時間はゼロとしか考えていないとしか思えませんね!!!!これを莫大な損失だと認識できる政治家やお役人はいないのでしょうか????

<「時間量」の壁を消し去った分野>

 時間量の制約を飛躍的に打ち破ったのは、「電子商取引です。IT技術は一億分の一秒単位で取引をすることを可能にしました。これは一日の時間が何倍にも長くなったことを意味します。

 近代資本主義は「拡大再生産」により、「成長」することを前提としています。でないと「投資」という行為は成立しません。「成長」するためには、経済活動が拡大するための「空間」が必要です。かつての植民地獲得競争はまさにこれが目的でした。今は戦争による領土獲得はできませんが、先進国は軒並みモノが飽和した状態にあり、成長は鈍化あるいはストップすることを強いられているのが現状です。経済学者の水野和夫氏によると、フランス、ドイツはEUを利用して「空間」を拡大したのに対して、アメリカ、イギリスは上記の技術により金融の中に成長のための「空間」を見出したとのことです。

 ただ金融空間はあくまで仮想の空間であり、拡大はどこかで行き詰ります。これがバブル崩壊という現象ですが、アメリカ、イギリスは数年ごとにバブルを清算しながら経済成長を維持するという戦略をとっている、というのが水野氏の見解です。
 かつて貧しかった国もモノの飽和が急速に進んでいるそうです。中国なんかはその意味でブラックホールのような存在という気がするのですが、それに反して同様の現象がみられるとのこと。工業における生産効率の上昇がすさまじい勢いで進んでいるからですね。
 そのうち世界全体でモノが飽和すれば、「成長」は止まる理屈ですが、そうなれば、新たな資本主義の形態を考えないといけません。

<「経済効果」のまやかし>

 現象を重ね合わせできるか、というのは構成要素にとって、波のように重ね合わせられる事なのか、粒子のように同時に存在できずに飽和すればそれ以上重ね合わせられない事なのか、という条件によるのです。この条件を無視してるなあ、と思うものの最たるものが「経済効果」です。

 最近で言えば、北陸新幹線の開通による石川県内の経済効果は約80億円と報道されていました。二次波及効果を含めると約120億円という試算がでています。(日本政策投資銀行による)
 さて、この経済効果は日本の経済拡大に寄与したのでしょうか?非常にあやしいですよね。金沢に行く人が増えた分、他の場所への旅行者は確実に減っています。
 日本旅行業協会のデータによると、日本国内の旅行者数(従業員10人以上の宿泊施設)は2008年→3億970万人、2012年→3億6000万人と増加傾向にあります。ただ旅行業者の取扱額は2008年→7.2兆円、2012年→5.9兆円と減少傾向にあります。
 日本における観光業の成長という意味では後者の数字が指標になりますね。この傾向は北陸新幹線ができたからといって2015年も大きく変わるとは思えません。さらに、在来線を利用する地元の人は料金が高くなって不便になりますし、メンテナンス費用は路線が二重になったぶん、確実に上昇します。いわゆる「経済効果」だけで新幹線をどんどん作るのは如何なものか?という話です。
 1964年、私が4歳の時、東海道新幹線が開業しました。「新幹線に乗りたい」という理由で「じゃ思い切って東京まで旅行するか!」といった人も多かった。我が家もそうでしたから。当時は今ほど娯楽のメニューもなかった時代です。「飽和」には程遠い条件でしたから、確実に「経済成長」に寄与したでしょう。
 これと同じことを「リニアモーター新幹線」に期待するのは大間違いですね!

原子力発電所の避難計画も・・>

 2007年の中越沖地震が起きた際、柏崎刈羽原発はホットラインのある部屋のドアが地震で歪んでしまい、県庁と柏崎刈羽原発が直接連絡することができなくなった。泉田知事はこの事実を重く受け止め、再稼働するための条件の甘さを指摘しています。
  「何重もの安全」というのはとても怪しい言葉です。非常時の電源確保のために、電源車を分散して配置するという対策が謳われていますが、地震時にドライバーがそこにたどりつける保証はない。大飯原発では避難ルートが一本しかないことが問題になっていますが、何重もの安全がすべてそのルートをあてにしているならば、そのルートがふさがれば「何重も」は全く意味がないことになりますね。
 地震時にはいろんな障害が重なり合います。その際機能を果たさなければならない要素がそれによって機能不全に陥る可能性は十分あるわけです。阪神大震災の際は同時多発的に火事が発生しました。そのため、「火事の際には消防車が駆けつけてきてくれる。」という常識が通用しませんでした。重ね合わせは不可能なのです。

<モノの飽和あるいはバブル崩壊

 私が建築設計の仕事を始めたのは1984年です。マンションの設計をする場合、エアコン用のコンセントは居間と主寝室にしか設置しませんでした。TV受け口も同様です。一家に2台TVを持つ世帯はほとんどありませんでした。これらはその後急速に普及が進み、今ではどの部屋でも設置できるようにするのが常識です。経済成長が続いたからできた、というかこの事自体が経済成長だったのです。やがてモノが飽和し、行き場を失ったカネが金融市場に流れ、バブルが崩壊し、経済の低迷が始まった。

 その後西暦2000年前後に、今まで存在しなかった「パソコン」なるものが急速に普及し、「ITバブル」と言われた時代がありました。この「ITバブル」はモノが飽和した成熟社会のモノとカネの関係をよく表した現象だったと思います。今までみんな持っていなかったパソコンが普及していったので、その分モノが売れ、一時経済が成長しました。しかしその後も日本の経済は低迷し続けた。これは、皆がパソコンあるいはネットというものを理解していく過程で、多くのモノが排除された結果ではないだろうかと思います。TVガイドとか地図とかはどんどん不要になりましたし、私は現在新聞をとらなくなりました。料理のレシピもネットを見ます。果たしてこれは経済成長という面からみてプラスでしょうかマイナスでしょうか?人が移動しなくてもよくなった分、マイナスなんじゃないかな?
 確実に事実なのは、通信会社と電力会社だけは、成長を続けているということなのですが・・・

<成熟社会を生きる>

 ではモノが飽和して経済成長しなくなれば資本主義が行き詰るのか?問題は今の資本主義が「経済成長」を前提として組み立てられていることです。これをちゃんと転換できればよいはずなんですが。というのは「経済成長」というのはこれまでの人類の歴史において19,20世紀に特異な現象なのですよ。

 「拡大再生産」しないといけないという呪縛から逃れることができれば、ゆっくり立ち止まってまわりを見回す余裕もできるんでしょうね。江戸時代なんかそうだったんじゃないでしょうか。

 そうなればきっといっぺんに出される宿題に追いまくられることもなくなるかもしれません。