建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

27回目 「パブロフの犬」を疑え!

■H25年12月26日

27回目 パブロフの犬」を疑え!
~私達は「意志」を生かせていない

<あなたは操られるのがお好きですか?> 
 
 数年前、娘が大学受験を控えていた夏休みの事、立命館大学のオープンキャンパスに付き合った。そこで目の当たりにした大学の光景には非常な違和感を覚えた。
①キャンパスがあまりに清潔。大学を非難する看板などは一切見当たらない。(私が学生の頃はどの大学も窓はポスターをはがした糊の跡だらけだった)
②夏の酷暑の中、学生たちが「大学のために」働いているのは、昔の感覚では考えられない。(大人には反発するものだという認識があった)プレゼンテーションする大学生の話が上手すぎる!
③説明が本当ならば、大学・教師・生徒が一丸となって、大学のランクを上げようと努力している。そのためには先生も評価を挙げなければならない。(大変そう!)等々

 「実はこの日のために皆が演技をしているのです」と言ってくれた方が信じられるのにと思ったが、どうも現実らしい。なぜ学生はこんなに「管理しやすく」なったのだろう?その時は「時代も変わったもんだ」くらいに思っていた。
 
 動物行動学者であるコンラート・ローレンツ「文明化した人間の八つの大罪」(思索社)のなかで、現在の人間における「本能」行動が、本来なら種を維持するための行動であるのに、逆に生物システムにとって克服しがたい障害をもたらしつつあることを指摘している。
 八つのうち一つが「教化されやすさ」です。別な言い方をするとパブロフの犬になるな!」という警告です。全体主義の国家にとってもそうであるのと同様に、資本主義の企業家にとっても人間が画一的でコントロールしやすいことは望ましい。だから今の大学生にも気をつけるようにと言っておきます。
 人間は「不安・不快に弱く、なるべく避けようとする」。ここを上手に刺激されると、宗教における狂信と同じで、単純化された教義により、心理的に支配されてしまう。「流行」もよく似たものですね。
 ポイントは「教義はなるべく単純な方が効果的に浸透する」ということ。人間は進化の結果「自意識を持って思考できる」「その結果高度な社会の仕組みを構成できる」という能力を得たにもかかわらず、物事をよく理解した人の説明は複雑すぎて「大衆」には受け入れられない。(この点はこのブログでも何回か指摘してきました。)
 結果として、「大衆」が受け入れ可能な方向へと「淘汰」が進んでしまう。人間が得た高い能力である「意志」が社会としては生きてこない。驚くのはローレンツが1973年に同じ指摘をしているという事。やっぱ人間は「性懲りがない」のか?

 

<「パブロフの犬」実験の後日譚> 
 パブロフに師事していた神経学者のリデル氏は検証実験として、まず犬にメトロノームが加速されると唾液を分泌するように条件づけた。その後「犬を支持台からはずしてしまったら、どんなことがおこるだろう?」と考えた。(実はパブロフの犬の実験では、「条件反射」を確実に起こさせるため、犬を固定して唾液以外は使えぬようにしていたのです!)犬を放してやったら何が起こったか!メトロノームが加速されないのを見て、「跳んで行ってネトロノームを鼻で押し、さかんに尻尾を振って、激しく唾液を分泌しながら、メトロノームを加速しようとした!」つまり「メトロノームが加速したので条件反射により唾液を分泌した」というより「犬は『メトロノームが餌の原因だ』という仮説を作り上げていた。支持台に拘束されていた時は『唾液を分泌する』という手段で餌乞いをしていただけ」ということです。ローレンツの言いたいことは「『パブロフの犬』でさえ条件反射が行動の唯一の要素ではない。本当はもっと複雑な話を単純化しているだけ。ましてや人間はもっと知性を発揮せよ!」ということです。
 パブロフ氏は怒って「この話を人に漏らすな!」とリデル氏に命じたとのこと・・・・

<忘れ去られる教え「つらい一週間のあとの楽しい休日」> 
 ローレンツが憂慮することのもう一つは「感性の衰退」です。原始時代においては「快・不快の欲望に従う行動」は理にかなっていた。大型動物をつかまえた時は腹いっぱい食べておく必要があったし、無駄なエネルギーを消費しないためにだらだらしておく必要もあった。
 同じメカニズムが今日の文明生活のもとでは壊滅的な機能錯誤をもたらす。近代人は快楽を求め、不快を避けるあまり、「喜び」を得るために努力することをしなくなる傾向にある「今日たえず増大しつつある不快に対する不寛容性は、自然な起伏を人工的にならされた平原に変える。(中略)要するにそれは、死のような倦怠を生み出すのである。」

ローレンツはこういった流れに対してどうしたらよいと考えているか。それは今の人間で十分対応可能だと言う。
 
「国家をどう統治するか、敵対する二つの民族、二つのイデオロギーの協同をどう確立させていくか、というわれわれの問題は、(中略)探究や想像の力によって解かれるべきなのです。」

 

<私達は生命のメカニズムとの折り合いをどうつければよいだろう> 
 以上のような準備思考をもとに、前回宿題にしていた難問を考えたいと思います。ローレンツのお話から得られることは「私たちは自分の意志で平衡状態を見出す必要がある。」ということです。その平衡状態をどこに見出すか?
 前回は「社会の包摂度を高めることが不安の解消につながり、苦難に対するもうひとつの対処法となる」ということを提示しました。これは例えば遺伝病においても、リスクを限りなく0にするというよりも人間共通に存在するリスクは、運命として捉え、病気になった時は社会が対処するという考えです。
 一方、医学者の
中村祐輔氏は著書「遺伝子で診断する」(PHP新書)の中で遺伝子診断を批判する人に対して、さまざまな問題は認めながら「あなたは、癌患者、とくに若い癌患者が癌で苦しみ、亡くなっていく姿を一度でも目にしたことがありますか?」「癌患者の苦しみを知らない人が、無責任にしたり顔でこのような意見を述べるのを耳にするたびに私の血圧は上昇します。」と書いておられます。重い言葉だと思います。

 

<社会的に「便宜的な」考え方> 
 社会システムを成り立たせるという意味で割り切った考え方もある。それは、リスクの最小化を図ろうとすれば、「性行為」と「生殖行為」を分離して、全部人工授精にすればよいという考えです。実際高齢出産の際に行われている方法です。
 人工受精卵を検査し、染色体異常のないものだけを子宮に戻す。そうすれば、前回述べた出生前診断のように中絶手術によるリスクもなくなる。もちろんこれは費用は社会が負担する前提です。あり得る話ですね。
 先ほどのローレンツの言葉を借りれば、これは不快に対する行き過ぎた不寛容になるのだろうか?

 一般の人でも平均すると一人当たり10個以上の重い常染色体劣性遺伝病の遺伝子異常を持っているという。「劣性」の場合は両親とも異常でなければ発病しないわけで、遺伝情報30億個のうちの10個ですから、ほんとに巨大なルーレットを回すようなものです。人類は長い年月、この確率論と付き合ってきたわけですね。でも上記のような方法で、染色体異常の子供を減らしていったとして、将来人間にどのような変化が現れるのだろう?良くなるなら可能性はありますね。楽天的に考えれば、これは「人間の意志」による進化となりうるでしょうか?

 この先は考えてもわからないので、とりあえず結論を出しておきます。
①「苦痛」を伴う病気は科学の力でリスクを最小にする努力を行う。(これは上記の人工授精も含めた話)
②「不快」程度であれば、あえてリスクを0にしようとはせず、社会の包摂度を高めて対応する。

<死にたいときに死ねたらよい?> 

ただ「便宜的に割り切る」ことを進めていくと実は様々な問題が待ち構えている。例えば中絶胎児の臓器は臓器移植にとってよい供給源です。それならば「臓器を売るために中絶する」というのは割り切ってよい話だろうか?
 「脳死」による臓器移植も便宜的なものですね。なにしろまだ動いている心臓を取り出すのですから。

 私の奥さんは、「年取って子供に迷惑かけたくないので、死にたい時に死ねるようにするべきだ」という考えの持ち主です。社会的コストという意味ではとても「便宜的」な話ですね。不慮の死となるよりも準備をして死ねるというのも魅力的です。(悪用される可能性はいっぱいありますが・・)現在積極的安楽死(といっても不治の病だけしか認められませんが)は数か国でしか認められていません。私はどちらかというと、「苦しみ」があってこその「喜び」だと思うのですが、先述の中村氏には叱られそうです。あなたはどう思いますか?

まずなによりもこういったことを理性的に決めれる意志を持った社会を作ることが何よりも先ですね・・・・