建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

36回目 「勇ましい言葉」は君を守ったかい?

■H26年7月16日

 36回目 「勇ましい言葉」は君を守ったかい?
     ーもう風にならないかー
 

集団的自衛権の説明から> 

 「終わらざる夏」(浅田次郎著)を読みました。そこでは第二次大戦の終戦間際に、兵員が不足し、家族の事情なんぞ考慮されずに徴兵され、将棋の駒のように操られる人々の悲惨が描かれています。
 その時代、軍が国民に発するのは数々の「勇ましい言葉」でした。
曰く「大東亜共栄圏をめざす」
曰く「神国日本が負けるわけはない」

 浅田次郎氏は、これらの言葉を人々に納得させるために、政治と祭祀(天皇の神格化)を一致させることが必要だったのではと物語っています。
 その結果、多くの非人間的行為が正当化され、不幸が量産されました。

 安倍首相の口からも多くの「勇ましい言葉」が発せられます。

曰く「戦後レジームからの脱却」
曰く「再び日本が世界の舞台で主導権を握る」

 これって安全保障を外国に依存している国の言えることなの?と素直に感じます。そもそも日本の「戦後レジーム」は連合国の組織である国際連合日米安全保障条約によって成り立っている。日本は敗戦し、国体の維持のために「手打ち」をした。その結果できたのが今のレジームですね。そこから脱却するのは容易ではない。やってること(集団的自衛権の行使)は、米国のポチになることであり、全く逆ですね。
 ということはこれらの言葉は理屈に基づかない、宗教掛かった「呪文」のようなものでしかありえない。その教義は「経済成長」ですかね。

 もし「主体的に」世界に貢献しようとするなら、まず「集団的(=アメリカのお友達)」ではなく、自らの「自衛」を責任を持って行うことだと思うのですが??「勇ましい言葉」はそうなって初めて言えるはず。でなければ、主人の後ろに隠れて吠えている犬のようなものですわね。

<W杯のサッカー日本代表の報道から>

 私は中学・高校とサッカー部でした。日本代表の選手が満員のワールドカップの会場に入場して、紙吹雪が舞うなんて、当時は想像もできませんでした。だから今の熱狂ぶりはうれしいし、心から代表を応援しています。弱かった時代の代表を知っているからこそ、次のような言葉には違和感を覚えます。

曰く「世界一を目指す」(長友選手、本田選手の言葉)
曰く「我々は代表を信じている」(ギリシャ戦の前の毎日新聞の見出し)

 ギリシャ戦に勝てなかった試合の後、セルジオ越後氏は語っています。
「これが実力だ。結果は驚きでもなんでもない。今大会の他の試合を見れば一目瞭然だ。日本はどの国よりも未熟で、どの国よりも走っていないし、迫力がない。にも関わらず、一番期待されている国だ。<中略>本当のことを言おうとしないメディア。強化よりも興行に気を取られてきた結果、自分たちの実力が実態以上に大きく見えるようになってしまった。」
 全くその通り。なぜ冷静に評価できないのか?メデイアは戦争報道に対する反省から何も学んでいない。「負けたのは気合が足りなかったから」だというのでしょうか?(敗戦後、実際そう語った陸軍参謀がいたらしい。)勝つことを「信じている」のであれば、敗戦は「裏切り」を意味するのか?「戦犯」と特定しないと気が済まないの?私から見れば、ギリシャと互角以上に戦えること自体立派です。予選の3試合を生き生きと戦ってくれれば、「楽しかった。有難う!」と思える。今の日本のレベルではそれだけで十分。
 相手も頑張るのだから、勝つこともあるし負けることもある。だから楽しめる訳!必ず勝つことを義務付けられたらスポーツじゃないです!!
 内容を伴わない「勇ましい言葉」は虚しい結果に結びつきます。もし最初から冷静に見ていた方が、スポーツをスポーツとして楽しめたと思いませんか?

<東北の復興現場から>

 復興の仕事で宮城県へ行ってきた。松島近くの海岸で防潮堤の予定計画高を表示した構造物を見ながら、上記と同じような印象を受けた。本気でこんな不自然な構造物を本気で作るつもりなのでしょうか?(写真で向こうに見える赤白のバーが防潮堤の大きさを示しています。)Photo_2
 宮城県では百年に一度予想される津波高さを基準とした防潮堤を 
県内全域に構築する計画を持っており、村井知事は意欲満々です。
(平成26年1月6日知事記者会見より)
曰く「頑固だと言われるかもしれませんけれども、県民の命を守る。」
曰く「50年後、100年後、私は生きていないと思いますけれども、そのときの県民の声を聞きながら判断をしていくというのが私に課せられた使命だ」

 勇ましいですね。安倍首相集団的自衛権の説明の際に「国民の安全を守るため」と説明をしていました。さて、彼らは国民や県民の何をどう守ると言ってるのでしょうか?

<何をどう守るのか?>

 これらの言葉が「勇ましい言葉」に聞こえるのは、「私達一人一人を守ってあげる」と聞こえ、頼もしいと思えるからでしょう。でもそんなことは可能か?
 先日台風8号が日本列島を通過しました。風はさほどでもなかったですが、雨の影響による土石流等により、3人が死亡しました。H25年度には交通事故で4373人が死亡しました。これらを0にしますと言ってることと同じことだと思います。<26回目「苦難」を克服するもう一つの方法>で詳しくお話しましたが「リスクを0にすることはファシズムです。」例えば自動車の制限時速を20Kmに制限すれば交通事故は激減するでしょう。でもそれで社会生活が成り立ちません。私たちはそのリスクを受け入れて生活しているわけです。そこのところの妥協を強いずに、「守ってあげる」と言われるのはとても耳触りが良い。でも中身は「無茶」そのものです。それは私たちに跳ね返ってきます。
 だからまずは私たちが構成員である「社会」「環境」をどう存続させるかをまず考えないといけない。どこで手を打つかを探らないといけない。「津波」のことだけをとらえて他に捨象されてるものに目を向けないと近視眼的になってしまう。その結果無茶なことに気づかない。そこのところを訴えるのが本当に中身のある「勇ましい言葉」だと思います。
 

 <「自然構造」と「耐力構造」>

 例えば人が歩く通路を持ち上げるための構築物を作るとします。図で上の絵のように、土を盛り上げるのが、一つの方法です。角度を地盤Desu_pdfの安定角度以内にすれば、力は大地に流れ、耐久性は無限です。これを人工の構造物という方法を採用し、床を持ち上げた途端、風圧、地震、荷重といった力に耐える必要のある構造物となります。従って有限の耐久年数が発生します。
 私は建築設計をに携わる者として、人工構造物の魅力を知っています。設計した建築が上棟し、骨組みが組み上がった時の力強さは美しい。でも、それは、耐久性とメンテナンスを覚悟した上の行為でないといけません。
 かつては都市化への対応に迫られて、建築の高層化が進みました。今は本当に必要で例えば超高層マンションが作られてるのか?とても疑問です。実際、超高層マンションの解体方法は確立されてないのが現状です。これも「力強い表現」に内容が伴っていない事例のひとつですね。遠い将来多分大問題になるでしょう。

<もう風にならないか>

 今回のお話は里山資本主義的に生きる方法」の流れの中にあります。これまで何回かお話してきた「里山資本主義」は、マッチョなカッコいいスターがリードする社会ではなく、どちらかというとひ弱かもしれないけど、普通の人々がしなやかに生きる方向を志向しています。そのためには「中身のある自然な思考方法」が必要なのですが、今回はその対極にある、一見「勇ましい言葉」の危うさを述べてきました。

 まとめると
①中身の希薄な「勇ましい言葉」は、虚しい結果を生み出す。
②本当に勇ましい言葉は、「社会」「環境」を時間的・空間的に全体を捉えたバランスの上に成り立つ。
③そのためには「力強さ」よりも「自然な思考」が大切。

ということですね。

 中島みゆきさんのファンの方はお察しの通り、今回のタイトルは彼女の「風にならないか」に由来しています。この歌詞における「風にならないか」の意味は本文で述べたような意味ではないかと想像しながら、筆を運びました。

中島みゆき「風にならないか」)

むずかしい言葉は君を守ったかい
振りまわす刃(やいば)は君を守ったかい
ふりかかる火の粉と
ふりそそぐ愛情を
けして間違わずに来たとは言えない
<中略>
あてにならぬ地図を持ち
ただ立ちすくんでいる
もう風にならないか
ねえ風にならないか