建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

49回目 「京都」考①

49回目 「京都」考①
      ー僕の京都の味わい方ー

 昨年(平成26年)秋、地下鉄の吊り広告で、紅葉の名所として永観堂の写真が掲載されていた。行ったことがなかったし、正直その名前も知らなかった。有名じゃなければ、ひょっとしたらすいてるかなと思って出かけました。実は紅葉の名所としては非常にポピュラーなスポットだったようで、無茶苦茶混んでいましたが、その分一見する価値のある、見事な紅葉でした。Photo_2
 おそらく、紅葉を美しく見せるために相当に手入れを尽くしていると 
思われます。色彩の鮮やかさが違いました。人ごみをかき分けて、バスで乗り入れる団体さんたちが、山門を入った途端、歓声を上げるのが、外からも見て取れました。(写真参照)
 京都の寺社を訪れて、よそと何が違うかと言えば、紅葉に限らず、桜でも苔でも、「そこにあればよい」という考えではなく、「どう見せるのがが風流か」を考え抜いてある。それが他の観光地と一線を画するポイントだと思います。もう少し具体的に説明いたします。

①「地肌を見せるのは興ざめ」という思Photo_3

  庭でも境内でも、これには感心します。これは庭造りの基本ではあるのですが、徹底することは、並大抵のことではない。庭の手入れをしたことのある方は実感すると思います。右の写真は高台寺の庭ですが、石組と苔でできた庭です。地肌はどこにも見えません。TVで三千院の苔の手入れをしているのを見たことがありますが、雑草を一本一本こまめに抜くことによって成り立ってる光景なので す。

②「余計なものを見せない」という思想Photo_7

 さきほどの高台寺の庭は東山の山すそ斜面を利用して作られています。山の方を見ているので、向こうに余計なものは見えない。そういう場所には、このような美しい庭がたくさんあります。地図を見て市街地と周辺の山の境目を探してみてください。嵐山の天竜、大原の三千院、修学院の曼殊院なんかもそうです。
 市街地の真ん中でも、この思想は徹底される。写真は無鄰菴(山縣有朋の別荘)の庭ですが、岡崎の市街地の中にあるとは思えませんね。樹木や塀、築山等を利用しながら、雑音を生じさせるような事物を巧みに隠しながら、外界の存在を感じさせない庭の世界を作り上げています。

③「かよわさ」を生かす思想                         Photo_2

 京都の町屋の柱は奈良などと比べて、ずっと細くて きゃしゃな感じがします。「無骨」はダメなのでしょう。
 写真は先ほどの無鄰菴の裏の方にある中庭です。すぐ引っこ抜けそうな笹が、この控えめな中庭の主役になっています。上の表の庭の華やかさと対照的ですね。Photo_2
 その下は三千院で見た手水鉢。横に植えられた低木の枝が、雰囲気を演出します。ここまでいくと、頭で考えるのは不可能で、手入れしながら、作られた光景だろうと思います。 

<「庭の世界」から「景観」へ>

 これらの「手を抜いてなさ」は他の観光地と比べて歴然と差があるように感じます。先ほどの苔の庭の雑草抜きなどは延々と続く作業ですね。おそらく「そこまでしなければ許されないだろうし、自分も満足できない。」という「意識」が京都の観光スポットとしてのグレードを支えているのでしょう。
 これが、街並みの「景観」という話になると、様相が変わる。個人の意識だけで伝統的な街並みを維持するのは難しい。様々な人々の利害や経済性等の様々な社会条件が関係します。モータリゼーションをはじめ、ライフスタイルも変化する。そこには葛藤がありますね。これについては次回の話題といたします。

 もう37年前になりますが、大学受験で京都を訪れた。受験前日、バスで大学の下見に向かう途中、賀茂川にさしかかった。いきなり目の前の視界が開け、清流が目にはいり、「はっ」としました。
 今まで大都市の川と言えば大阪の川の風景しか知らなかったので驚いたわけです。(当時はほとんどドブ川でした。)ちまちました京都の街並みを一直線に突っ切る空間は爽快そのもの。そこに涼を求めていろんな人が繰り出します。学生時代、上流・中流下流それぞれにそれぞれの季節で楽しませてくれました。賀茂川は今も変わらず流れています。 周囲の景観は結構変化しました。京都の未来を考えてみるのも一興かと思います。