建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

39回目 勝手に対決シリーズ「宮台真司編」

39回目 勝手に対決シリーズ「宮台真司編」

お詫び:諸事情により筆者の情緒が多少不安定になっております。今回に限り文章が多少下品になることをお許しください。なお宮台真司氏については敬称を略させていただいています。

宮台真司は可哀そうな奴だ>

 おーい!宮台!あんたを見てて思うんやけど今まで挫折した経験ないやろ。Miyadaishinjiこっちは挫折しっぱなしやから、弱い者の気持ちがわかるんや。あんたはわからんのとちゃう?そんなんで社会学者としてやっていけるんか?
 たとえば食品偽装の問題では「そういうことは当たり前と考えるべきでさほど騒ぐことではない」と言ってましたな。でもこれはだます方の倫理の問題であって、消費者の意識に責任はないんとちゃうの?
 市民はある意味かしこくないといけないけれど明日の食い扶持のために必死の人もいるんやで。そういう人達の生活をよくするのが社会学の目的のひとつじゃないの?その意味で矛先の方向を間違えてないか?
 あんたの事実認識とそれに基づく理論構成の的確さは認めるよ。例えば「首相の靖国参拝について「日本人として英霊に敬意をしめしてなぜ悪いか!」というよくある主張に対して、「そもそも戦後国体維持のために戦犯の首を差し出して『手打ち』をしたという事実認識が欠如した行為だ」と言う。全く明解な説明で納得できる。
 正直言ってこのブログシリーズの25%は宮台真司から学んだ事です。あと20%は武田邦彦の論理、15%は藻谷浩介氏の分析、残りは萱野稔人氏、広井良典氏、水野和夫氏、浜矩子氏、マイケルサンデル氏等々の成分でできている。、だから25%はあんたのおかげ様です。このブログにオリジナリテイーがあるとは思っていない。ただこれらを組み合わせることで見えてくることがあると思っているのと、ひとりでも多くの人に認識されるべきことを広めたいとは思っている。
 イデオロギーではなく、事実認識と正論で物事を判断しよう」というグリーンアクテイブ(宮台真司中沢新一氏らが設立した政党的組織)の趣旨はよくわかる。そこであんたが提示した「<任せて文句たれる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ。〈空気に縛られる社会〉 から 〈知識を尊重する社会〉へ」という主張もその通りだと経験的に実感している。そういう正論がなぜメジャーになって行かないのか?というのは大問題なんだけど、この文脈において「理屈を理解しようとしない市民は馬鹿だ。」というのと「食品偽装でだまされる市民は馬鹿だ」というのは、話が違うんじゃないの?前者は「市民の自覚」の話だし、後者は「他人に対する信頼性」の話じゃん。
 そんな人を見下したような態度が見えるからあちこちで嫌われるんやないの?もっとも自信があるからかどうか知らんけど全く気にしてないみたいやな。そんな姿を見てると、かえって可哀そうになるよ。

宮台真司はずるい奴だ>

 あんたのトークにおける戦略はわかるねん。一見、聞いてる人の理解を超えるわけのわからん話をしているようだけど、実は聞いてる人のレベルに合わせて、「ぎりぎり理解できないレベル」に合わせてしゃべってるやろ。それが「宮台真司」のイメージ造り戦略やないの?
 そやから非常にレベルの高い人と対談されると本当に困るんや。姜尚中(カンサンジュン)氏との対談「挑発する知」(ちくま文庫)は二回読んでやっと70%くらい理解できた程度やったで。
 でも感心したのは、シンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考えるにおける語り口やった。これは主に建築関係者が主導し、「新国立」案が神宮外苑の都市的文脈を無視し、スケールが大きすぎることに抗議して行われたシンポジウム。その趣旨は私のような建築専門家には理解できるが、「スケールが大きい」ということが、巨大なスケールの建物が林立する東京に住む市民に理解できるのか?と思いながら見ていた。挙句の果ては、主導者であり、親分的存在の槇文彦をみんなでヨイショする始末。建築関係者として情けなかったわ。そんな中で一人だけ毛色の違う宮台真司はどういう説明をしたか?環境と市民の関わり合い方」の概念を歴史的に説明し、その後「その中で市民がどう行動すべきか」を説明した。建築関係者はこの態度を見倣うべきだと思ったね。
 でもね、結局新国立競技場は、申し訳が立つ程度に修正されてなしくずしで進みそうです。この運動も(私はもっと反響があってもよいと思うが)権力側を動かせるほどには市民の支持は広がらなかった。さきほどふれた「グリーンアクテイブ」も世間的にはあまり認知されていない。あんたはそれが悔しくないのか?何とかしようと思わないのか?そういう振る舞いは「学者」のやることではないと思ってるの?たしかに派手に動くことによって師匠の小室直樹や同じ門下の副島隆彦氏も世の中からはどちらかと言うと変人扱いされている。難しいのはわかるが、世の中を何とかしたいから学問を修めてるんとちゃうの?
 たとえば橋下徹のように派手にやる過ぎると賞味期限も短くなるとか考えてるのか?それやったらやっぱりずるいわ!

宮台真司はこれからの社会像をどう考えるのか?>

 宮台真司は民主主義のありかたとして「参加と自治による包摂度の高い社会」の実現を唱える。この趣旨はこのブログでも何度も賛同し、協調してきました。これは分権主義を指向し、里山資本主義にむすびつくと私は認識している。
 ドラッカーやその他にも同じことを言ってる人がいるが、これからは地域コミュニテイーが重要な働きをすべきで、キーワードは「分散」と「多様性」である。
 一方、ダニ・ロドリック著「グローバリゼーション・パラドクス」(白水社によれば「グローバリゼーション」「国家主権」「民主主義」は3つ同時に成り立たない。上記の流れでひとつ捨てるとすれば「グローバリゼーション」しかないよね。
 インフラストラクチャーが不要という事ではないが、なるべく小さく回る社会が重要だと私は思う。
 あんたは2014年9月5日のデイキャッチャーズボイスで「フランスにおける「反アマゾン法」(町の個人書店を保護するため本の無料配送を禁止する法律)について、アマゾンの利便性を強調し、工夫のない個人書店はどんどんつぶれればよい」と言いましたよね。
 大塚英志とのトークセッション「愚民社会」「多くの若者が便利で豊かでアメニテイーのある場所に移動してしまう。これが地域社会の衰退につながる」これはあんたの言う「中間社会の空洞化」という事やね。この言葉と先ほどの言葉は矛盾せえへんか?
 問題は、「町の本屋」がリノベーションその他の経営努力なしに成り立つべき存在意義があるかという問題やろうけど、私は成り立った方がええと思うよ!
 この話は、「インターネットは必要なインフラか?」「成熟社会とリノベーションの関係は?」とかいろんな論点が関係して複雑になりすぎるから、今日はこの辺でかんべんしといたるわ!ただ一つだけ間違えたらあかんと思うのは、これからの社会のあるべき姿は、竹中平蔵新自由主義者の言うような「勝ち組だけが生き残る社会」じゃないと思うで。宮台も基本的にはその考えだと思うが、少なくとも些細なところで「上から目線」を感じるんや。別にあんたが良ければそれでもいいんやけど、「国民が共通で認識すべきこと」は、受け入れられるように話した方がいいんやないの?

バカの壁をぶち壊せ!(あるいはぶち壊してくれよ~)>

  とにかく世の中を変えようと思ったら養老猛氏の言うバカの壁をぶち壊さなあきませんよね!これははっきりしてます。
  養老氏は「人はモノを理解するときに、自分の考えにこだわり、相手の考えを耳に入れない壁を作ってしまう。これをバカの壁と呼ぶ。「バカの壁」ができると、耳を貸さない人には決して話が通じない。」とおっしゃる。その通りですね。
 なので、そもそも、問題意識のない人にいくら「これは問題だ!」と言っても通じるわけはない。問題意識がある人は孤立する。まずこの事態をなんとかしないといけない!
 あんたもいつも「日本には本来の民主主義が存在しない」とよく言ってるでしょ。全くその通りですわ。だったらなんとかしてくださいよ!
 偉大な社会学者であった
マックスウェーバーも政治にとって必要な資質は「情熱」「責任感」「判断力」の3つだと言っている。あんたは人に嫌われるのは平気だし、社会的立場もあるのだから、ええかっこしてないで行動しなさいよ!
 

 私は「『包摂』が重要」という言葉に魅かれて宮台をフォローしだした。この文章でお分かりの通りかなりの宮台フェチです。宮台には「バカの壁をぶち破る」という、昨今だれもなしえていないことをやって欲しいとせつに願う。結果必ず成功してほしい。誰かがこれをやらないと将来に希望がもてませんよ全く!

<釈迦を見倣えよ!!>

 9/27(土)をもって「フーテンの寅さん」シリーズのTV放送が完結してしまった。これで心が和むTV番組は皆無になってしまった。32回目にお話ししたように、この映画は今、「包摂」のある世界を感じられるい唯一の機会だった。なので今「寅ロス」状態です。前回申し述べたように、いろいろあって、これからはおとなしく生きていこうと思う。
 だから宮台には、ストレス解消となる論説を投げ続けてほしいと思います。これが答えだ!」(朝日文庫と他人にいえる自信があるんだから、自分の主張に対する答えも出して欲しい。
 


 釈迦は悟りの境地に至った際、この悟りはとても一般人には理解してもらえないだろうと思い、最初自分の胸の中にしまっておこうと考えていました。しかし梵天(これは釈迦の良心の象徴だという。)の強い要請により、布教することを決意した。
 それ以降は、まず昔の修業仲間5人に教えを説いた。もともとの仲間であったから、この5人はすぐにその悟りを理解した。これを手始めに、実に戦略的に教えを広めていきます。
 結果ついに釈迦の教えを政治の理念としたのが「アショーカ王」ですね。
 「仏教の教え」による政治と言えば、スリランカは第二次大戦における日本に対する戦後賠償請求権を放棄した。これはスリランカが仏教国だったからです。「日本のことを憎くないといえば嘘になるが、憎しみは憎しみによって止む事はなく、慈愛によって止む。」とのこと。仏教の理念を実行したわけですね。
 人間のやることだから、こんな夢物語もあるわけです。こんな風になったらいいですね。
 おーい宮台!聞いてるか??