建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

38回目 「自分のふがいなさを嘆く」自分達へ

38回目 「自分のふがいなさを嘆く」自分達へ
     ーすべてを投げ出したくなる時ー

理研CDB副センター長笹井氏自殺の報道から>  

 2014年STAP細胞問題に絡み小保方氏の上司である笹井氏が自殺した。この報道におけるコメントは大体以下のような内容でした。

曰く「ノーベル賞候補でもあった氏の自殺は科学界にとって損失である。」
曰く「アベノミクスの第三の矢の目玉の一つである再生医療の推進にとって痛手である」
曰く「自殺してまで隠す必要のあることがあったのか」
曰く「やるべきことを投げ出して周囲に迷惑をかけるのは無責任」
曰く「研究の能力は優れているのに身の回りの問題の処理はできなかったのか。精神的に弱かったのだろう。」

 無責任なコメントですね・・・なぜ自殺までするまでに至ったのかについての本人の気持ちを考えると全く的外れです。餌食をこしらえて叩くのが得意なマスコミの方たちにはわからないでしょう。でもこの報道に触れた人の中には、氏の気持ちが痛いほどわかる人達もいたはずです。それは同じ気持ちを体験したことのある人達です。

 こっそり言いますが、私もそのひとりなんです。・・・

<すべてを投げ出したくなる時>

  初めに断言しておきますが、私は自殺する(できる?)人間では決してありません。ただつい最近「自殺する人はこういう気持ちになるのだ」という体験をしました。

 「四十にして惑わず」、「五十にして天命を知る」というわけにはいかず、50を過ぎてますます悩みは深くなる。最近公私ともによくつまづく。(この辺のことは後で詳しく述べます。)

 まず母親の認知症の介護の件で神経をつかう。そのせいでもないと思うのですが、個人的なトラブルを生じてしまい、その対応に迫られ、地獄にいるような気分でした。

 7月29日の午後6時頃。きっかけは小さな話です。上記のような気分がさらにミスを引き起こす。パソコンのファイル操作を誤ってソフトが立ち上がらなくなってしまった。

 その瞬間頭が真っ白になり、「もう全部投げ出しちゃおう!」という気持ちになった。それはある意味「誘惑的な気分」であり、この気分のままなら、屋上から飛び降りることもできると明確に実感した。

 最初に言ったように私はそれを実行するような人間ではありません。1、2分じっとしてると、その気分は去りました。

 思えば、笹井氏は、その気分をずっと持続しながら、自殺の準備をし、遺書を書いたわけですね。たぶん丸一日は要したでしょう。それを考えるといたたまれなくなります。

<「心の理論(Theory of Mind)」の欠如>

 私がそういう気分になったのはパソコン操作のミスがきっ38でしたが、おなじような最後の拠りどころとなる糸を切るようなきっかけが笹井氏にもあったのだろうと思います。

 ここからは想像の域を出ない話です。私もつらい時は、家族に救いを見出したくなる時があります。そんな救いの糸をNHKスペシャルが断ち切ったんじゃないの?STAP細胞とは関係のない、小保方さんとの噂話のような放送を流したそうですね。あるいは「メールを暴露された」という仲間の裏切りにたいする失望がきっかけだったかもしれません。

 どちらにしても、そうなれば、自己の社会的重要性なんか本人にとっては関係のない話です。だから上記のようなコメントは全く的外れなわけ。そういう思慮のなさをマスコミは反省しないのでしょうか?してませんね・・・

 「心の理論」とは認知心理学「他者の心を推測できる能力」のことです。脳学者の澤口俊之氏「あぶない脳」(ちくま新書の中で、「心の理論」を育む環境と体験の不足が人間性の喪失の原因を生み出している、と警告しています。これはマスコミにも言えそうですね。

<自分のふがいなさを嘆く>

 さて、私のふがいなさの話です。いろんなことがうまく進まないのはなぜか?つらつら考えてみました。

・まさに「智に働けば角が立つ。」
 50歳も過ぎると、それまで得た経験や知識が結びついていろんな物事が見えてきます。これは上記「あぶない脳」では「結晶性知能」と呼ばれ生物学的には「高齢者が地域社会等の組織に知識を与えることに進化的意味がある」らしい。現実的にはこの「知能」は実社会には生かされず、行き場がなくなって、現実とのギャップの深さにはがゆさを感じる。「やればできる」と実行すれば軋轢を生じる。

・自己意識の想像通りに脳と体が働かない。
 世の中には「やればできる」人ももちろんいる。そういう人達はそれなりに築き上げた立場や資質を持っているわけですね。それらが欠如したまま不器用に「やればできる」と思って実行すると結果に決して結びつかない。

<「自己」じゃなくて「脳と体」のせいですよ。きっと!>

 私の場合で言うと意見や説明の「話し方」が下手なんじゃないかと思う。頭の中ではまるでステイーブジョブスのようにプレゼンテーションしてるつもりなのですが、実際は聞く人の心に響いてないのでは?と感じる。意見の内容には自信があるんですが。私にジャパネットたかたの前社長のような人の心をつかめる話法があれば、もっと物事がうまくいくだろうにと嘆きます。

 このブログでは、自意識と「脳内現象+肉体」の機能は別物だろうという話をしてきました。そういう前提に立てば「他人を殺した人」「うつ病などの精神疾患をもつ人」に対する捉え方は変わってくるというお話をしてきました。(9回目、32回目、33回目、34回目等の内容です。)これは、私のような精神疾患まで行かない人間にとっても同じことが言えるわけですね。

 体もトレーニングで鍛えられる部分とできない部分がある。田中将大投手の怪我もそうで、筋肉は鍛えられるが靭帯は無理らしい。だから生まれつき靭帯の弱い人は努力しても投手にはなれません。「脳を鍛える」というような本もよく見かけますが、多分それには限界があって「欠落している部分」は補えないだろうと思います。そのような脳の機能に依存する部分についてはあきらめるしかない。それよりもそんな自分とどう付き合えばよいかを自覚する方向に頭を切り替えないと。

 私はある人から「そういう状況のときには頑張らないで!」というアドバイスをうけてそのことにやっと気づきました。だから「自分がふがいないと嘆く」人達には、「やればできる。」「夢は必ずかなう。」と無理やり思い込まずに、うまく自分と付き合いましょう!と声をかけたいと思います。心から!

<いまのところ五里霧中。やれやれ>

 そもそもこのブログはメインタイトル「建築にまつわるエトセトラ」が示すように、自己の設計事務所のプロモーションのために始めました。7回目以降、そういう八方美人的なスタンスに嫌気がさしたので「読めるもんなら読んでみろ!」と、思いをぶつけるような文章になりました。次の転機は21回目以降。成熟社会への変革の必要性に目覚め、経済や社会についてこうあるべきと示唆するような文章が多くなりました。さて平成26年8月、いろいろあって今回のお話で分かるように、「むやみに強気なのはまずい」と悟り、心の様態が(意図的に変えたのではなく)変わってしまいました。さてこのブログは次回以降どこに向かうのだろう?

 ここまで自分の弱さをさらけ出していいのだろうか?と思いながら、この文章を長い間アップする気にならなかった。でも今はどちらかというと「つらい人」の気持ちがよくわかります。もしこの文章を読んで「こんな人もいるんだ」と共感して気が楽になってくれる人がいるといいな、と思いながらアップします。世の中には物事を声高に主張するフレーズが多い中、こんなのもあってよいかな?
 例によって今、一番共感する中島みゆきさんの歌詞で終わりたいと思います。

 「バクです」(中島みゆき

 バクです。バクです。
 今の今からバクになる。
 バクです。バクです。
 バクになることにしたんです。

 あんたの悪い夢を喰っちまいます。
 あんたの怖い夢を喰っちまいます。
 あんたのつらい夢を喰っちまいます。
 あんたの泣いた夢を喰っちまいます。

 バクは全く平気なんです。
 痛くもかゆくもないんです。
 腹いっぱいになりすぎたなら
 ふわりふわりと浮きそうだ。
 それからバクは夢を見るんだ
 それからバクは夢を見るんだ
 笑ってるあんたの夢を見る

 <中略>

 バクの上に夢よ降り積め
 あんたの捨てたい夢よ降れ
 バクはひとりで喰い続けてる
 バクはひとりで喰い続けてる
 笑ってるあんたの夢を見るまで