建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

9回目<無意識への招待>その3

■H25年4月19日

9回目<無意識への招待>その3
     *精神世界と無意識

<科学的であること>
「無意識」はどこにあるのか?脳の中に収容可能か?どうやって子孫に伝えられていくのか?個体が死を迎えると同時に消滅するのか?
 
上記のような問には誰も確信を持って答えられない。でも理科系好奇心モリモリ人間としては、なるべく理詰めに考えたい!このような状況で<科学的であること>は「科学的に実証されていない事実は何でも起こりうる」と心を広く持つ態度だと思っています。
 
武田邦彦さんがよく言っていますが、人類の長い歴史の中で20世紀の初頭に核融合の概念が発見されるまで、「なぜ太陽は燃えているのか」誰も知らなかったんですからね。

<精神世界は存在するか?>
 その1でもふれた本ですが、
立花隆臨死体験を書いたのはこの現象が「現実体験説」(実際に死後の世界があるという説)か「脳内体験説」のどちらによるのか知りたかったから。結果として多くの現象が脳内の側頭葉に対する刺激により説明することが可能ということがわかってきた。これで全てが解決すれば、話は簡単なのですが、全く説明できない事象が残る。ひとつはいわゆる「体外離脱」その1でふれたように、意識不明で手術を受けている人が天井から見ているような記憶があるという話であれば、「無意識」の認識能力ということもできそうだが、立花氏の本にでてくるように、建物の外にいなければわからない事実を認識したということになると、脳の中だけでは問題が片付かない。他にも、別の部屋で催眠実験を受けていた二人が同じ夢を見てその中でそれぞれの役割を演じていたという話も同じです。また別の話で、子供が行ったことのない遠い国の村のことを話す内容が事実だったと言う現象。(いわゆる「転生」)
 これらを「インチキだ!」と無視するのは、思考停止に陥るだけ。ここではとにかく
「我々は物質世界のことも皆目わかってないのだから、精神世界が存在しても何らおかしくはない」と考えましょう!そう考えればいろんな疑問を素直に理解できますし、なにより「死を恐れることはない」と感じます。(その意味では「臨死体験」を是非お読み下さい。)

 もう少しわかっていただくために「臨死体験」より引用します。
哲学者C.D.ブロードの見解:「人間は誰でも本来的にはその身に起こったすべてのことを思い出し、(ユングの「個人的無意識」)宇宙に起こっていることは、どこに起こっていることでも知覚することがどんな時でもできるものなのである。(ユングの「普遍的無意識」)そして脳や神経組織の機能は、もしこれらがそれを締め出さなければ、われわれがこれに圧倒され混乱させられてしまうことから、われわれを保護することにある。」
*注:( )は私が書き込んでいます。

 なのでその1でも書いたように、「自意識」は直接「無意識」にアクセスできない仕組みが必要なのです。ただ天才脳の人は不意に無意識から漏れ出した情報を意識することができる能力があったのでしょうし、イエスキリストや釈迦は修行により無意識の世界に入れたということでしょう。「理科系的記述」をしたいので、なるべく宗教にはふれないようにしてるのですが、キリスト教の三位一体説(天なる父と子であるキリスト、及び各精霊はひとつのものであると言う考え方)も理解可能となりますし、仏教で無我の境地が「悟り」であり、誰もがその境地に達することは可能である(仏性を持っている)と説くのも同じ構図で納得できます。さらに我々が死後どうなるかということも自然と想像できます。ただ多分その時「自意識」は無くなっているので自分で「やっぱりそうだったんだー」と思えないのが残念ですね!確認したい人は是非修行をして悟りを開いてください。( ̄▽ ̄)(下図参照)

Photo_3

ここまで来ると「精神世界は宇宙のどこにあるんやろう??」と思いますよね!
ということで次回は

<無意識への招待>その4(最終回)*宇宙の構造と無意識

ということで!