建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

46回目 それは重ね合わせられないでしょ!

46回目 それは重ね合わせられないでしょ!

<あっちこっちから一度に宿題出すな!> 

 ・・と思ったことありませんか?もちろん学生時代の話です。国語と算数と英語の宿題を明日までやってこいと一度に出されても困るわけです。それぞれの先生は、個人個人の事情は考慮せずに機械的に必要な宿題を出してるだけ。したがって場合によっては不条理に重なってしまう。されど一日にできる勉強時間なんて限度がある。人によっては、家業の手伝いをしないといけない学生もいるかもしれない。容量を超えて重ね合わせることはできない!そういう条件を考慮されるべき場合がある、という話です。

<重ね合わせの原理>

 重ね合わせが可能という現象もあります。高校の物理の授業で「重ね合わせの原理」というのを習いましたね。
 「電源を複数持つ回路において、回路における電流、電圧は、それぞれの電源が単独に存在していた場合の和に等しい。」
 大雑把にいえば、電源が、それぞれ単独にある場合の電流、電圧を計算して足し算すればよいという、物理の問題を解くには便利な法則でした。

 「重ね合わせできる」のは「波」に可能な芸当です。(写真参照)Photo
よく考えると「波」というのは不思議ですね。「伝わる」のですが、物質(媒質)は移動するわけではない。各点の変位がそれぞれの足し算(重ね合わせ)になるわけです。そうして波はもう一つの波に関係なく進んでいきます。これが「粒子」だとそうはいかない。異なる方向から飛んできた粒子がぶつかると、衝突の条件によって方向がかわり、二度ともとの軌道には戻れません。光は波と粒子の両方の性質を持っているというのも物理で習いましたね。これはとてもややこしくて不思議な話なので、深入りしません。
 問題は、重ね合わせ可能であるかは、「波」の性質か「粒子」の性質かによって、変わるんだということです。

<「重ね合わせ」の見られる現象>

 現実社会でも「波の重ね合わせ」に似た現象があります。最近「丹波地方では名古屋弁に似た方言を持っている」という話を聞きました。
 かの有名な「全国アホバカ分布図」(31回目参照)は、方言が京都を中心に同心円が広がるように伝播した、ということを見事に示しました。丹波地方の方言を見てみると、「昨日」のことを→「きんのう」と言ったり、「去る」のことを→「いぬ」と言ったり、私の地元(泉州地方)とよく似た言葉使いが見られます。これはまさに上の事実を示しています。
 丹波では、さらに名古屋を中心とした、文化の波が伝わって、重ね合わせられた方言を構成しているという事ですね。

<重ね合わせ可能性は条件による>

 「文化の波」のように「大きさ」がなくて「変化」に限界がないもののなかには重ね合わせが可能なものが見られます。冒頭で述べた「宿題」の事例では、「時間量」の大きさが関係するので、宿題に必要な時間が個人が使える時間に対して「飽和」してしまえば、重ね合わせは不可能になります。もちろん、「飽和」する前にも、宿題以外に使える時間は少なくなる。
 今となっては「宿題」からは、開放されましたが、同じような「邪鬼」が時間を食いつぶしに来る!それは「役所手続きに要する作業」です!!みなさん心当たりがあるでしょう!!!
 仕事でかかわったいろんな業界の方が同じ悲鳴を上げていました。介護業界の厚生省に対する申請業務、お医者さんの健康保険の点数計算等々・・・「業界」とは関係なく「年金の確認をしろ!」とか「裁判に参加しろ!」とか!おそらくこの30年で、この種の手続きは3倍になってます。(これは建築申請手続きにおける体感値です。)
 営業的には、これらの手続きは、売り上げには結びつきません。にもかかわらず、役所の人は、これらに要する時間はゼロとしか考えていないとしか思えませんね!!!!これを莫大な損失だと認識できる政治家やお役人はいないのでしょうか????

<「時間量」の壁を消し去った分野>

 時間量の制約を飛躍的に打ち破ったのは、「電子商取引です。IT技術は一億分の一秒単位で取引をすることを可能にしました。これは一日の時間が何倍にも長くなったことを意味します。

 近代資本主義は「拡大再生産」により、「成長」することを前提としています。でないと「投資」という行為は成立しません。「成長」するためには、経済活動が拡大するための「空間」が必要です。かつての植民地獲得競争はまさにこれが目的でした。今は戦争による領土獲得はできませんが、先進国は軒並みモノが飽和した状態にあり、成長は鈍化あるいはストップすることを強いられているのが現状です。経済学者の水野和夫氏によると、フランス、ドイツはEUを利用して「空間」を拡大したのに対して、アメリカ、イギリスは上記の技術により金融の中に成長のための「空間」を見出したとのことです。

 ただ金融空間はあくまで仮想の空間であり、拡大はどこかで行き詰ります。これがバブル崩壊という現象ですが、アメリカ、イギリスは数年ごとにバブルを清算しながら経済成長を維持するという戦略をとっている、というのが水野氏の見解です。
 かつて貧しかった国もモノの飽和が急速に進んでいるそうです。中国なんかはその意味でブラックホールのような存在という気がするのですが、それに反して同様の現象がみられるとのこと。工業における生産効率の上昇がすさまじい勢いで進んでいるからですね。
 そのうち世界全体でモノが飽和すれば、「成長」は止まる理屈ですが、そうなれば、新たな資本主義の形態を考えないといけません。

<「経済効果」のまやかし>

 現象を重ね合わせできるか、というのは構成要素にとって、波のように重ね合わせられる事なのか、粒子のように同時に存在できずに飽和すればそれ以上重ね合わせられない事なのか、という条件によるのです。この条件を無視してるなあ、と思うものの最たるものが「経済効果」です。

 最近で言えば、北陸新幹線の開通による石川県内の経済効果は約80億円と報道されていました。二次波及効果を含めると約120億円という試算がでています。(日本政策投資銀行による)
 さて、この経済効果は日本の経済拡大に寄与したのでしょうか?非常にあやしいですよね。金沢に行く人が増えた分、他の場所への旅行者は確実に減っています。
 日本旅行業協会のデータによると、日本国内の旅行者数(従業員10人以上の宿泊施設)は2008年→3億970万人、2012年→3億6000万人と増加傾向にあります。ただ旅行業者の取扱額は2008年→7.2兆円、2012年→5.9兆円と減少傾向にあります。
 日本における観光業の成長という意味では後者の数字が指標になりますね。この傾向は北陸新幹線ができたからといって2015年も大きく変わるとは思えません。さらに、在来線を利用する地元の人は料金が高くなって不便になりますし、メンテナンス費用は路線が二重になったぶん、確実に上昇します。いわゆる「経済効果」だけで新幹線をどんどん作るのは如何なものか?という話です。
 1964年、私が4歳の時、東海道新幹線が開業しました。「新幹線に乗りたい」という理由で「じゃ思い切って東京まで旅行するか!」といった人も多かった。我が家もそうでしたから。当時は今ほど娯楽のメニューもなかった時代です。「飽和」には程遠い条件でしたから、確実に「経済成長」に寄与したでしょう。
 これと同じことを「リニアモーター新幹線」に期待するのは大間違いですね!

原子力発電所の避難計画も・・>

 2007年の中越沖地震が起きた際、柏崎刈羽原発はホットラインのある部屋のドアが地震で歪んでしまい、県庁と柏崎刈羽原発が直接連絡することができなくなった。泉田知事はこの事実を重く受け止め、再稼働するための条件の甘さを指摘しています。
  「何重もの安全」というのはとても怪しい言葉です。非常時の電源確保のために、電源車を分散して配置するという対策が謳われていますが、地震時にドライバーがそこにたどりつける保証はない。大飯原発では避難ルートが一本しかないことが問題になっていますが、何重もの安全がすべてそのルートをあてにしているならば、そのルートがふさがれば「何重も」は全く意味がないことになりますね。
 地震時にはいろんな障害が重なり合います。その際機能を果たさなければならない要素がそれによって機能不全に陥る可能性は十分あるわけです。阪神大震災の際は同時多発的に火事が発生しました。そのため、「火事の際には消防車が駆けつけてきてくれる。」という常識が通用しませんでした。重ね合わせは不可能なのです。

<モノの飽和あるいはバブル崩壊

 私が建築設計の仕事を始めたのは1984年です。マンションの設計をする場合、エアコン用のコンセントは居間と主寝室にしか設置しませんでした。TV受け口も同様です。一家に2台TVを持つ世帯はほとんどありませんでした。これらはその後急速に普及が進み、今ではどの部屋でも設置できるようにするのが常識です。経済成長が続いたからできた、というかこの事自体が経済成長だったのです。やがてモノが飽和し、行き場を失ったカネが金融市場に流れ、バブルが崩壊し、経済の低迷が始まった。

 その後西暦2000年前後に、今まで存在しなかった「パソコン」なるものが急速に普及し、「ITバブル」と言われた時代がありました。この「ITバブル」はモノが飽和した成熟社会のモノとカネの関係をよく表した現象だったと思います。今までみんな持っていなかったパソコンが普及していったので、その分モノが売れ、一時経済が成長しました。しかしその後も日本の経済は低迷し続けた。これは、皆がパソコンあるいはネットというものを理解していく過程で、多くのモノが排除された結果ではないだろうかと思います。TVガイドとか地図とかはどんどん不要になりましたし、私は現在新聞をとらなくなりました。料理のレシピもネットを見ます。果たしてこれは経済成長という面からみてプラスでしょうかマイナスでしょうか?人が移動しなくてもよくなった分、マイナスなんじゃないかな?
 確実に事実なのは、通信会社と電力会社だけは、成長を続けているということなのですが・・・

<成熟社会を生きる>

 ではモノが飽和して経済成長しなくなれば資本主義が行き詰るのか?問題は今の資本主義が「経済成長」を前提として組み立てられていることです。これをちゃんと転換できればよいはずなんですが。というのは「経済成長」というのはこれまでの人類の歴史において19,20世紀に特異な現象なのですよ。

 「拡大再生産」しないといけないという呪縛から逃れることができれば、ゆっくり立ち止まってまわりを見回す余裕もできるんでしょうね。江戸時代なんかそうだったんじゃないでしょうか。

 そうなればきっといっぺんに出される宿題に追いまくられることもなくなるかもしれません。

 

 

 

 

 

45回目 西洋的思考法の袋小路

 45回目 西洋的思考法の袋小路
      ー「全体論」へー

<西洋医学の限界>

 「免役革命」(新潟大学医学部教授 安保徹著)という本を読みました。最初のほうでは「温熱療法」や「玄米食」がガン治療に効果がある、というような話から始まったので、なんだか怪しげな本かと思ったのですが、結果、大いに納得してしまいました。
 要点は以下のようなものです。
現代医学(西洋医学)はガン、アレルギー疾患等の組織障害を伴う疾患に対しては全く無力である。基本的に対症療法でしかないので治癒力をかえって弱めてしまう。
 ガン細胞は普段でも我々の体の中で発生しているそうですが、リンパ球等よりもはるかに生命力が弱いので、簡単に撃退される。それが強度のストレス等の原因により、増殖して抑制できなくなって病気になる。ここで免役を高める治療をすることで回復が見込めるはずの場合でも、今の医学は全く無頓着に抗ガン剤を処方してしまう。これでは「症状を取り除く」ことばかり考える結果、本来の原因である体の働きを弱めてしまい、却って症状を悪化させてしまう。
 著者が主張するのは、「自律神経系」「白血球」「代謝エネルギー」の3つのシステムをとらえることにより身体のシステム全体のバランスを考える医学が必要だということですこれは対症療法を重視する西洋医学の方向性とは全く逆のベクトルをもった考え方です。

 西洋的思考法「抽象化」の上で「分析」することを旨とします。これを「還元主義」といいますね。ものをバラバラにして純粋な要素を取り出すことにより、原理を明らかにするという方法です。これにより、様々な事象が明らかになってきました。物体の「抽象化」により、運動方程式が導かれ、どのような物体でも、初期条件が明らかになれば、未来がすべて計算できると思われていました。
 ところが「量子」レベルに至って、この信念は崩れました。量子の「位置」と「運動量」は同時に特定できないことがわかってきました。その名も「不確定性原理」。初期条件が特定できなければ未来を計算することもできません。アインシュタインはこれが不満で、これは人間が観測する手段を持たないからにすぎない、と反論しました。これが「神はサイコロを振らない」という言葉になりました。しかしながら還元主義手法の限界はいろんな分野で現れてきています。

<遺伝子と脳細胞の研究から>

 分子生物学者の福岡伸一はかつてある物質を細胞内に取り込むための遺伝子を特定しました。ここまでは正しい分析的方法です。逆に、その遺伝子を持たないマウスを育てて、この遺伝子の欠如により、ある病気(糖尿病)になることで、この遺伝子の欠如と糖尿病が、必要十分な関係にあることを、実証しようとしました。ところが、待てど暮らせどマウスはぴんぴんしています。確かに特定した遺伝子の機能は損なわれていたが、別の遺伝子が、代替機能を発揮して、マウスを正常に保っていたのです。結局,病気の原因を確定することはできませんでした。

 生命というものは、総合的に補完しあいながら、働いているのであり、完全な分業で成り立っているのではないということです。結果、一つの原因では発病しないシステムが体の中に成立している。ということは、個々の部分を分析するだけでは、病気の仕組みは解明できません。同じようなことが脳細胞の研究でも発現しています。

 視聴覚等の刺激に対して脳のどの部分が機能を担っているかを分析することにより、脳の仕組みを解明しようという様々な研究が行われています。実験方法は飛躍的に発展し、ある刺激に対して脳のどの部分に電流が流れるかを測定することが可能です。ところが、ひとつの刺激に対して、様々な部分が反応します。ここら辺が一番主な部分かなと特定していっても、別の刺激でも反応したりする。また先ほどの例と同様に、見当をつけた部分を欠損させた脳を刺激すると、別の部分が肩代わりして反応したりする。こうしていつまでたっても、脳のしくみは解明できないというのが現状です。

<経済の仕組みが解れば苦労しない>

 経済学についても同様です。アベノミクスを推進する高橋洋一などは「これは、経済学で数理的に証明されている理論なので正しい」という説明をしますが、それが正解ならばとっくに景気が良くなっているはずでしょ。そんなに精密な理論があるなら、なぜ「リーマンショックが予想できなかったのか?」と問われるとおそらく答えに窮するはずです。
 なぜそうなるか。藻谷浩介氏はいつも「経済学」と「実態経済」は全く異なるのだ、と主張します。「抽象化」しないと数理化は難しいのですが、逆にどんどん実態とはかけ離れてしまうということですね。早い話が、42回目にお話したように、所得は「自由競争により能力のある人間が大きな成果を得る」ということは現実の世の中ではありえないのですが、「経済学」は自由競争を前提にした理論です。

 もうひとつ、経済や生命のようなシステムのメカニズムが解明できない理由は、要素同士が作用し合ってシステムに対して様々な「フィードバック」をもたらすことです。少しずつの変化が、ある時爆発的な変化をもたらすような作用となることもある。「恐慌」などはその例ですね。あるいは相互作用が、新たな秩序を生み出す「自己組織化」という現象も生じる。物質から「生命」が誕生したのはその例ですし、受精卵が機能分化して、様々な臓器となるのも自己組織化ですね。これらは結果を分析しても無意味な現象です。

<複雑性に取り組む姿勢>

 生命や経済のしくみといった、複雑な構造を明らかにしようとする試みのひとつが、アメリカのサンタフェ研究所の取り組みです。たとえば要素間の相互作用について、どういう初期条件を与えれば、複雑さを生じる振る舞いをするかを探っています。

 これに対して、全く逆な方向性で複雑性に取り組もうとする方法を提案しているのが、経済学者である金子勝と医学者である児玉龍彦による「逆システム学」です。これは私の理解では以下のような態度によります。

 そもそも要素からアプローチするのではなく、「全体」の動きを捉えようとする。ある変化や刺激に対して、「全体」がどういうフィードバックを引き起こすかを観察する。先ほど「脳」の例で挙げたように、実際には複雑な経路を経て、アウトプットが生じるのですが、そのひとうひとつの経路を明らかにするのではなく、結果だけを捉えることにより、全体の仕組みを(分析するのではなく)理解しようとする姿勢だと思います。

<うちの奥さんの複雑性>

 この「逆システム学」は「分析」ではなく、全体をあいまいなままとらえようとする、極めて「東洋的」な考え方のように思います。

 たとえば、私は奥さんと結婚して27年ですが、彼女を理屈で理解しようということについては放棄しております。例えば
・奥さんは電車にのるのが大嫌いです。電車のターミナルの近くに用事があるときでさえ、車で送れ!と私に申し付けます。
・私は犬を飼うなら、柴犬しかないと思っていますが、奥さんはいやだという。なぜか?柴犬の尻尾は巻いているので、お尻の穴が見えているからだそうな。(あんたが尻の穴を見せてるわけじゃないでしょうが・・)

 昔は価値観の相違により、離婚寸前まで、喧嘩をしたものです。今はなんとかおつきあいをしております。理屈ではなく、こういうことをしたら、こういう反応が返ってくる。これについては彼女にとって人格を否定するのと同じである。という、フィードバックを経験的に理解しております。こうして、理屈ではなく、経験的に彼女を理解しているわけです。多分「逆システム学」とはこういうものじゃないでしょうか。

環境倫理学から:ベアード・キャリコットの「全体論」>

 環境という、複雑な構造に対しても同じような「東洋的な」方向性が求められています。「環境」は、時間的にも空間的にも個人のスケールを超えてる。でも、環境にどう対応するかは、そこに住む人たちが判断しないといけない。ではどうすればよいか?
 ベアード・キャリコットは対象とする環境の全体を一個の生き物としてとらえる必要があるとする全体論を唱えています。
 詳しくは、宮台真司「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」というシンポジウムにおいて、市民が環境とどう向き合えばよいかという話をした中に詳しく説明されていますので参照ください。
http://world-architects.blogspot.jp/2013/11/nationalstadium-miyadai.html
 ここで注目したいのは、ベアード・キャリコットが京都学派哲学の影響を受けているということです。私は詳しく存じませんが、京都学派は、日本の学問が手本としてきた西洋的手法に東洋的思想を融合させようとしたとのこと。そこに全体論が生まれるわけです。

スペシャリストだけではどうにもならない>

 私は建築の設計の仕事をしながら、ひとつの物をまとめ上げるには、統合するための理念が必要だということを身に着けました。建築は分析だけでは成立しません。様々な条件を統合する作業です。構造設計者や設備設計者といったスペシャリストも必要ですが、彼らだけでは建築としてまとまりません。総合的に物事を判断するジェネラリストが必要です。
   ただ、世の中では何となくスペシャリストが重んじられ、本来専門外の物事を決定しています。原発問題なんかはまさにそうですね。原子炉(釜ですね)の専門家が、避難計画を審査したりしています。

全体論へ>

 だから物事を包括的に論じられるゼネラリストが必要なのですが、単なる「物知り」だけではいけないのが難しい。また、そういう人が重視されていないところが問題ですね。
 そもそも東洋医学」は「まじない」で「西洋医学」は「科学的」だという先入観を転換することが必要です。でなければ西洋的思考はここまで述べたように袋小路に入ってしまいますね。

 (冒頭にお話しした)「安保徹さんの本には『抗がん剤は使うな』と書いてありましたが、先生がガンになったらどうしますか?」と知り合いの内科医に質問をしました。
 先生も即断できないようでしたが、以下のような話をしてくださいました。「例えば、少し前まで不治の病気だったC型肝炎も、完全に治る薬ができています。西洋医学はダメだということは一概には言えませんね。」

 「西洋」がダメで「東洋」がよいと断言してしまうのもここで言う「西洋的思考法」になってしまいます。そうするとまた「全体」が見えなくなってしまいますね。

 *注:「東洋的」「西洋的」という言葉は本来、もっと多様な意味を持っていますが、ここでは説明のため大雑把に、「総合的」「分析的」程度の意味に使いました。念のため

 
 

 

                                           

 

 

44回目 素顔のままで

44回目 素顔のままで
     -「普通」のありがたさー

 

司馬遼太郎が22歳の自分にあてた手紙>

  「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」司馬遼太郎は22歳の時(これは終戦の年です)の思いです。「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いたと述べておられます。
 上記の言葉を1991年に文化功労者の受賞記者会見の際に述べました。勇気ある言葉ですね。(今なら古賀茂明氏や桑田佳祐氏のようにやたらバッシングされたでしょう。)なぜなら,そう言い放つことは、戦争で亡くなった方たちが「無駄な死」であったと言ってる話でもあるからです。氏もそんなことは承知の上で、それを差し引いて余るほど、自分の体験してきた戦争の論理が「馬鹿らしかった」と言いたかったのでしょう。だからこそ、この言葉はとても重い。
 生の声を聴きたい方は、YOUTUBE「知の巨人たち 第4回 140726」(https://www.youtube.com/watch?v=iRgG-piMnp0)をご覧ください。案の定、視聴者の書き込み欄には批判的な投稿がありまして、「司馬は単なる“知れもの”に過ぎない。こんな輩を保守派などと思ってはいけない。」などと書かれております。
 「今の日本の姿があるのは、戦争で命を落とした先人のおかげである。」という見方は否定できないし、ガンジーが欧米に立ち向かった日本の姿勢に影響を受けたというのも事実です。でもその裏にとんでもない愚かな行為が無数にあったことも事実ですね。
 自分に誇りを持ちたい気持ちもわかるし、自分のやったことが無駄だったと思いたくない気持ちもよくわかる。ただそれにとらわれて、周りを見ない態度は客観的に見て愚かですね。ましてや反省しようとする態度が即「反日」などと非難するのは、それこそが反日なんだけど・・「反省が足りない態度」はほかにもよく見かけます。

<なぜかその場しのぎがまかり通る>

 例えば、A首相が、 福島第一原発放射能漏れは完全にコントロールされている。」とか「福島の復興は着々と進んでいる。」と堂々と表明する態度。私も聞いた瞬間、耳を疑いました。こういった言葉を平気で言えるということは何を意味するのか?これは、聞いてる人がそれを鵜呑みにし、真実を確認することはないと確信していると考えているか、あるいは「自分に報告した人間がそういっているから」という言い訳を考えているかどちらかですね。
 市民の意識がが高くて、「こんな不誠実な発言をしたら市民が黙っていない」という環境があれば、こんなことにはならないと思いますが、そうでないのはとても残念です。今の日本では「神様がみてるよ」という言葉は死語なのでしょうね。「はったり」を使ってでも、他より優れて見せたい、というのは素顔に自信がないということでしょうか?なぜ自然体でいられないのでしょう?

<「普通」に価値観を見出す・・マイルドヤンキー・・>

 私の知人が名言をつぶやきました。 「『普通の人々』はいるけど『普通の人』はいないのよね・・」
 『普通の人々』を構成する個人はみな個性を持っている。いろんな物事に対していろんな指向をもっている。『普通の人』はその全体を平均化してとらえた結果であり、個性のばらつきを捨象してしまっています。なので『普通の人』は概念上だけの存在です。
 ここでは「普通」の価値についてお話しようと思っていますが、個性や多様性をもった集合体としての「普通」です。他人と差異があることを否定するわけではありません。

 「普通」に価値を見出している人々として「マイルドヤンキー」がいます。彼らは以下のような特性をもつ人々です。

・地元で行動する。(半径5Km以内という人もいます)
・小中学時代からの友人とずっと付き合い続ける
・「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き。


 なんとなく顔が想像できますね。いいかえれば、 「自分の身近に幸せを見出して生活している人たち」です。幸福度指数の高い北欧の人々は同じような価値観を持っているということを22回目にお話しました。このような社会は包摂度の高い社会でもあります。
 おそらく彼らの同級生が全国的に有名になれば、彼らは手放しで応援するでしょうし、もし外へ出てチャレンジしたが、失敗して返ってきたとしても、彼らは優しく迎えるでしょう。仕事にあぶれた人物に知人の職場を紹介するかもしれません。このような「普通の人々」が分厚い層として存在するほど、住みやすい社会になる。かれらは仲間を蹴落としてでも一番になろうという指向はもっていないと思います。
 1970年頃は「一億総中流の時代」といわれ、これに近い意識を持った人が多かった。これに対して「上昇志向のなさ」と批判的な見方もできたわけですが、(かつての私もそうだった・・)今のように格差が拡大し、「承認されない人たち」が孤立する現実を見ると、当時の状況のありがたさを実感しますね。

<Just the Way You are>

 ビリージョエルのこのタイトルの曲は「素顔のままで」と訳されています。もっと素直に訳すと「ありのままに」ですね。
 以下は本日のTV番組のタイトルです。
「地球イチバン」「超絶凄ワザ」「奇跡体験アンビリーバボー」「ニッポン絶景街道」
 「ありのまま」に価値を見出す人にとっては、こういうタイトルを目にすると「うざい」としか言いようがない!「奇跡」とか「絶景」という言葉は「ここぞ!」という時に使ってほしいものです。必要以上にはったりを利かすのは「たたき売り」の常套手段であり、却って自分を貶めているのにね。そうでなければ、見る人の目を低く評価しているかどちらかです。
 「自分の素顔をありのままに見る」ことをしないと、どんどんこうなっちまいますね。だから空から日本を見てみようといった素直なタイトルの番組を見ると微笑んでしまいます。

 こんな私はひねくれものなのでしょうか????
 

43回目 「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!

43回目 「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!
     -日本人と「ルール」のしっくりいかない関係ー

<「自己責任論」に対する違和感>

 2015年1月に発生したイスラム国による日本人人質事件は、悲劇的な結末となりました。TVで「彼らはビジネスが目的だから、身代金を得るのが唯一の目的だ」とコメントしていた多くのコメンテーターは懺悔していただきたいと思いますが、もうひとつ気になったのは例の「自己責任論」です。同様の事件があるたびに聞こえてくる「国に迷惑をかけやがって!」という「自己責任論」は欧米の人たちにとっては、奇異に写り、「日本人はなんて冷たいのだろう」と感じるそうな。
 私も同感です。彼らは「失敗」を犯したかもしれないが「ルール」を破ったわけではない。その意味で罪はない。たとえば親はいい年をした子供が自分の意思で道路を歩くことを認めます。(当たり前の話ですが・・)「自分の責任で気を付けて歩くように」と認めるわけですね。結果、飛び出してきた車にはねられたとしましょう。その時親は「あんな危ない道を歩くからお前が悪い!俺は知らん!」というのでしょうか?
 特に欧米人にとって、「自由」は犯すべからざるルールらしい。イスラム教の預言者を風刺した漫画や、北朝鮮の指導者を揶揄した映画は、出来の良しあしにかかわらず、当事者から攻撃されればされるほど、国を挙げて擁護する。
 一見これは全体主義的に見えます。全体主義はかつて日本人の傾向であり、これに対して欧米人は個人主義的だと言われますが、どうもそう単純な話ではなさそうですね。

<欧米の人たちのほうがルールに従順?>

 もう少し例を挙げます。日本の政局ではよく「○○おろし」とか言って、政党が自分たちが選んだ党首を辞めさせようとする動きが起こります。でもアメリカでは自分たちの選んだ大統領の人気がなくなることはあっても、辞めさせようとはしません。
 次はスポーツの世界の話。ソチオリンピックフィギュアスケートでは韓国ではキム・ヨナの、日本では浅田真央の、採点が不公平だと、かまびすしい報道合戦が巻き起こりました。一方、サッカーW杯で起こった、みなさんご存知の「マラドーナの神の手」といわれるプレーは、明らかにハンドの反則でしたが、試合後に「無効試合だ!」とか「提訴する!」といった動きは生じませんでした。(もちろん直後に抗議はありましたが。)これは「主審の判定は絶対である」というルールが厳格に守られているからです。これは「権威に弱い」ということでしょうか?日本人が「ルールに従えない」のでしょうか?

<「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!>

  これは我々、設計者がお客様と打ち合わせするときの格言です。かなりの確率で真実です。
 なぜそうなるかは、明白。我々がたとえばお客様の家を設計する際、まず、お客様の希望を聞き、敷地の立地条件を見ます。それをもとに、この家はどういうコンセプトで設計しようか方針を立て、お客様に提示します。これによって方向が決まります。それは例えば「徹底的に主婦が動きやすい家」かもしれないし「機能性よりもデザインコンセプトを重視する家」かもしれません。ですから、ここはお客さんに、完全に理解してほしいところなので、方法を尽くして説明します。これでこの家を設計するための「ルール」が決まるわけです。なのでお客さんが妥協してほしくないところです。それがこちらに遠慮してか、邪魔くさいのか、「お任せします」といわれると、困ります。あとでボタンのかけ違いが発生する可能性が高くなります。

<主張するところと従うところ>
 
 つまり「ルール」を自分たちがつくったという意識があれば、それに従うのは当然だと考えるということですね。
 とりわけフランス人は「自由」にこだわるらしい。これは、フランス革命を通じて、彼らが血を流しながら勝ち取った権利だからです。
 また、アメリカは独立を勝ち取った際、「自由」と「平等」を実現するために権力を委ねる者たちが守るべきルールを「独立憲章」という形でまとめました。(これが近代憲法のルーツです。)
 あるいは、デンマークでは、高い税金の配分を自分たちで決めるため、市民参加により、政策が徹底的に議論されます。結果、「民主主義の質の高い国ランキング」で世界一位の国となりました。(23回目に詳しく書きました。)
 「日本人は議論の仕方を知らない」とはよく言われる話ですが、もう少し正確に言うと「議論を通じて、自分たちが同意できる地点を見つける方法を知らない」ということなのでしょう。そもそも統治における根本のルールである民主主義的「憲法」を自ら決議したことはありませんし、今の状況を見ると、とても「民主主義的な議論を経て憲法を決定し、皆がそれに従う」なんてできそうにありません。ましてや、先ほどの「○○おろし」の場合は自分たちが選出したという事実を否定するわけですから、何をかいわんや!ですね。

<日本の歴史から>

 この「社会性の欠如」は、「国の成り立ち」と関係あるんじゃないかと思っています。

 まずは、誰かが言ってましたが、「そもそも日本は温暖な気候のおかげで、食糧生産の余剰が生じ、自活が可能だったため、政治力にたよる必要がなかった。」すなわち社会のルールをつくらずとも、人に頼らず暮して行けた。「支配」はあくまで「お上」が強制的に行うものであり、政治に対してはあくまで受動的であったという特性があります。
 あるいは宗教の違いも影響してるかもしれません。「キリスト教」と「仏教」で一番異なる点は「キリスト教は救いの宗教」であるのに対して「仏教は悟りの宗教」であるということです。すなわち、キリスト教では「救い」が得られるかどうかは、「最後の審判」において神が決定します。逆らうことはできません。でも個人ではどういう善行を積めば救われるかはわからないので、皆で聖職者に教えを乞うことになります。
 一方仏教では自分一人で修業することによって「悟り」が得られます。宗派はありますが、むしろ何もかも捨てて一人で修業をしろ!というのが根本的な教えです。

  明治以降、近代国家としては国家のルールが必要になりましたが、共同体としての「社会契約」をすることもなく、ルールがなぜ必要なのか理解する手続きもなく、今に至っているわけですね。

<無視できないルール・・「手打ち」>

 よいか悪いかは別として、西欧社会は「ルール」によって、国際社会を維持してきた。多くの民族が、国境を隔ててひしめき合う状態では、そうやってかろうじて平和を維持できたわけですね。ルールを破るときは戦争で決着をつけるわけですが、「負けたほうは屈服する。」というのもルールですね。そこで「手打ち」をしてチャラにするということが便宜上、行われます。それが知恵なわけですね。
 だから別に勝ったほうが「正しい」とは限らない。しかし、このルールが、遵守されなければ大混乱に陥ります。インデイアンが「アメリカ大陸を返せ!」とかメスチーソが「破壊されたインカやマヤを返せ!」というのも正当な主張でしょうが、そんなこと今言ってもしかたがない。
 サンフランシスコ平和条約も同じこと。「広島・長崎の原爆投下は人道上ゆるせない。」「靖国神社に参拝することは何らはばかる必要はない!」というのも正当性がないとは思いませんが、それを国際社会に向かって主張するとしたら、「手打ち」を理解していないと言わざるを得ませんね。

<日本が自ら「ルール」を作る必要な時代が来た>

 敗戦後の復興・成長時代は、今まで述べた日本人の特性にはふさわしい時代だったんじゃないかと思います。お互いを気遣わなくても、個人個人が同じ方向を向いて利益を拡大すれば、全体の利益につながるという時代でした。多少一人が傲慢に利益を囲い込んでも、「成長」が落ちこぼれをすくい上げることができた。
 ここから先は、このブログで何度も述べてきましたが、今は成熟期を迎え、限られたパイをみんなで分かちあう必要のある時代となりました。成長に頼らずとも皆が生きていけるためのルールを自ら作ってそれを守らないといけない。日本の歴史上初めて自らが自らを律する必要があるという転換期を迎えたといっても過言ではありません。
 にもかかわらず、自分たちで議論をして道理のある理念を作れそうには見えません。本当に困ったことですねえ。

<「イスラム国」の逆を発想する>

 こうした民主主義の未成熟は、「意思」を行使する手段を持った組織に完全につけこまれている。「電力会社」とか「マスコミ」とか「政府」とか「官僚」とか。
 「正しい」ことを「正しい」という人は封じ込められる。たとえば「放射能は完全にコントロールされている」といった「不合理」がなぜかまかりとおる。
 本来これらは、世論が正常に機能していれば、防ぐことができます。「こんな論理は国民が許さないだろう」という市民社会における民度がプレッシャーにならないといけない。

 再度「イスラム国」のお話。テロリストが、「恐怖」によって、空気を支配しようとするのとは、逆のベクトルをもった「正当な論理に向かうプレッシャー」が醸成されねばなりません。でないと自分たちの首がどんどん絞められていきます。

 その意味で<逆テロリズム>を!!

 

 

 

 

 

 

 

42回目 「円」のホットスポットについて

42回目 「円」のホットスポットについて
     ーペレストロイカのてんまつー 

<世界を変えた男 ゴルバチョフ

 「世界を変えた男 ゴルバチョフ」(ゲイル・シーヒー著 飛鳥新社を読みました。たまたま古本屋さんで目についたので手に取りました。以前からゴルバチョフについては、不思議に思っていたことがあったのです。
 彼がもし下っ端の頃から「ぺレストロイカ(改革)!」と叫び声を上げていたら、共産党の中で書記長の地位まで上り詰めることができたとは思えない。それまでに蹴落とされていただろう。それなら、「改革」の信念を心の中に隠しながら、ひたすら書記長を目指していたのか?であればそれはこの上なく忍耐を要することだと思う。果たして真実は如何なるものだったのだろう?この疑問にこの本は答えていました。
 回答は後で述べますが、とにかくゴルバチョフが若かった頃(彼は1931年生まれ)のソビエト連邦の内情は悲惨だったようです。彼は農村出身ですが、共産党プロパガンダとは裏腹に、貧困にあえぐ毎日でした。集団農場における生産性はどんどん落ち込む。しかも成果はモスクワ指導部にさらわれる。国で生産される工業製品は質が悪く、例えば国内産の「靴」ではまともに歩けなかったそうです。
 国の富はほとんど共産党が密かに独占していた。彼が昇進して、共産党の幹部になった時には、専用の車をあてがわれ、幹部用の別荘(これらは庶民の目の届かない場所に隠されていた!)では、何不自由のないバカンスを過ごせたそうな。当時の「共産主義」というのは、形を変えた「王政」と何ら変わりなかったという事ですね。
 しかも、若者が貧困から抜け出そうとすれば、唯一の方法が共産党に入って昇進することであった。そういう、個人ではどうしようもない強固な社会システムが作り上げられていたわけですね。結果「富」は途方もなく偏在していました。

<「制度」が「富の偏在」をもたらす>

 さて、申し上げたいのは、このような社会は我々とは、無関係なのだろうかという事です。

 まず、私が経験したお話をします。聞いていただければ、これはこの社会の片鱗のそのまた一部だろうと想像できると思います。

 私の母は、認知症です。症状が悪化してほっとけない状態になりましたので、老人ホームにお世話になることにしました。以前デイサービスを利用していた頃から感じていましたが、介護の仕事に携わる人達を見ていると献身的な仕事ぶりに本当に頭が下がる。母の命を預けているわけですから、仕事の内容はお医者さんと同じ価値があるはずですよね。
 でも、よく言われるように、「介護」や「福祉」の仕事は給料が安い。私の娘は大学で心理学を学び、「精神福祉士」の資格を取って、福祉関係の仕事をしていますが、仲間内では結婚しないというのが不文律になっているそうな。夫婦で同業では生活できないからという理由です。
 さて、老人ホームに入居してしばらくすると、施設と提携している医院から案内が来て、「訪問診療の契約をお願いします。」とのこと。
 このサービスについては入居前から、月1800円ぐらいかかるとは聞いていたので、そのつもりはしていたが、とにかく内容の説明を受けることにした。でも月々医者代に1800円は高いなあ!とは思っていた。
 この1800円の内訳とは以下のようなものでした。

①月に2回施設に訪問診療を行う
 =100円/回×2=200円/月
②24時間、施設のスタッフから入居者の具合について相談を受け る体制を取る
 =1000円/月
③スタッフに対して健康管理の指導を行う
 =大体600円
 (何を指導したのかこちらに教えてくれますか、と聞いたところ、その義務はないとのことでした。)

④検診の結果、治療や薬が必要になった時の医療費は全く含まれていません。

 ということは、施設に往診に来て、30人くらい健康診断するだけで1800円×30人=54000円の個人負担です。ということは一割負担ですので医者の売り上げは54万円!一回半日かかるとして。月二日=一日分相当の検診するだけで54万円の売り上げです。週五日働けば270万円の売り上げ。経費が半分としても100万円をゆうに超える手取り収入となります。
 介護スタッフはこの数分の1の給料で、もっと大変で責任の重い仕事をしています。

 この不合理は何なんでしょうね?この老人ホームを経営する社長とお話をする機会があり、介護事業についていろいろ教えてもらいました。老人ホームの必要経費は「家賃」「食費」「介護サービス費」からなりますが、「家賃」は土地建物のオーナーに、「食費」は委託業者に、ほぼそのまま支払う(むしろ赤字らしい)ので、スタッフの給料は「介護保険」からの収入だけに頼っています。この金額は介護保険の点数で、決まります。
 この先、高齢化が進み、人口が減るのですから、すでに介護保険の予算は苦しく、得られる収入はすこしづつ減らされる傾向にあるそうです。
 一方医者(あえて呼び捨てにしますが)の収入も医療保険制度の点数によって決められている。もちろんその原資は我々の税金です。

 富の配分は「制度」により決まるわけです。自由競争では決してありません。容易に想像できますが、我々の目に見えないところで、医師会は自分たちの利益だけは確保するための画策をしているのでしょう。だからこそ徳洲会は医療費をため込んで5000万も個人献金できるわけですね。

<トリクルダウン?はあ?>

 今アベノミクスでは「トリクルダウン効果」が期待できるということが言われています。これは大企業や富裕層の支援政策を行えば、徐々に富が低所得者層にむかって「流れ落ちる」という意味ですが、上記の例からもあり得ない理屈だとすぐわかりますね。「自由競争」ではなく「制度」によってせき止められているところに、自由な富の流れは存在するわけがない。
 そもそもトマ・ピケテイ21世紀の資本」(みすず書房によって、資本主義という制度自体の中に、富は富裕層に蓄積していくという仕組みが内在しているということが、実証的に述べられている。これを是正するのが政府の役割なのですが、医師会に支援されている政治家がそんなことを実行するわけがない。
 なので、冒頭で述べた当時のソビエト連邦の腐敗ぶりと、私たちの社会のあり方は、さほど差があるとは思えない。個人ではどうしようもない強固なシステムが作り上げられ、富の偏在、富のホットスポットを形成しているところは、まるで同じです。誰かが何とかしてこれをひっくり返さないとどうしようもありません。

ゴルバチョフはなぜペレストロイカを遂行できたのか?>

 とういうわけで、冒頭の疑問に戻ります。ゴルバチョフはなぜペレストロイカという社会の大変革を遂行するための態勢を作り上げることができたのでしょうか?

 要約した答えをすれば、「八方美人」と「日和見主義」によって成し遂げられた、というのが前述の著者であるゲイル・シーヒーの見解と言ってよいかと思います。なんだか肩すかしの答えですがどういう事でしょうか?
 でもある意味、そのような方法でしか条件は成立しなかったとも言えます。もちろんゴルバチョフの意志、能力、頭脳がなければ成し得なかったことは明白です。結果として世界の構造を変えたわけですから、尋常な功績ではない。ただ、それらだけでは十分条件とはなり得なかった。では彼はどう「立ち回った」のでしょうか?

 まずは、共産党の組織の中で出世するという事が彼の第一目標であった。そのためには、自分を推薦し、パトロンとなってくれる重要人物が必要であった。彼は昇進しながら、次々とそのような人物を見つけ出し、その人物に取り入ることを怠らなかった。
 その目的のためには、自分の考えをたやすく修正した。(「信念」をもっていては邪魔だっただろう。)例えば、停滞していた農業の生産性を上げるため、小集団に自主性を持たせ、収穫が増えると賃金も増えるというシステムを彼が考案し、成果を挙げつつあった。しかしそれが自分のパトロンの意向と異なるとわかれば、すぐに政策を180度転換し、農民を途方に暮れさせた。
 彼に対する信任の厚いアンドロポフ書記長の後任に選ばれる可能性が高くなると、反対しそうな要人におべっかを使うことも忘れなかった。
 こうしてゴルバチョフは晴れて書記長の座を射止め、誰にも取り入る必要のない身となった。その時点でも、「誰もが今より幸福になれる国をつくる」という漠然としたイメージしかもっていなかったらしい。
 ただ、経済がこのままでは持たないということは認識していたし、農民の苦しい生活は身をもって理解していた。そこで、前任のアンドロポフがすでにあいまいな形で提唱していた「ペレストロイカ」に具体性を持たせる必要は感じていた。そのためには、今まで共産党が築き上げてきた、閉塞的な体制が誤りであるという事実を知らしめるために、情報公開(グラスノチ)を進めた。
 ゴルバチョフはあくまで共産主義体制の枠の中で、少し風穴をあけて、ガスを抜きたかっただけだったようですが、国民の鬱積は予想をはるかに超えて蓄積されていたので、爆発的な国民運動を誘発し、ソビエト連邦は崩壊への道をつき進んでいったわけです。

 結局、世の中を変えることができるのは、一人の人間ではなく、
①:国民が、事実を知ることができる。
②:国民が、思ったことを表現できる。

 という二つの条件が整った時だということですね。

<自省することこそが必要ということ>

 逆に言えば、それまでの共産党は上記の二つの条件が成立しないように、国民をあきらめさせ、無関心にさせることに成功してきたわけです。
 これは、私達が自省すべき教訓でもありますね。上で一つの例を挙げましたが、私たちも、このような不合理を「仕方のないことだ」と受け入れてしまっていないかということです。上の二つの条件から遠ざかる方向に世の中が動いていませんか??

 グラスノチにより、国民運動が、動かし難い流れになっていた頃、ある15歳の娘が、お父さんをこう言って非難したそうです。

「『どうして私たちにほんとうの歴史を話してくれなかったの。こんなに長い間よく嘘をついてこれたわね。』父親は肩をすくめ、自己嫌悪で黙っていた。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

41回目 視点を変えればわかること

41回目 視点を変えればわかること
     ー隣人愛は偽善か?ー

 <盲目の物乞いのお話>

 FACEBOOKにはときどき面白い動画がアップされます。先日次のような動画がありました。(もう一度見ようとしたのですが見つからないので思い出しながら書きます。)

 道端で盲目の男性が地べたに座って物乞いをしています。かたわらには「I am blind. Please give me money.(私は目が見えません。お金をめぐんでください。)」と書いたカードが。通行人のほとんどは無視して通り過ぎる。たまにめぐんでくれる人も、お金を容器の中にぞんざいに投げ入れる。そんな折、ひとりの女性が通りかかり、カードを眺めつつ通り過ぎるが、やがて引き返してきてカードの文字を書き換える。
 その後、通りかかる人の反応は劇的に変化し、多くの人がすすんでその人にお金を分け与える。盲目の男性はその女性に「カードになにか細工をしたのかい?」と尋ねる。女性は「少しね。同じ意味なんだけど。」と言って立ち去ります。いったいどういう風にカードを書き換えたのでしょうか?

 
「It seems to be fine today. But I cannnot see the sky.(今日は良い天気のようですが、私はその空を見ることができません。)」

 さて、前後の文章は何が本質的に異なるのでしょうか?なにが人の気持ちに変化をもたらしたのでしょうか?「後者の文章は、他者がその男性の気持ちを想像することにより、共感できる表現力を持っていた。」ということですね。他者の出来事が自己の出来事になったわけです。

 <Sexchange Day>

 先日、とある高校で、男女の制服を入れ替えて一日を過ごしてみるというイベント<Sexchange Day>が行われました。全校の4割ぐらいの生徒が参加したとのこと。ニュースでは、スカートをはいた男子は「寒かった」女子は男装をして「姿勢が変わった。」という感想が多かったようですが、心の内面ではもっと新鮮な発見があったと思います。
 「椿山課長の7日間」(浅田次郎著)のなかでは、一度死んだ主人公が七日間だけ若い女性の姿でこの世に戻るのですが、何と生理を初体験することになります。課長はこの時女性の大変さを思い知り、そういう目で女性を見ていなかったことに気づかされます。

 <隣人愛は偽善か?>

 このブログシリーズでも「他人の痛みがわかる」「他人に対して想像力をもてる」ことは社会倫理にとって基礎的な要件であり、これが自己の幸福に結びつくことによって「包摂度の高い社会」が築ける、ということをお話ししてきました。(29、30回目「どぶに捨てられた『倫理』を拾い上げる①、②」参照)これを実践するのは難しいことですが、全面的に否定する方はおられないだろうと思います。

ところが、ここからが問題なのですが、これに真っ向から対立する概念を投げかける人物がいます。

 ニーチェ「同情は偽善だ。」「隣人愛は自己逃避でしかない」「真のエゴイストになれ!」という言葉を発します。あれれ?これはどういう意味でしょうか?ニーチェは単にひねくれ者なのでしょうか?

 お話を進める前に知っておいてほしい事実があります。ニーチェは生涯にわたって目の病気や頭痛・リウマチ等にに悩まされ、健全でいられたのはわずかの時期でした。それにもかかわらず多くの著作を残しましたが、存命中はほとんど世の中に認められず、むしろ批判を受けていました。そういう境遇の中で上記のような主張をしていると思うと、言葉が違う意味を持つ気がします。

 ニーチェの真意は?>

 ニーチェの言葉を理解するために、他にも、もう少し詳しく彼の言葉を読み解いてみましょう。(ニーチェの言葉は定義が明確ではなく難解で、専門家によっても解釈が分かれるという前提でお話しします。)ちなみに私は原文を読んでもわかりっこないので、解説書を手掛かりとしています。引用は「哲学からのメッセージ」(木原武一著)によります。

 「彼は世界の秘密を頭のなかでつきとめるのではなく、鼻でかぎつけるのである。人間や歴史、道徳や価値、思想や心理の隅々まで「不気味なほど鋭敏」な鼻でかぎまわり、悪臭を見つけ出してしまう。」

 つまり彼が批判するのは対象の中の悪臭の部分であり、対象を全否定しているのではないということに注意しながら理解する必要があります。

 「彼は、われわれがふつう道徳的に申し分のないものと信じていることが、実は、偽善に裏打ちされ、人間の勇敢な行為も単に人間の弱さのあらわれにすぎないことを次つぎと暴露した。ニーチェの主張は単純明快である『一言でいえば、【自己喪失】ーこれがこれまで道徳と呼ばれてきたものである。』

 それでは彼はいったいどういう態度であれば肯定するのでしょうか?

 「彼は、完全に対等の人間、それもたがいに『自己の世界を確立した』人間のあいだでのみ友情は成立すると考え、一生涯そのような友人を求め続けた。(中略)『自分自身を信じない者の言葉はつねに嘘になる。』(中略『われわれはしっかりと自己の上に腰をすえ、毅然として自分自身の両脚で立たなければ、愛するということはできないものだ。

 繰り返しますが、ニーチェは一生涯、病気に苦しめられ、望む結婚はできず、世の中には認められず、(最後の著書は自費出版だったらしい)最後は発狂したという、同情されたいと考えてしかるべき境遇だった。それにも拘わらず、このような力強い言葉を発し続けたということに驚嘆し、勇気をもらう人は多いと思います。
 とはいえ、常にこんなに力強く生きるのは難しい。その意味で私は「無為」よりも「偽善を何割かは含むかもしれない慈善行為や同情」の方が人間として評価できると考えます。ニーチェのことばは100%純粋な内容ですが、実際は現実と折り合いをつける必要がある。これは彼自身認めていることで、『これは今日明日にできる課題ではない。(中略)忍耐を要する、最終的な修業なのだ。』と述べています。

 この話における私のまとめとして、隣人に対する姿勢を人間として評価できる順番に並べてみます。

姿勢①:自己愛に基づき、それと同等に隣人を愛する行為(友      情)
姿勢②:偽善を含むかもしれないが、隣人に同情する行為
姿勢③:隣人の苦しみはわかっても何もしない態度
姿勢④:隣人の苦しみもわかろうとしない態度

<沖縄の基地問題と隣人愛について>

 11月16日、沖縄知事選において、辺野古移転に反対を表明している翁長氏が当選した。選挙の裏側の事はよく知らないが、この結果は沖縄の人たちが「引換の振興予算」という「同情」を拒んだ態度といえる。たぶん政府に対して「友情」は感じていないという事ですね。これは立派な態度だと思います。
 一方、知事選の当選確実が発表された時点で、このニュースを特集として報じていたのは「BS-TBS報道部」のみでした。とても不思議でしたが、このこと自体、マスコミの沖縄に対する姿勢は③の段階でしかないという事ですね。
 この番組の中で沖縄国際大学前泊教授はまさに沖縄に対する「自己愛」を確立しようとする態度を表明していました。氏は「沖縄の経済が基地なしでは成り立たないのは嘘だ」と主張します。その根拠として基地を他の方法で活用をした時の経済効果を試算しています。また国際的な立地による沖縄の重要性や、中国からの観光客誘致により十分食っていけると見込みます。だから「このままなら、沖縄は独立した方がよい」とまで言うわけです。
 まさにこれは自分を信じることにより、日本との関係を「友情」にまで高めようとする態度です。
 これに対して沖縄以外の県民の態度は姿勢②か③にとどまってるとしか言いようがありませんね。相手が友情をはぐくもうとしているのに対して同情のレベルではだめなわけです。

 原発再稼働についても被災地の支援についても同じように考えることができます。我々はどうも「隣人愛」「同情」がとても好きなようで、よくTV番組のタイトルやイベントの垂れ幕に「絆」という文字を目にします。これを見ればたぶんニーチェはせせら笑うのでは、と思いませんか??

 

 

 

 

 

 

 

 
 

40回目 わかっているのになぜ?・・・

40回目 わかっているのになぜ?・・・
   -将来の過ちは回避できるかー

<広島の土砂災害から>

 H26年8月20日広島市安佐南区安佐北区などで豪雨による土砂災害が発生。死者74名。
 災害地の写真を見て驚いたというか、うなずいた。2_3

 「これは人災やでー。なんでこんなとこまで宅地にするんや??」

  山の谷筋というのは、雨水の浸食によってできた地形ですね。小学生でも知っています。ここに雨が降ればどうなるか?当たり前ですが、勾配の方向に流れます。谷筋には雨水が集まります。それが集まれば川になります。普段は川がなくても、どこか(表面であったり伏流水であったりする。)を流れていきます。そのうち一本の川にまとまりますが、地球上のどの場所に降った雨もどこかの川に流れ込みます。その範囲を川の流域といいます。
 山間部を横切る国道や高速道路の多くは、この雨水の流れに関係なく、谷筋を埋め、尾根を削って造られています。谷筋の雨水を遮ってしまうので、対策として排水するパイプは入っているそうですが、目詰まりしても目視できないし、メンテナンスもされてないので、排水が追い付かず、道路が崩壊する災害は日本中いたるところで発生しています。(たしか数年前NHKで特集してました。)
 広島の宅地も同じことです。宅地造成上無理があるのは、技術者なら誰でもわかる。(わからなければプロじゃない!)でも盛り土して埋めてしまえば、素人にとっては危険性は感じられません。元の地形は無かったことになってしまう。わかっているのに・・・
 「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の発想で、「開発」の名のもとに造成が進めば、一人の専門家が危険性を指摘しても流れは止まらない。ということで、日本各地で同様の宅地造成が行われてきました。

<危険な宅地はいろんなところに存在する>

 だいたい古くからの集落は経験上、海沿いとか、川沿いの災害の恐れのある土地を避け、安定した地盤の上(多くは高台)に存在します。宅地を拡大する必要上、あるいは産業の必要上、擁壁・岸壁・護岸といった工作物を築造する技術により、都市は拡大してきました。ところがこれらの工作物は耐力構造ですので、想定した力にしか耐えれませんし、耐用年数が生じます。メンテナンスも必要になります。(36回目に詳しくお話ししました。)ただこうした「人工物」は目に見えるので、危険性も認識しやすいが、(例えば亀裂が入っている等)今回の場合はそうではないという所が、「たちの悪い」話ですね。
 「コンクリートのような耐力構造物ではないが、自然の力には逆らっている造成地盤」における災害は過去にも例があります。
 たとえば10年前の中越地震小千谷地区においては、斜面に盛Photo
土して造成した宅地が地すべりを起こしました。(写真参照)固い地盤の上に薄く土をかぶせれば振動で滑るのは道理です。わかってる人はわかってるはず。
 もっとたちが悪いのは、東北大震災において千葉県の浦安地区の埋立地で起きた液状化です。宅地を分譲したのは大手の不動産会社であり、当然対策もしていたが、このほど「長周期の振動が地盤に及ぼす影響は販売当時予想できなかった」として、住民の損害賠償請求はいまのところ棄却されています。ひどい話ですね。
 とにかく「自然に逆らった方法はしっぺ返しをくらう」というのが教訓です。高度成長時代においては、このような「慎重さの足りない罪」をいろいろ犯してきたわけですね。これは人口増加によって、やむを得ずやってしまった事かもしれないですが、これからは人口が減るのですから、これらをちゃんと反省して、もとに戻すべきことは戻していかないといけませんね。

 <森の保水能力の低下が進行している>

  土砂災害が発生すると、「今まで起こらなかった災害が起こるのは温暖化による気候変動のせいだ!」という論調をよく聞きますが、これはいたって根拠の希薄な話のようです。(詳しくは武田邦彦氏のブログや渡辺正教授の著作等々をお読みください。)
 問題にすべきなのは、森林の劣化の方です。日本の森林はその40%は人工林(ほとんどが針葉樹林)ですが、林業の衰退により多くの森林は間伐が行われずに放置され、劣化し、保水能力も低下しています。これが土砂災害の原因になることはいろんな人が指摘しています。
 不思議ですよね。もし仮に「温暖化CO2説」が正しくて、真剣に対応する必要があるならば、いの一番に、劣化した森林の再生に予算を使うべきだというのは自明な事。ところが同じ名目で「エコカー減税」や「家電エコポイント」等に膨大な予算を使うというのは「何をかいわんや」ですね。わかっているのに・・・

超高層マンションの解体方法は確立されていない!>

 建築関係者としていつも不可思議に思っているのは「超高層分譲マンション」です。二つ問題があります。
 一つは「超高層」という問題。建築足場は高さ45Mまでしか対応できませんので、解体する場合は特殊な工法が必要となります。「超高層建築物」が解体不可能と言ってるのではありません。負担できるコストで解体する方法が確立されていないということです。
 ですので「分譲」というのがもう一つの問題です。三井や住友といった大企業が保有しているならば問題はない。「個人」である居住者が保有していることがやっかいです。寿命がきて売れなくなったマンションの解体のために個人がどうやって膨大な解体コストを負担できるのか?それを賄えるだけの土地価格の上昇などはとても見込めない世の中なのに。超高層マンションの販売者は、購入者には決してこういう説明はしない。わかっているのに・・・・

わかっているのに・・・反省のできる社会へ>

 最初に挙げた「危険な宅地」の話は、住宅が慢性的に不足していた高度成長時代に成り行き上、ある意味やむを得ずやってしまった所業かもしれません。社会が未熟だったとしか言いようがないですが、過去を責めてばかりいても仕方がない。でも「森林の劣化」「超高層マンションは現在進行形の出来事です。人口が減少し、経済成長が頭打ちとなり、落ち着いて物を考える条件が整ってからの話です。「原発」「リニアモーター新幹線」「国家補助事業」等々この種の話は枚挙にいとまがありません。
 でも、戦争を始めた原因が日本社会の未熟さにあったことを思えば、少なくともこの社会は昭和初期からずっと未熟なままだったわけですね。なぜわかっている過ちを犯してしまうのだろう?先ほど「落ち着いて物を考える」と書きましたが、この場合「物を考える」主体は国民の集合としての国家なわけですね。国家として理性的な結論を出すための民主主義のが欠如している。このブログで何度も述べてきましたが、やはりそこに問題は帰ってしまう。
 11月3日朝、毎日新聞村上春樹のインタビューが掲載されました。上記のような流れのなかで、(ここでは「戦争」と「原発」が取り上げられていますが)日本の問題として「自己責任の回避」に言及されています。
 多分同じような趣旨で現在、武田邦彦「仮装社会」と名付けたブログを進行させています。ここで氏が面白い指摘をしています。

 日本人は面白い民族で「目的」にはあまり興味がなく「行為」が好きだというところがあります。<中略>自分たちで「理想的な社会と人生」を考えることはあまり好みません。「思考停止型で実行型」なのです。

 民主主義に関して言いますと、社会学者の小室直樹「悪の民主主義」(青春出版社のなかで、アメリ憲法に書かれている「自由」「平等」は実現されていないからこそ、これを追求する過程が「民主主義」の本質であるのに、日本人はこれらは与えられているものと勘違いしているという意味のことを述べておられます。

<東北大震災でも懲りないの?・・・>

 先ほどの村上氏のインタビューでは、「人は楽観的になろうとする姿勢をもたなければならない」と述べていますが、これは、現状を肯定すればよいという意味ではなくて「理想主義が実現できるという楽観性を持とう」という意味です。まさにその通りですね。ただそのためにはどこかで「既存システムの破壊」が必要という気がしますが・・・・。