建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

53回目 「前提条件」を疑え!

53回目 「前提条件」を疑え!
      ー循環論だけでは語れないー  
   

<「危険性の少ない」ところで地震が起こる!>

Pdf_3 上の図は2010年(東北大震災の前)における、その後30年に震度6以上の地震が発生する確率の分布を示した図です。いわゆる地震ハザードマップといわれる図ですね。防災科学技術研究所の資料ですが、こういう資料を基に自治体は、対策を立案します。
 図でおわかりのように、2011年に東北大震災が起きた地域や、先日の熊本地震の地域は、確率の低い地域でしたし、阪神大震災もそうでした。
 東京大学教授のロバート・ゲラー氏はこれはそもそも間違った理論による予想であり、地震予知は今の段階では不可能だと断言します。何が間違っKatudannsou_pdf
てるか というと、地震は、各々その際の個別の条件に基づいて発生するのであり、以前発生した場所で周期的に発生すると「だけ」考えることが誤りだとのことです
 その下の図は、確率分布図に、活断層(赤色が主要な活断層でその他は黒で示されている)を重ね合わせた図です。「内陸型の地震活断層が原因とされているので、分布は重なっています。これは、断層を調査すると過去数十万年にわたって何度もずれた痕跡がみられる。従って将来も地震が発生する可能性が高いという理由によります。問題はその理屈「だけ」が正しいかということです。
 素人考えでもわかるのは、
①亀裂の入った岩盤に力を加えると必ず亀裂の場所で割れる。
②割れた岩盤の両側から力をかけると必ず割れた部分が変位する。
→これらは活断層地震が発生する理由になりますね。
 でも
③割れていない岩盤が壊れるまで力を加えると、割れている岩盤が壊れるより衝撃が大きい。
→こういう力が加わると、断層のない場所でもおおきな地震が発生する可能性がありますね。
④割れていない岩盤で、厚みが同じ場合面積が大きいほうが、小さい力で割れる。
→ということは、断層の間隔が短ければ、丈夫な地盤かもしれない。(細長くなりすぎると弱くなるでしょうけど)

 「プレート間地震の場合、発生のメカニズムは異なります。二つのプレートの片方がもう片方に沈み込んでいて、上に乗っかっているプレートが押されることでひずみがたまり、耐え切れなくなると先端が跳ね上がるというのが定説ですが、これなら周期的に繰り返し起こると考えられそうです。でもこれは、跳ね上がる部分がゴムのように「縮む」→「跳ね上がる」を繰り返すという「前提条件」の下で成り立つ話であり、もし壊れて引っ掛かりがなくなれば、次にどこでどうなるかは、わからなくなります。状況が変化するわけですね。

以上は、以前起こったことが繰り返し起こるとだけ考えるのは間違えてるかもしれないというお話です。

<見落とされる循環もある>

 逆に「目先の変化に気をとられると、大きな循環を見落とす」場合もある。Microsoft_word_140_pdf
 右上図は、マスコミでよく見るグラフです。過去140年の日本の気温変化を示しています。通常平均気温が上昇している=温暖化が進行しているという説明に使われます。
 私が小学生の頃(1970年頃)子供用の学習雑誌に、「世界の気温は下 がる傾向にあり、もうすぐ氷河期となる」と書かれていて、怖くなった記憶があります。青字は、私が書き込んだの401_3ですが、「1970年以降」を隠してみてみると、1940年~1970年にかけて、低下
傾向が見られます。その時点では、そのまま下がって いくと見ることもできますね。
 その下はずっと範囲を広げて地球の過去40万年の気温変化を示すグラフです。上の話は、右端の「A部」のごくわずかな部分を見ているだけで、全然意味のない議論だったことが解ります
 グラフをみればわかりますが、地球の気温はほぼ10万年で周期的に変化しており、今は温暖な時期にあることがわかります。
 あとこのグラフを見てわかるのは、①地球の歴史において今が最も温暖なわけではない。(誤った記述をよく見かけます。)②そのうち寒冷化に転じることが予想される。(これは本当に恐ろしい!)
 地震の周期説以上に10万年毎の気温の周期変化はメカニズムが解明されていない。従ってこちらも前提条件が漸次変化していく現象かもしれないので一概にはいえません。また地球の数十億年の変化が観測されれば、さらに異なる傾向が読み取れるかもしれないということですね。

<「わからない」ということがわからないと!>

これらは、「目先の変化にとらわれるな」という事なのですが、これらの見誤りは「正確な仕組みが解明されていない」ことに起因しています。
 例えば、「万有引力の法則により地球は太陽の周りをまわっている」ということが解明されるまでは、明日本当に太陽は東の空から上るのか、ということは経験的にしか語れなかったわけです。「いつもそうだから明日もそうなる」というレベルの判断なわけですね。言ってみれば、「地震予想は人間が万有引力の法則を知らなかった段階の知見からあまり違わない。」ということを正確に把握しておく必要があるという事です。

<経済成長に対する前提条件をどう設定するか?>

 私たちは、ある事実を前提にやるべきことを判断しています。「前提条件が変化している」ということを見落としていたり、思い込みによって、不確かな前提条件であるという事を忘れていることもある。そうすると、全く判断をを間違えていることもあり得ます。
 このことを痛感するのが「経済成長」というもののとらえ方だと思う。景気は循環するという説があり、その根拠として「在庫の循環」や「設備投資の循環」という学説があるようです。それらはそれなりに道理があるのでしょうが、今のように人口が減って必然的に全体が縮小しているということはそれらの説の根拠となる「前提条件の変化」を意味します。
 これは以前この場でお話ししたことがあるのですが、経済が成長する余地のある条件の下では、利益を再投資することで拡大再生産が可能になる。(これが「資本主義」の起源だというのがマックスウェーバーの説です。)ところが、全体が縮小しつつあるという「前提条件」のもとでは、ある集団が利益を得すぎるとその他の部分で縮小が増幅されるのが算数の結果なので、再分配することが行動原理として一番必要になりますね。

 今の政策は、この前提条件には立っていない。、「金融・財政政策によって経済を刺激すれば景気は回復し、かつてのような経済成長が可能になる」と考えている。この前提条件が誤りであるとすれば、これまで何兆円を無駄に刷ったことになるのでしょう!!これによって発生した借金についてはいったい誰が責任を取るのでしょう??気が遠くなりませんか?

<お金の話はよくわからない・・・>

 先ほど「政府がお金を刷る」という表現を使いましたが、実際的には日銀がパソコンに金額を入力するだけらしい。お金の話は本当によくわかりません。銀行がA社に100万円貸し出せば、銀行もA社も100万円の権利を持つことになるので、利息を返せるという条件さえ満たせれば、100万円が200万円の効果をもつことになるそうな。
 このへんをわかりやすく解説して欲しいと思われた方は「武田邦彦『現代のコペルニクス』#90 日本の重大問題(2)国の借金   
https://www.youtube.com/watch?v=6lDbR2VWoPw」をご覧ください。

 

 

 




 

 

 

 

52回目 「そうは言っても・・・」とは言うな!

52回目「そうは言っても・・・」とは言うな!
     ーいわゆる「日本教」についてー

<落ちるところまで落ちないと気付かない??>

  H28年3月17日、TBSラジオ荒川強啓デイキャッチ」中で、評論家の山田五郎が「ボイス」のコーナーで語ったお話。
 「日本はすでにアジアNo1の経済大国ではない。実質レベルではアジアの中位というのが正当な評価であるが、自分たちは相変わらずNo1だと思っている。家電など不採算の事業は外国に売っちゃって、新しい芽を育てる時期なのに全く意識が変わらない。これはもう落ちるところまで落ちないと気付かないのではないか?」

 同じような内容を3月22日、寺島実郎「月刊寺島文庫通信」で語っている。
 「東北大震災から5年。それ以前から、東北の過疎化は問題になっていた。震災をきっかけに、これからどうやって『食っていくか』を行政も住民も考えないといけないのは震災前からわかっていた。実際震災直後には、経済成長一点張りの路線に対する疑問を投げかける議論がさかんだったが、いつの間にか消えてしまい、転換するチャンスを失ってしまった。」
 「こうして相変わらず社会全体の意識は変わらない。本質的な議論はいつのまにか打ち消される。なにで飯を食うかという産業論に向き合わずに、マネーゲームで経済が立てなおせるという誘惑に負け、結果として国民の可処分所得は一向に上向かない。」

<「そうは言っても」といえばどうなるか?>

 脚本家の倉本聰「そうは言っても」という言葉は様々な悪弊を生むという。何となくわかります。例えば

 「原子力発電は使用済み燃料も問題が解決されていない。なおかつ事故は起こりうるし、ひとたび事故が起きれば、予期できない影響を及ぼす。」故に→「原発は速やかにやめるべきである」
 この論理は「事実」から導かれた理屈です。後半は福島で実証されました。しかしこの道理は受け入れられない。
 「そうは言っても「電気代が高くなったら困るし、(これは事実ではない)電力の安定供給のために必要である。(実はウランより化石燃料の方が安定供給可能な資源です。)なにより温暖化を引き起こしてはいけない。(詳しく説明しませんがこれが一番怪しい)」という何となく単に「ご都合」に合わせた話が通ってしまう。先ほどの道理が反証されたわけではなく、これには触れずに話をすりかえてしまう。もうひとつあげましょう。

 「沖縄には日本の米軍基地の74%が集中する。これは不公平である」というのは自明な理屈ですが一向に改善されない。
 「そうは言っても「沖縄の米軍は抑止力のために重要である。(「抑止力」とは何の定義もない抽象的な用語です。)特に最近増大する中国の脅威に対抗するために必要不可欠である。(中国が戦争を仕掛けてくることは現実にはあり得ない。)」

 「そうは言っても」という前置きでもっともらしく聞こえる言い訳がなされ、本質が抜き去られ、今すべき事が忘れ去られます。これは日本の国に綿々と伝わる宗教のようなもので、山本七平日本教と呼んでいます。

日本教とはどんなものか?>

 山本七平小室直樹の共著に日本教の構造」という本がありますが、小室直樹氏が日本教と題した番組(https://www.youtube.com/watch?v=xEyEUAvbUbo)の中で日本教のエッセンスを解説していますので、列記します。

①社会においては「日本人の都合」がなによりも優先される。その過程で物事の本質は抜き去られる。
 例えば仏教を取り入れながら、その教義の本質は忘れ去られ、「戒律無き仏教」に加工された。

②「何物も信じていない」従って「行動規範は作りえない」
 これは今に至るも「憲法」が政治の規範となっていないことか  らもよくわかりますね。

③「決定」は「おぜんたて」によってのみなされる。そこを支配するのは「空気」である。
 なにをかいわんやですね。

福沢諭吉明治維新

 福沢諭吉はもちろん日本教という言葉を使ったわけではないですが、日本を一流国とするためには、日本の文化の底にあるアジア的な奴隷根性を排して、ヨーロッパ並みの人権感覚を身に着ける必要があるということを認識していた。
 そのためには西洋でキリスト教の果たしている行動規範としての役割を天皇神道)に求めた。
 当時一般国民にとって天皇とは「そういう人がいるらしい」という程度の存在であったらしい。幸運にも(?)日清・日露戦争に勝利する過程で天皇は神格化されていったそうです。「神国日本」の思想ですね。
 一流国を目指していた日本は、日露の戦争において、5年前のハーグ平和会議で決められた戦争に関する国際条約を完全に遵守し、国際的な信用を高めることにもなった。恥ずかしくない国になるためには規範意識は高くあるべきという意識があったわけです。

<敗戦へ>

 それでも日本教は、生き続ける。第二次大戦を始める頃には「道理」ではなく「空気」が支配していた。その戦い方においても「合理」ではなく「精神」が優先された。
 「敗戦」の結果、天皇は、規範ではなくなった。その後は経済復興が唯一の目標となったわけですが、バブル崩壊以後、その拠り所もなくなった日本には何もなくなってしまった。

 以上が小室直樹の見解です。

<そして今>

 今も変わらず無意識に日本教の崇拝が続いていることが、冒頭のコメントに結びつく。そのままではまずいということを解決しようとはせずにそうは言っても」論理で、その場しのぎを続けている状況なわけですね。同様の指摘をしている有識者は数多くおられます。しかし彼らが声を上げるほど、それらを排除しようとする空気が生まれるのが日本教なわけですね。

<民主主義について>

 ですので「仏教」の場合と同じく国民主権」「民主主義」「自由・平等」「立憲主義という概念についても、本質が抜けたまま自分たちの都合の良い解釈がなされたまま、理解したものと思い込んでいる。実はこれらは「不断に追及し続けないと実行できない理想」(丸山真男氏による)であるのに。
 苦労してこれらの権利を獲得した歴史を持つ欧米の国々では、それを身をもって理解している。
 アメリカの大統領選がこんな長期間をかけて行われるのも一例ですね。これは単なるお祭り騒ぎではなく、国民が民主主義を理解するための必要な儀式のようなものです。
 また、北欧の国では、小学生に議論をさせて「遊び場にどんな遊具を置くか?」を決めるといった教育がおこなわれているそうな。小さい頃から「民主的に決定する方法」を身に着けるわけです。高校生までは、国民としてのこうした規範を教えることが、教育の第一義だという話を聞いたこともあります。そう考えると日本の教育がとっても貧相に思えますね。
 でも国民が「民主主義」の意味を理解しない方が「支配者側」にとっては都合がよい!日本が「民主主義」というより「官僚支配主義」であるのは、明治維新における「上からの民主主義化」において、行き場のなかった武士たちを官僚として採用したことに起因するそうです。市民にものを決めさせないという体制が連綿と続いているわけですね。「おぜんたて」による意思決定が隅々まで浸透しているわけです。
 
 <若者たちの芽がつまれないように・・>

 今、ある自治体における開発計画の構想にかかわっています。 構想は自治体の上位計画に整合する必要があるので、調べたところ、市政の大方針はおおむね10年ごとの「総合計画」で決定されており、今はその改訂作業中であるとのこと。
 そのプロセスは、まず市民アンケートが行われ、その後分野に応じた分科会に市民が参画した「市民会議」が行われ、それを専門家を交えた会議である「総合計画審議会」を経て、一年半程度かけて策定作業が行われるというもの。  
 これを見ていると、市民の声を聞きながら、慎重に議論を重ねて、ち密な論理を組み立てているように見えます。さて実情は如何に?
 想像に難くないですが、隣の自治体で、同様の会議に参加した人に聞いたところ、やはり「おぜんたて」を追認する形で物事が決まっていくだけとのこと。それが証拠にでき上がった「総合計画」には医療・福祉等、各分野にわたって当たり障りのない目標が示されているだけです。「日本教は綿々と生き続けているわけです。

 「シールズ」奥田氏は1992年生まれの23才、バブル崩壊以後に生まれた世代ですね。政府の方針に対する疑問を表明して運動に高めるためには、勇気と実行力が必要だったと思います。ただネットを見る限り様々な批判にもさらされている。周りの御都合主義によって、声がかき消されるように願うばかりです。

 「国民の声が届く」という言い方ありますが、これは、国家権力は「お上」だと認めてしまってるような表現ですね。これは「立憲主義」「国民主権」の概念とは全く一致しないものです。「集団的自衛権」の議論を通じてこの矛盾に気づいた人たちの道理が通るためにはどうしたらよいか?その立場にいる人はまじめに考えてほしいですね。
 
 

 

 

 

 

51回目 「京都」考③

51回目 「京都」考③
      -これからのことー

<「京都」あるいは「日本」の不連続性>

Photo 昨年仕事で仙台へ行った際、松島を訪れた。日本三景のひとつ、風光明媚な海岸の風景に相対する沿道の街並みは、全く雑然としたものでした。案内していただいた土木コンサルタントの方も、「この町ができた頃には『景観』という概念がなかったんだろうね」、と話してました。
 ここが京都と違うのは、もともと継承すべき街並みが存在しなかったということですね。高度経済成長による観光客の増大によって、バラバラにたてられた建物群なのでしょう。何となく、ロードサイド店舗の様相を呈しています。これは、「自由放任するとこうなる」という例かなと思います。おそらく古くからある全国の観光地の多くは同じような状況なのでは。東洋文化研究者であるアレックス・カー第二次大戦時京都はその文化の重要性ゆえに空爆からはずされたのに、日本自ら文化を破壊してしまった。と語っています。

 この「不連続」はなぜ発生したのか?
 ひとつは、「建築手段や経済条件の変化による不連続」に原因を見出せます。地域の人々は昔から特に「景観」という意識はなく、当たり前のことをしていただけでしょう。いやむしろ1960年代には新たなビルデイングスタイルに新しい時代精神を感じていたかもしれない。私は1960年生まれですが、子供の時、近くに鉄筋コンクリートの建物が建つと、当時珍しかったこともあり、無条件に「かっこいいなー」と思っていました。「景観条例」のルーツは1968年に金沢市が制定した「伝統環境保存条例」とのことです。金沢市でもそうした状況だったのでしょう。問題は京都のように明らかに「文化」を尊重すべき場所において、人々の意識はどうだったのかという事ですね。

 そこでもうひとつの原因、「精神の不連続」に行き当たります。これについてはこの小文ではとても書ききれませんが、「第二次大戦後における価値観の不連続」です。戦争→敗戦→復興→高度経済成長→バブル経済とその終焉 の流れの中で、立ち止まって考えることができなかったのかもしれない。その過程において「足るを知る」から「経済中心主義による利益追求」へと価値観が変化したともいえます。
 ここでひとつ思い浮かぶのは、戦後復興の際、例えばワルシャワPhoto
といった、ヨーロッパの多くの都市が、がれきを再利用しながら、元の姿を根気強く復元するところから始めたという話。彼らは自分たちで積み上げた歴史を途絶えさせないためには、そうしないと心の空洞を埋められないと思ったのではないか。河合隼雄は日本人の精神構造は「中空構造」だと分析しました。これによる日本人の「相対性・曖昧性・空気主義」が、時代の変化に対してその場しのぎで対応してしまったのかもしれない。
 しかしこの過程によって、決定的に日本人は「心の拠り所」を失ってしまった。西洋の人々の心の拠り所はまず基本的に一つの神を中心にもつ宗教ですね。日本人はおそらく村落共同体の原理が一番の社会規範だったわけですが、高度経済成長のなかで、中間社会が崩壊し、この構造は空洞化しました。まだ成長が続いていた頃は、働いて稼ぐという行為が救いになりえたのですが、それさえバブルの崩壊とともに消え去った。結果として、個人はばらばらな価値観で漂流せざるを得ない世界になりました。(このあたりは21回目<包摂性のある社会>に詳しく記述しています。)このことが様々な物事の破たんの原因になりました。

<まずは中間社会の再構築>

 前回「京都考②」で提示した、「年暮る」の横からのアングルにおける現代の街並写真を見ると、個人のばらばらな価値観をそのまま表出しているように見えます。ただ都市において多様な価値観が存在することは決2して悪いことではない。むしろ「都市」に不可欠な要素です。実際、先に掲載したワルシャワの写真を見ても、京都の伝統的な街並み(写真参照)を見ても、ひとつひとつの建物には差異があってそれが魅力を引き出しています。
 問題は断絶を感じさせない「連続性」を持たせることができるかですね。その意味において、新しい時代の要請に対応してどういう連続性を持たせるかという意識を共有する必要があります。その意思決定をするために中間社会としての地域社会コミュニテイーの再構築が必要となるわけです。
 そもそも「景観」を保存すべきか、個人の自由度を高めることを優先するか、運命共同体として結論を出す必要があります。

<「景観」は誰のためのものなんでしょう?>

 結果として地域社会は、「景観」の規制に対して。「不要」という結論を出すかもしれない。それが妥当な場合もあり得ます。さてそれだけで問題は片付くか?「景観」は「環境」ととらえられますが、「環境」とはいかなる存在か?ということを考えないといけません。
 これについては、「環境を一つの生き物として認識する」必要があることを述べました。(45回目<環境倫理学から:ベアード・キャリコットの「全体論参照)環境は自然や街並みとそこで住み、活動する住民から成る。「環境」の振る舞い方については、あくまで住民がその生き物の立場に立って、判断する必要があるが、その存在は個人のスケールを空間的にも時間的にも超えている。そのため、その生き物が如何なる存在であるかを認識するためには専門家のサポートが必要である。同時に将来の選択肢としていかなる可能性があるかを分析・解説するのも専門家の役割である。それらをもとに住民が自ら決断しないといけないという考えです。
 「その生き物」を京都ととらえた場合、これはもう日本の文化・歴史を背負った話になります。これが前回お話しした、「『景観問題』は『個人の行動』と『社会性』のせめぎ合いの問題である。」という意味です。京都の住民は、その責を背負わないといけないのでしょうか?これに「YES」と答えるのがマイケル・サンデル等のコミュニタリアニズムの考え方といえます。個人の自由は社会の中に生きているという前提の中で語られるべきという思想ですね。逆に個人が利益を追求すればよいというかつての考え方(功利主義)で何が起こったかと言えば「公害」です。この内容については、マイケル・サンデル「これからの『正義』の話をしよう」をお読みいただいたら、納得してもらえるのではと思います。 

<「規制」ではなく「里山資本主義」>

 2007年に改正された京都の景観条例もある意味、社会性によって個人の行動を制限するという意味で、この考え方の延長線上にあると言えます。前回少し触れましたがこの規制は、個人の権利に影響を与える。その規制の妥当性をうんぬんする前に、共同体として納得して導かれた結果だろうかという事を問う必要があると思います。
 もし、京都という「生き物」の主体である住民が「参加」していたらどうなったか?その規制を受け入れることが理屈として納得できるものであるけれど、損害を伴うものであれば、それに対して交換条件を持ち出してくるでしょう。それが、例えば景観を守ることによって得られる観光収入を回す仕組みを考えるとか、京都固有の税制を考えるとかにつながるのではないか?そういうことを話し合って結論を出すところに意味がありますよね。

 「地域で物事を回す」これはこのブログで何度も繰り返してきた里山資本主義」の考え方です。「参加による包摂のある社会の創造」です。とにかくお役所に任せておけば「その場しのぎ」にしかならないのは分かっています。「景観」の担当者は「景観」のことにしか関心がない。(あっても、担当外の事には口を出さない。)また、規制によって住民が負う負担についても関心がない。(ごみの分別なんかもそうですね。)だから参加して意見を言うことが大事です。

 私は大阪南部の城下町の出身です。城の周辺の旧街道筋には景観規制がある。街道を歩いていて、格子窓があるので近づいてみたら、窓ではなく、とってつけた「飾り」だった!規制をいやいや守っていると、こんなことになります。全く本末転倒ですね。

 京都の出町柳近くに「ふたば」という和菓子屋さんがあります。名物が豆大福塩加減が絶妙でとても美味しい!学生自分は、ふらっと寄って買ったものですが、最近はいつ行っても長蛇の列。時間を惜しんで京都見物している身としては、いつもあきらめてしまいます。人を呼ぶ魅力があって商売繁盛なのは結構であり、活性化の原動力とはなるでしょうが、あまりのにぎわいを少し悔しく感じるのは、性格がひねくれてるでしょうか?・・・でも下賀茂神社前の「矢来餅」はすぐ買えるし、北野天満宮前の「粟餅」もおいしいですよ。!!

 

 

50回目 「京都」考②

50回目 「京都」考②
     -京都の街並 今と昔ー

円通寺の借景> 
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 最初の写真は円通寺の庭です。遠くの比叡山を庭と一体の風景とした、「借景」の手法による庭。私はこの庭を見ながらぼおっと何時間か過ごすのがお気に入りです。
 奥にある生垣と比叡山の間には、市街地があるのですが、注意深く隠されています。このあたりは、京都にとっては郊外の住宅地にあたる地域であり、マンション計画もあったそうです。京都市眺望景観創生条例」により、高さ等の制限が設けられたことにより、この風景が守られたという経緯があります。ここの住職は時々話しかけてくるのですが、「何とか条例が間に合ってよかった!」と感慨深げに語っておられました。ぎりぎり危機が回避されたようです。
 ただこれは、マンションを建てようとしていた地主にとっては、販売による利益が少なくなる(あるいは計画が成立しなくなる)という結果をもたらしたはず。法律により権利が制限されたわけですね。その人にとっては、得してるのは観光客と寺だけだ!ということになる。ですから「景観を守る」と一言で言っても皆が賛成できる話ではない。これがこの問題の難しいところです。
 現実に、中心市街地にあった、老舗の「俵屋」旅館が、近くにマンションが建つことで眺望が阻害されるということで、問題になったことがありますが、マンション建設を阻止することはできていない。(何らかの調停があったようですが。)

東山魁夷「年暮る」から考える>
Photo

 右の絵は東山魁夷作「年暮る」です。全く「素」のままの京都という感じですね。発表されたのは1968年、高度経済成長はもう始まってますので、街並みが壊れかけていたのでしょう。川端康成が「京都は、今描いていただかないと、なくなります。京都のあるうちに、描いておいてください」と進言してできた作品だそうです。おそらく一番「素」の部分が残っている場所を選んで描かれたのでしょう。
Photo_12 これはホテルオークラから東をみたアングルで描かれていますが、今の風景を同じアングルから写真撮影した方がおられますので引用させていただきます。とっても貴重な記録ですね!(http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e13edff4ce9a241c24e4407f04c976a1参照)
 上記のブログでも書かれていますが、この写真を見る限り、全くの「街並みの破壊」と見えます。奥に見えるお寺(要法寺)だけが変わってなくて、目印になりますね。このお寺以外は雑然とした街並みに変わってしまった・・・・
 もう少し詳しく分析してみましょう。これを航空写真で見ると、少し印象が変わります。 
1_3 まず1961年。この辺りは町屋が広範囲に連続していた地域であることがよくわかります。道路の配置もよくわかります。町屋は道路に対しては屋根の軒の方を向けています。(これは「平入り」といいます。この地域は南北に生活道Photo
路が配置されているので、絵のアングルでは、軒を向けた屋根が多く見え、統一感のある構図になっています。道路からどんどん街区の奥に入っていくと、方向の違った屋根もあります。これらの屋根の間に「中庭」が設けられ、通風・採光を確保するのが、京町屋の仕組みとなっています。(写真参照)
 これに対して、2015年の航空写真。2_4
あたりまえですが、道路形態はほとんど変わっていません。上から見ると骨格は変わらないのに、横から見ると、ずいぶん変わっちゃったというのがわかります。ここのところがポイントですね。
  ちょっと考えてみてください。「年暮る」は切り取られた風景として、情緒あふれる絵となっていますが、この風景が、べたっと京都全体に広がっていることを想像すれば、ちょっと単調で殺風景ですね。ある意味、今の風景は、様々な人間の活動が表出して活性化した結果だともいえる。ただやはり横から見ると、なんか他に方法がなかったのか?と思いますよね。

<ではどういう方法があったんだろう?>

 1960年代からの約50年の間になにが起こったか。横から見た写真を比べればよくわかります。

①人口増により、高層化が必要になりました。地価が上昇して高度利用が(経済的に)要求されました。
②上記と同時に、建物の不燃化が要求されました。従って建物のスタイル、質感が変化しました。この地域(準防火地域)で言えば、三階建て以上で耐火性能が要求されます。
モータリゼーションにより駐車スペースが必要になりました。その分、スペースが必要になり、土地利用はさらに制約されました。
④新たな機能を有する建築が必要になった。例えばマンションとかショッピングセンターとか、コンサートホールとかですね。

 私は建築設計が専門なので、「年暮る」の「素」の状態をベースにして、「景観」を保全しながら上記の設計条件を満たす方法はいくつか思いつきます。まずは道路際は軒の高さを変えないで、奥に行くに従って、高さを上げていけば、視覚的には一番良いですね。そういうことは、建築デザインの訓練を受けていれば、誰でも考えます。私が考えなくても、すでに提案されているのをお見せします。 
Photo 右の図は「町屋型集合住宅(巽和夫+町屋型集合住宅研究会)」の資料から引用しています。(若干加工しています)これは「元の景観の流れを受け継ぎながら、時代の要請に応じて機能を変化させていく方法」です。こうして街並みの連続性を確保するわけですが、この場合は、アナロジカル(類推性)の連続性」と言います。
 別の方法としては、町屋はある地域を限定して「そのま まの形態で保存するPhotoという方法」もあります。橿原の今井町ではそのような手法がとられています。(写真参照)これは、機能をそのまま維持するという意味で「ホモジニアス(同質性)の連続性」と言います。
  さらに上記④の解決方法としては、異質であるが、十分吟味された建築を注意深く挿入するという方法」もあります。写真に示すのは、パリのポンピドーセンターの例です。この建物はできた当初 2_6は物議をかもしたそうですが、今ではすっかりパリッ子の間で定着しているようです。これはヘテロジニアス(異質性)の連続性」と呼ぶことが可能です。
 要は、既存景観との「連続性」をどういう方法で継承するかを決断すればそれなりの方法はあるわけです。問題は、なぜ連続性が途切れてしまったか?連続性を維持することが可能であったか?将来可能であるか?ということですね。

<では何が現実か?>

 現実的には、古い町並みはどんどん失われていっています。今何が問題だったかということを整理します。

①「京都」の地域とは関係なく、普遍的な「経済性」「効率性」が適用されてきた。
②さらに上記の手法が、「個別的」に適用されざるをえなかった。結果として「雑然」とした街並みが形成された。

 京都では2007年に景観条例が改正され、全国でも最も厳格な規制が成立しました。遅きに失したという人もいます。さてこの「規制」で景観が守れるでしょうか?
 例えば、地域によっては市街地で「軒を出を60cm以上、けらば(妻側の屋根)の出を30cm以上」という規制がありますが、これは、中心市街地では妻側の外壁が隣地側でほぼ接していますから、建物の幅を60cm小さくしなさい、と言っている内容です。これは間口が平均3間(狭いものでは2間、1間は約1.8M)で奥行きの大きい京都の町屋では、建替えは非常に不利な条件を飲むということを意味します。
 「景観問題」は建築デザインンの問題ではなく「個人の行動」と「社会性」のせめぎ合いの問題なわけです。あれ、そういう分野についてはこのブログでは何度も話題にしてきました。同じ文脈で活路が見出せるのではないでしょうか?というのが次回の話題であります。

 11月22日(連休の中日)に京都へ紅葉を見に出かけた。これは昨年に引き続き、我が家の恒例行事となりつつあります。実は今年の紅葉は気温と雨の関係でここ10年で最悪だったそうで、残念ではありました。それよりもなによりも昨年と大きく異なったのは、観光客の数が爆発的に増えたという事。駐車場もお寺もレストランも、長蛇の列を我慢しない限り利用不能。オーバーフロー状態でした。
 観光業というのは、売り上げが増えても必要経費がさほど増えない産業ですから、絶対もうかってるはず!この利益を、「観光」「景観」という名のもとに我慢を強いられている住民に還元しないのはおかしいですね。この辺りが問題解決のポイントではないか???

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

49回目 「京都」考①

49回目 「京都」考①
      ー僕の京都の味わい方ー

 昨年(平成26年)秋、地下鉄の吊り広告で、紅葉の名所として永観堂の写真が掲載されていた。行ったことがなかったし、正直その名前も知らなかった。有名じゃなければ、ひょっとしたらすいてるかなと思って出かけました。実は紅葉の名所としては非常にポピュラーなスポットだったようで、無茶苦茶混んでいましたが、その分一見する価値のある、見事な紅葉でした。Photo_2
 おそらく、紅葉を美しく見せるために相当に手入れを尽くしていると 
思われます。色彩の鮮やかさが違いました。人ごみをかき分けて、バスで乗り入れる団体さんたちが、山門を入った途端、歓声を上げるのが、外からも見て取れました。(写真参照)
 京都の寺社を訪れて、よそと何が違うかと言えば、紅葉に限らず、桜でも苔でも、「そこにあればよい」という考えではなく、「どう見せるのがが風流か」を考え抜いてある。それが他の観光地と一線を画するポイントだと思います。もう少し具体的に説明いたします。

①「地肌を見せるのは興ざめ」という思Photo_3

  庭でも境内でも、これには感心します。これは庭造りの基本ではあるのですが、徹底することは、並大抵のことではない。庭の手入れをしたことのある方は実感すると思います。右の写真は高台寺の庭ですが、石組と苔でできた庭です。地肌はどこにも見えません。TVで三千院の苔の手入れをしているのを見たことがありますが、雑草を一本一本こまめに抜くことによって成り立ってる光景なので す。

②「余計なものを見せない」という思想Photo_7

 さきほどの高台寺の庭は東山の山すそ斜面を利用して作られています。山の方を見ているので、向こうに余計なものは見えない。そういう場所には、このような美しい庭がたくさんあります。地図を見て市街地と周辺の山の境目を探してみてください。嵐山の天竜、大原の三千院、修学院の曼殊院なんかもそうです。
 市街地の真ん中でも、この思想は徹底される。写真は無鄰菴(山縣有朋の別荘)の庭ですが、岡崎の市街地の中にあるとは思えませんね。樹木や塀、築山等を利用しながら、雑音を生じさせるような事物を巧みに隠しながら、外界の存在を感じさせない庭の世界を作り上げています。

③「かよわさ」を生かす思想                         Photo_2

 京都の町屋の柱は奈良などと比べて、ずっと細くて きゃしゃな感じがします。「無骨」はダメなのでしょう。
 写真は先ほどの無鄰菴の裏の方にある中庭です。すぐ引っこ抜けそうな笹が、この控えめな中庭の主役になっています。上の表の庭の華やかさと対照的ですね。Photo_2
 その下は三千院で見た手水鉢。横に植えられた低木の枝が、雰囲気を演出します。ここまでいくと、頭で考えるのは不可能で、手入れしながら、作られた光景だろうと思います。 

<「庭の世界」から「景観」へ>

 これらの「手を抜いてなさ」は他の観光地と比べて歴然と差があるように感じます。先ほどの苔の庭の雑草抜きなどは延々と続く作業ですね。おそらく「そこまでしなければ許されないだろうし、自分も満足できない。」という「意識」が京都の観光スポットとしてのグレードを支えているのでしょう。
 これが、街並みの「景観」という話になると、様相が変わる。個人の意識だけで伝統的な街並みを維持するのは難しい。様々な人々の利害や経済性等の様々な社会条件が関係します。モータリゼーションをはじめ、ライフスタイルも変化する。そこには葛藤がありますね。これについては次回の話題といたします。

 もう37年前になりますが、大学受験で京都を訪れた。受験前日、バスで大学の下見に向かう途中、賀茂川にさしかかった。いきなり目の前の視界が開け、清流が目にはいり、「はっ」としました。
 今まで大都市の川と言えば大阪の川の風景しか知らなかったので驚いたわけです。(当時はほとんどドブ川でした。)ちまちました京都の街並みを一直線に突っ切る空間は爽快そのもの。そこに涼を求めていろんな人が繰り出します。学生時代、上流・中流下流それぞれにそれぞれの季節で楽しませてくれました。賀茂川は今も変わらず流れています。 周囲の景観は結構変化しました。京都の未来を考えてみるのも一興かと思います。

 

 

 

48回目 この世は幻想か?

48回目 この世は幻想か?
    -万物はゆらいでいる-

<これは幻想であって欲しい!・・>

 平成27年9月18日、仕事をしながら集団的自衛権の国会審議をインターネット中継で見ていた。(正確に言うと「聞いていた」)まるで悪夢のようでしたね。これは幻想であって欲しいと思った。
 現実にはつじつまが合わないことだらけ。不条理にあふれている。そんな時、幻想願望が生まれるのでしょうか?そのせいか、「幻想」について語る人はたくさんおられます。


 社会は幻想だ、というのは、なんとなくわかる。社会制度は、歴史的ななりゆきで成立したものだし、いろんな仮定や取決めに基づいている。従って吉本隆明「国家は共同幻想である」というのは、そうだろうなと思います。
 あるいは、心理学者である岸田秀「本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である」として「唯幻論」を解くのも、なんとなくわかります。よりどころとなる現実に頼らねば、脳は機能を維持できないだろうと思います。

<ホログラフィック原理>

 では、今度は物理学者の最先端の仮説ですがどう思いますか?宇宙が時間軸を持った三次元空間であるというのは幻想である。我々が存在すると思っている三次元空間は、宇宙の地平面における二次元情報が、投影された像にすぎない。」これをホログラフィック理論といいます。
 ここまでいくと、理解の範疇をはるかに超えています。では目の前に現に存在する現実はなんなんだ!と思うでしょう。でも理論的に導かれる可能性のひとつなのです。まあ、この理論には、深入りしませんし、できる能力もありません。もうすこしわかりやすいところで、我々がそこに確固として存在していると思っている実体に少し疑問がわくようなお話をいたします。

<物として認識するということ>

 私たちが個体と認識しているものはまず「見える」必要があります。でもあらゆる物質を構成している原子は、中身はほとんど真空です。原子核ソフトボールくらいの大きさとすると、電子は1.5Km離れたところに存在する。その程度にスカスカです。ではなぜモノが見えるのかというと、光を反射するからですね。光の波長は原子の数千倍ある。光は原子の中を通過できなくて、反射されるのです。
 ということは、我々の視覚的な認識は「光」の性質に依存していということ。もし光が原子の中を通過できたなら、世の中は、もやもやとした、不定型な、半透明のお化けのように見えるのでしょうね?
 さらに言えば、先ほど「真空」と表現しましたが、これは正確には「無」ではなくて、素粒子は飛びかっている。「質量」の起源といわれているヒッグス粒子は、空間に充満しているはず。もし粒子をそのまま見ることができたなら、それこそ粒子の流れこそが現実の姿です。個体の境界は明確ではなく、粒子の密度の高い部分が個体だというふうに見えるはずです。

<「ゆらぎ」が宇宙の根源である>

 インフレーション理論を唱えた佐藤勝彦によれば、そもそも宇宙の始まりは、真空状態におけるエネルギー密度の「ゆらぎ」だと考えられています。その結果ビッグバンが起こった。また、その直後の粒子密度の非均質性により、銀河や星が生じと言われています。わずかな密度の「ゆらぎ」が、物体を形成し、生命を誕生させるまでに至ったわけです。
 量子力学の(一見非常識な)常識では、そもそも、粒子の位置と運動を同時に特定できない。計算できるのは、粒子がそこに存在する確率だけ。素粒子を観察すると、粒子が消えたり、ないところから出てきたりするそうな。我々の存在の根源になる要素自体ゆらいでいるのですから、なにかとっても心もとないですね。
  宇宙に働く力を一つの統一した理論で説明しようとする超弦理論では、世界は11次元でできているそうですから、素粒子も我々に見えない次元に行ったり来たりしているのかもしれない。そうなれば、我々自体消えたり現れたりする「シュレデインガーの猫」のような存在のような気がしてきます。

<遺伝子もゆらいでいる>

 人体の生理においても「非均質性」は重要な働きをしています。例えば、受精直後の受精卵は、2分割→4分割というふうに細胞分裂しながら、機能分化していくわけですが、受精前の卵子に、方向性は無い。どちらが頭になってどちらが足になるかは、受精直後の物質濃度の勾配で決まるらしい。方向が決まれば、それ以降、順々に遺伝子のスイッチが入って行って、分化が進行するとのことです。
 そもそも遺伝子の構成自体、ゆらいでいるらしい。ヒトのゲノムに「決定版」は無い。個人個人で異なるからこそ「遺伝子鑑定」が成り立つわけです。この変化は、世代間にわたる環境への対応であったり、病気への対応であったりするだけでなく、一世代において、増殖を繰り返すことによっても変化する。
 それがまた、古典的な「進化論」で語られるような、「適者生存」のように、ある理想的な方向へ向かう変化だけではない。だからこそ「ゆらぎ」なのですが、例えば、年齢を重ねると、ミスコピーを起こしやすい配列の部分がどんどん変化して、病気になる。(その部分が短い人はその病気になりやすい。)あるいは、女性を決めるX染色体と、男性を決めるY染色体はお互いの勢力争いを常に繰り広げて常に変化をもたらしているらしい。ある遺伝子は、ある病気にはなりにくい方向に働くが、同じ遺伝子は、別の病気にはなりやすい方向に働く。そのため、その人がおかれている風土によって遺伝子も変化する。等々・・・

 「1970年代、物理学で半世紀前に起きたように、生物学でも確定性と安定性と決定論に基づく古い世界観が崩壊した。われわれはその代わりに、揺らぎと変化と予測不可能を基盤とした新しい世界観を構築する必要に迫られている。われわれの世代が解読するゲノムは、絶えず変更されている文書の一瞬をとらえたものにすぐない。」(「ゲノムが語る23の物語」マット・リトレー著 紀伊國屋書店

<脳と体と遺伝子の三位一体説>

 では我々の存在の拠り所にすべき確固とした存在は何なのでしょう?上記の書籍には「脳と体と遺伝子は三位一体として振る舞う」と述べられています。これは、三つの要素のどれもが優位にあるわけではなく、お互いに影響を及ぼし合いながら変化する、という意味です。遺伝子でさえ絶対的な決定要因ではないのです。
 結果、私たちは大海の中を潮まかせに漂うクラゲのような存在だということですね。正直どこにたどりつくかわからない。

 ただ「脳」と「体」(個人の意志では「遺伝子」はどうにもならないが)を健全に保つためには、不安を感じたままではいけない。本来的に安定を欲求します。
 例えば、宗教もそういう欲求から生まれ、支持されているわけですね。心の拠り所が必要ということです。
 一番最初に述べた「人間は幻想を必要とする」というところに戻ってしまいました。この世は幻想か?というより幻想が必要とされる!ということです。

<幻想ではない範囲で考える>

 岸田秀はさらに語る。「本能が壊れた人類は、本来なら滅亡しているはずであった。(中略)そして人間は、頼れなくなった本能的行動パターンの代わりに、道徳とか礼儀とか伝統とか慣例とかのいろいろな人為的規範を作り、それらに従って生きるようになった。」

「自我というのは、いつも強調するように幻想であって、実体として存在しているわけではないので、周囲の世界に支えられなければならない。どこまでが自分か、身内か、共同体かということは誰も決めてくれないし、基本的な法則があるわけではないので、自分で決めなければならない。自分の感覚で決めるわけだから、やはり自分の奉仕や献身に対する感謝などの反応のある範囲内で、という事になってしまうのは避けがたい。」

<居場所はどこに?>

 というわけで、とりわけ社会規範の存在しない日本においては、身近な所に、生きる実感を見出すのが第一だという事であります。
 これは、このブログの中でお話ししてきたテーマと符合しますね。よしよし!(22回目あたりに詳しく述べております。)

 なんだか心の不安を駆りたてるようなお話をしてしまったのかなという気もしますが、まあ不安を持ってない人はこんな話を読まないだろうし、不安を持つ人は、みんなそうだと思えればなんとなく気楽になるかもしれません。このような話を奥さんにしようものなら、「なにゆうてんねん!目の前の現実から逃げるようなこと言うな!ちゃんと給料を稼いで来い!」と言われるのは目に見えております。なかなか身近に幸せを見出すのにも苦労しますね。というわけで、日々居場所を探す毎日です・・・・・
 

 

 

 

47回目 私たちが生まれる前の100年間に起こったこと

47回目 私たちが生まれる前の100年間に起こったこと
     ー技術革新と経済成長の関係を探る!ー

<科学の歴史から>

 最近「宇宙論」の本を立て続けに読んでいます。これは一種の現実逃避であります。(自分に原因があることも多々ありますが)最近世の中に対する疎外感、無力感が甚だしい・・・「宇宙」にはそんな苦しみは一切存在しません。癒されます。
 どの本にも必ず登場するのは、かのアインシュタインです。ある本では、科学における宇宙に対する認識(人間原理)の歴史をたどる中に登場しました。その内容はさておき、注目したのはその「時代」です。

アインシュタイン特殊相対性理論に続き、一般相対性理論を発表したのは1915年、このときすでにブラックホールを予言し、「重力は質量によってゆがめられた時空のひずみ沿った自由落下のことである」という説を唱えました。ブラックホールの存在については、その後様々な現象の発見により裏付けられてきました。重力理論については、まだ解明されていませんが、彼の説は全く色あせていません。1915年と言えば日本は大正時代、第一次大戦が始まった直後です。氏の先進性は驚くばかりです。

②さらに量子論1913年、既に発表されています。アインシュタインはこの理論が嫌いで、量子論を揶揄した「神様はサイコロを振らない」という言葉は有名ですね。量子の運動を記述するシュレデインガー方程式は、今もミクロの世界を表記する上で有効です。

③ところがところが、この頃もちろん原子の構造についての理論はありましたが、観測による確認はされていなかった!!これは、ラザフォード原子核崩壊の実験(1919年)や、電子顕微鏡の発明(1939年)を経て、20世紀中頃に、やっと立証されました。

 日本の長岡半太郎氏が原子模型の理論を発表したのは1904年のことですから50年おくれで立証されたわけですね。1950年頃にはDNAの二重らせん構造の発見(1953年)宇宙のビッグバン理論(1949年)といった、今の科学の基礎となる理論が、ほぼ出そろった感があります。

 では、その100年前はどんな世界だったのでしょう?年表をみると

1842年ドップラー効果
1843年熱の仕事等量(ジュール)
1859年ダーウイン「種の起源
1865年アボガドロ数

等が出てきます。何だ!高校の物理で習った程度の知識じゃん!

 私が生まれたのは、1960年。その前夜といえる100年間はわずか三世代程度の間に科学の世界ではすさまじい技術革新があったわけです。

<世界と日本史における1850年~1950年>

 では、その間における世界はどんな時代だったか?教科書的な話はなるべく簡潔に期します。

1850年
 ・1848年:フランス二月革命
 ・1853年:ペリーの浦賀来航
 ・1861年アメリカ独立戦争
②1900年頃
 ・1904年:日露戦争
 ・1914年:第一次世界大戦
③1950年頃
 ・1939年:第二次世界大戦
 ・1945年:日本がポツダム宣言受諾

 まさに戦争の世紀だったわけですね。何のための戦争だったか?大部分は植民地を獲得することによって、自国を繁栄させようとした結果です。
 宗主国は植民地から安い原料を仕入れ、製品を植民地に買わせる、いわゆる「収奪」により経済を成長させた結果、19・20世紀には、歴史上特異な現象が起こりました。それは「個人資産の実質的増加」です。

<経済成長は幻想か?>

 (集英社新書「没落する文明」萱野稔人神里達博より抜粋)
 「経済史家のアンガス・マデイソンが書いた『経済統計で見る世界経済2000
2000年史』という本はとても示唆に富みます。彼はこの本の中で、一世紀から二〇世紀までの世界経済の実態を統計的に調べ、人類が経済成長というものを経験したのはたかだか1820年以降の、ごく最近のことにすぎないということを実証しました。」

 ほぼ私たちが生まれる前100年は、人類の歴史上、初めての「経済成長」を経験した時代だったのです。
 その後西暦2000年あたりまでは何とか成長し続けましたが、それ以降は、ほぼ横ばいです。それなのに、私たちは経済成長はするものだと思い込んでおり、政府も再び右肩上がりになるという前提で政策を決定し、カンフル剤を打ち続けております。これは幻想ではないのか?

<「重ね合わせられないでしょ」定理を応用すれば>

  政府は「成長戦略」として常に「イノベーション」を持ち出しますが、技術革新すれば経済が成長するというのは、どうも怪しい!        Pdf_2

 現実的には科学はどんどん進歩しているし、生産現場の効率は日進月歩です。生産効率が上がれば、経営者は利益を得るかもしれないが、失業する人間も現れる。これが人口が増加し、経済が拡大していた時代であれば失業者も救われたが、今はそうではない。逆に人口が減少していて、なお競争が激しく、苦しい状況となる。イノベーションが進んでも、モノの量がニーズを超過すれば、成長には結びつかない「重ね合わせていけない」わけです。(46回目「それは重ね合わせられないでしょ!」をお読みください)
 したがってイノベーションのレベルアップに「重ね合わせ低減係数」をかけなければ、全体の経済成長レベルにならないんじゃないか?というシュミレーションが図示するグラフであります。

  ①のイノベーションレベルについては最初に述べました。1850年から1950年までは加速度的に技術革新がなされました。その後は一定の割合で発展していると仮定します。

 ②が「重ね合わせ低減係数」の過程です。終戦により物資が欠乏した1950年からバブル崩壊までは、需要が需要を生み出す時代でした。経済は、技術進歩以上に発展したと思われますので、係数は増加します。バブル崩壊後、どんどん重ね合わせ低減係数は1以下となります。このまま人口が減り続ければ、下がり続けるかもしれません。

 ③は単純に①に②の係数をかけたグラフです。イノベーションレベルのグラフは図のように右肩が下がります。

 さて実際の日本の経済成長はどんなグラフになっているのでしょうか?GDP合計および生産年齢人口当たりGDPを図示します。似Photo
た傾向を示していると思いませんか?
 正直自分でも「おおっ!」と思うくらい③の成長レベル曲線とほとんど同じじゃん!!
 これは西暦2000年時点で重ね合わせ低減係数=1という想定であり、実は「低減」になっていない状態ですから、係数が1以下になればどんどん右肩下がりになるということになりますね。
 上記①②③のグラフはあくまで、定性的な「イメージ量」であり、定量的な話ではありません。 でもお話したいのは、ものごとの変化率を長期的に見ないと、状況を見誤るのでは、ということです。

<日本語の歴史から> 

 明治時代は1868年に始まりましたが、その頃、書き言葉は、基本的に漢文文化でした。これを、日本語として文章化しようとしたのは、夏目漱石正岡子規の努力ですね。
 司馬遼太郎によれば、誰が書いてもほぼ同じ文章を書くようになったのは、1955年頃週刊新潮などの週刊誌が創刊された時期だという。これも私たちが生まれる前の100年間に起こったことです。それを私たちは、ごく当たり前に、以前から存在していたもののように使っている。

変化を見誤らないために>

  今回はいつもと少し趣を変えて、「歴史」から、今の私たちの置かれている立場を考えてみました。私たちが若いころ、成長を享受できたのは、その前の100年間の人々の努力や試行錯誤のおかげだという事がよくわかります。
 そのうえで上記のGDPグラフの意味を、言い換えれば歴史が経験してきた変化の意味を考えないと、将来の方向を見誤りますね。