建築にまつわるエトセトラ

蛙(かわず)の見る空

リブ建築設計事務所 主宰山本一晃のブログです。

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう!その2

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう!その2
     -私は「何物」?-

<日大悪質タックル問題から>

記者の質問
「監督の指示がご自身のスポーツマンシップを上回ってしまった理由は何か?」

選手の返答
「監督・コーチからどんな指示があったにせよ、自分で判断できなかったことは自分の弱さです」

この問題に関するTBSテレビキャスターの松原耕二氏のコメント
「私がニューヨーク支局時代、ヤンキーススタジアムで野球を観戦すると、観客・選手・監督の間に「敬意」が感じられた。日大チームにはこの「敬意」が感じられない。」

 選手が自分で判断することを尊重する環境をつくるのは、管理者側の仕事ですから、これは選手のせいではないよね。個々の判断を尊重することを松原氏は「敬意がある」と表現した。これは意味深い話ですね。

イチローが日本に帰って来ない理由>

 この「敬意」の存在がイチローアメリカに引き留めているのだろうと私はひそかに確信しています。おそらく「記録」や「名誉」よりも「敬意」アメリカで野球を続ける楽しさに結びついているのだろう。

 日本の組織では、上からのコントロールが優先されて、間違っていると知りながら自分の意思で判断できないことはおそらく数多い。今、日大の選手と同じ思いを抱いているだろう方たち・・

 書類を改ざんしたり隠したりさせられる財務省防衛省のお役人たち、それを指示したり、ほのめかせたりした方たち・・・・

<そして私は「何物」なんだろう?>

 正論を声高に叫ぶのはたやすいですが、実行するのは難しい。正論だけでは「社会」と折り合いがつかないことも多い。それは「賢い」とは言えない結果になりがち。どう折り合いをつけるかは、一人ひとりが自分で考えないといけない。

 「何物」は学生達が就職活動という場で自己と向き合いながら、社会とどう折り合いをつけていくかを描いた朝井リョウ氏の小説です。

例えば

二宮拓人(主人公)
大学時代は演劇活動をしていたが、辞めて就活を始める。冷静な分析・判断ができるがゆえに、自分を殺して「就活用の演技」をすることにためらいがあり、なかなか内定がもらえない。他人のこれみよがしな取り組みに対しても裏では冷めた目で批判的に見ている。

A君(名前は無し
与えられた質問にユーモアを交え、人を引き付けながらそつのない回答ができる。無理をして「演技」をすることもなく「地」で就活できるタイプ。

小早川里香
留学経験や資格、委員活動など持ってるものすべてをアピールして就活に臨んでいる。まるでそれまでの活動はすべて就活に利用するためにあったかのよう・・ただ二宮に言わせると、「自分の意見はひとつもない」ということになる。

宮本隆良
「会社の考えに合わせて自分を変えたくない」と、就活しないこと宣言し、クリエーターを目指す。だが現実には、なかなか成果に結びつかない。

 自己との向き合い方の典型的な登場人物を挙げました。(これだけではありませんが)A君以外は、それぞれ悩みをかかえながら、就活に向き合います。二宮に言わせるとA君も「自己を持たない」という批判対象になるのだろうか?私はA君のように振る舞える人はある意味うらやましいと思う。(私にはできない芸当なので)

 私自身二つの事を思った。
 ひとつは、自分に対する反省。私はアルバイトしていた設計事務所に就職したので、きびしい就職戦線を知らず、彼らのような自己との葛藤を経験していない。その分「大人」になれずに社会人になっちゃったのではないだろうか?
 ふたつめは、若者に対する同情。こういう経験を通して、彼らは過度に社会に同調することを覚えてゆく。結果、先ほどの日大選手のように後悔する結果となるかもしれない。また社会に折り合いをつけることは「夢」を失うプロセスでもありますね。不必要な同調圧力が存在しない社会であってほしい!

<敬意の感じられる社会へ>

 今の与党と野党の間には「敬意」のかけらも感じられませんね。結果、まともな議論が成り立たず、道理が死ぬという結果になっている。
 なぜそうなるかというと、主導権を持っている側が、その権限を自分の「損得」のためにだけ使って、人をコントロールしようとするからですね。
 日大チームもそうであるし、就職活動も同じです。

 これを解決する手段のひとつは、主導権を持っている人間が、好き勝手に振る舞えないルールをつくるという方法。ところが多くの場合、ルールを変える権利は主導権側にしかない。これが問題ですね。

<ウオーターゲート事件の教訓>

 1972年、ウオーターゲート事件の際、アメリカは、大統領の犯罪を捜査するには、FBI等政権のコントロール下にある既存の組織では不可能であり、他に対応できる制度がないことがわった。その結果独立検察官」という制度を創設した。独立検察官は、大統領ではなく、司法長官が任命する。それに対してニクソン大統領は、司法長官を罷免する等して、自己のあらゆる権限を使って、事件の捜査妨害、もみ消しを試みた。これが明るみになって、弾劾裁判に結びつき、大統領が辞任することとなった。今も「独立検察官」の存在は、トランプ大統領に恐れを抱かせている。

 要は、アメリカは、最高権力者をチェックする機関がないことがわかれば、民主主義の危機だと認識して新たな制度をつくったわけです。逆に言えば、権力者はその権力を自分に有利に使いがちなので歯止めが必要だということですね。しかし多くの場合、そういうルールにはなっていません・・・コントロールする方の判断にゆだねられることになります。

<避難は自主的に>

 とにかく、人を無条件にコントロールしようとするのがどうも間違っていると思います。
 先日の豪雨では、私の住む地域にも「避難指示」が出ていましたが、「何から」避難させようということがまずわからない。OX川のどのへんの堤防が決壊しそうだと言ってくれれば、何が危険でどちらに逃げればよいか自分で判断できるのに・・・
 避難する側もいろんな事情があるので、とどまるべき人もおるだろうし、逃げたほうが良い人もいる。とにかく、そんな事情は無視して、こちらがのっぺらぼうな集団という見方で一方的に命令だけが来る。
 福島第一原発の事故では、放射性物質の移動方向が示されず、ただ逃げろと言うだけで、多くの人が無用な被爆をこうむりました。

<簡単な結論>

 コントロールする側はされる側に対して

①十分な情報を提供し、指針を理解できるようにする。
②個々の自主性と多様性を尊重する。


 この二つの条件を満たすだけで、実に多くの問題が氷解すると思う。
 スポーツであれ、会社であれ、組織の方針を理解して自分で発送しながらプレーするほうが、はるかに応用がきく動きができるだろう。これが先ほど述べた「敬意」の中身なんだろう。
 もう一つ付け加えていえば、「絶対に勝たねばならない」とか「失敗はゆるされない」といった考えが、人をコントロールしたがる方向に向かわせる要因かなと思う。とにかく勝ち組にならなければ生きていけないような社会ではないことが前提条件になりますね。・・・

 

 
 

 

 

 

 

 

 

59回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1

59回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1
     -コミュニケーション回避社会ー

<電車の中で>

 2017年10月23日、前の晩台風21号が通過した朝のこと。私は南海本線貝塚駅から大阪の難波へ向かいます。TVで正常運行していることを確認し、家を出たのですが、駅に着くと、その間に不通になっていた。
 こういう事故の場合、駅のアナウンスはだいたい要領を得ない。というか、この日は「ただ今不通です」という貼り紙をしているだけ。何の説明もない。しかたなく駅員に問い合わせると「めどが立たない」の一点張り。間違えてもよいから、いつごろ運転再開になりそうかくらい教えてほしいといつも思うのですが、答えてくれない。これでは待とうか、引き返そうか、判断しようがない。と思って周りを見渡すと、不思議な光景を見た!

 駅に着いた際から何か違和感があったのですが、まず人が改札の前に大勢溜まっているのにもかかわらず、異様に静である。よく見ればみんなスマホの画面を見ている。多くの人は、駅からの情報を期待せず、スマホで検索しているのだ!
 しばらくして、運転が再開されたのだが、その後違和感は増すばかり・・・再開直後は、各駅停車だけの運行でしたが、私は来た電車に何とか乗れた。駅に停車する度にそれまでずっと待たされていた人が乗ってくる。当たり前ですがすぐに満員になる。そうなると駅で待ってる人は乗れなくなる。
 満員といっても、もう少し奥の方に詰めれば乗れるのに・・・ドアの近くの人は詰めようとする気配もないし、積み残されそうな人も「もう少し詰めてください」とは言わない・・・

 以前は、そうしたやりとりが見られたのだが・・不思議で仕方がない・・・自主的な気配りとか、人にお願いするといったコミュニケーションがなく、とっても静かである。大阪でこうならば、東京ではもっと皆おとなしいだろうと思った瞬間、そういえばそういう光景をみたなあーと腑におちた!!!

  それは、東北大震災の際、海外メデイアが「災害時の日本人の冷2_3静さは賞賛に値する」と報道した右図のような光景!確かに多くの人はスマホを見ている!私の体験とそっくりなので雰囲気がよくわかる!とにかく異様に静かなんですよ。

 これを「日本人はすばらしい!」と自画自賛する向きもあります。たしかにわめいたり騒いだり扇動するような行動がないのは、ほめられてよい。ただこの種の報道で誤解を生みがちなのが、日本人のマナーの良さを賞賛するあまり、災害地で犯罪も全く起きてないような印象を与えるのは、実情に反しているということ。
 ただし、ここで問題にしたいのは、この点ではなく、「コミュニケーション不在」のほうです。この言い方も実は偏向している。災害時には水や食べ物を分け合う等、普段以上に助け合いが行われたのも事実です。この二面性を踏まえながら考えないといけません。

<若者と同調圧力

 今どきの若者は、「目立つ」ことをとても恐れるそうです。それは「いじめ」の標的になる可能性を意味するから。少々孤立するだけなら、その人間のキャラクターといえるとは思うのですが、今の時代は、孤立していると嫌がらせを受け続けることになるようで、それはつらいですね。
 結果として、空気を読みながら、自己主張せずに自分の役割を演じることが求められる。これを同調圧力としてストレスに感じる人間もいるだろうし、根っから上手に生きていける人間もいるでしょう。
 こういう社会(「学級」がその典型でしょうね。)を外から見ると、いさかいのない、うまくいってる社会に見えるでしょう。特に管理する側からはとても都合がよい。(学級の場合は先生ですね。)
 でも考えると恐ろしい。自己主張をしないことに慣れてしまうと自分の意見を持つことがなくなる。人の言うとおりに流されている方が楽だという考えになってしまう。

 実際この傾向は調査によって実証されている。
以下のデータは2016年8月「高校生の生活と意識に関する調査報告書」によっています。これは、日本・米国・中国・韓国の高校生の調査を比較したものです。詳しくは検索してご覧ください。
 この結果で、日本の高校生に顕著なのは、「自己肯定感」の低さ。例えばポジテイブな項目について、「自分の希望はいつかかなうと思う」「私は人並みの能力がある」については肯定的な回答が4か国で一番低い。涙ぐましいと思うのは、「友達に求めるもっとも大事なこと」については「思いやりがあること」を選んだ割合が四か国で圧倒的に多い。

 ここで思い浮かぶのは、他人のは反対してまで自分の意見を言おうという気概を持てず、「嫌われる」ことにおびえ、自分を疎外しないで欲しいと周りの友人に求める姿です。

 社会学者の宮台真司は、自己肯定感が低いと、「損得勘定だけにより」振る舞うことになる。この傾向は親や先生とのデイスコミュニケーションに結びつくことがわかっているそうです。

 30年ほど前に若者だった私には違和感だらけです。なんでこんな社会になってしまったのでしょう??

共感覚とコミュニケーション>

 もう少し宮台氏の説明を私なりに噛み砕いて詳しく述べてみます。
昔は社会に統一した価値観が存在したので、他人の事を自分の問題としてとらえる「共感覚」が存在していたが、コミュニテイーが崩壊し、個人が孤立すると、「きっと誰かがどこかで自分だけが得するようにうまいことやってるに違いない」という疑心暗鬼がうまれる。そうなるとコミュニケーションは成立しないし、コミュニケーションしようという意識もなくなる。
 
 電車の中の光景はその段階のお話であるのに対して、震災時に水を分け合ったお話というのは、自分も他人も困っているという「共感覚」が助け合いに結びついたという事例であり、実は正反対の意識だと言えますね。

京都大学の立て看板撤去のお話>

 京大名物であった、通り沿いの「立て看板」が全て撤去されたそうです。今の社会そのままの出来事やなあと思い、やれやれと思いました。
 私も1回生の折、高校の同期生と後輩の受験生のために応援看板を立てた。当時の漫画キャラクターの「タブチくん」がホームランを打ってる絵をかいて「たまには入ることもある」と文字をいれた。聞くところによれば、「こんな看板もあります」とニュースで紹介されたらしい。
 当時はこんなおとなしい看板だけではなく、特定の教授や学校側を糾弾するような看板であふれていた。今回撤去前の写真を見ると、そのような物騒な看板は影をひそめ、サークルの勧誘や、最も激しいものでも「原発再稼働反対」程度のものである。1_2
 これらは京都市景観条例」に違反するという名目で撤去されたそうです。その是非はともかく、違和感があるのは、学生の抵抗はほとんどなかったようだという事。記事によるとある団体の学生は「大学側の公認が取り消されると困るので自主的に撤去した」とか。とにかく自分たちだけが孤立するのは困るので粛々と体制に従うということですねえ。聞き分けのよい学生が多いわけです。権力側には無駄な抵抗をしないことはある意味「賢い」とも言えますが、なんとなく寂しい・・・

次回はそうした「若者の葛藤」について書かせていただきます。

 

 
 

 

 

 
 

58回目 比率6:4のむこう岸

58回目 比率6:4のむこう岸
      -多様性と安定性についてー

<比率6:4の話>

 前回、本年度の「社会意識に関する世論調査において「満足している(8.2%)」及び「まあ満足している(57.8%)」の合計が過去最高(60%)だったという結果に対して、現在社会制度や既得権益が守られていて、今の状態が続いてほしいという人達がそう回答したからではないかという説を紹介しました。その根拠の一つとして

正社員:非正規社員=60%:40%

という現実を紹介しました。これに類した数字をもう一つ挙げるとH26年の統計として全給与所得者において

年収300万円以上:年収300万円以下=60%:40%

というのもあります。貧困化が進み、この比率が逆転すれば、一気に社会は不安定になるだろうとお話ししました。
 実際、トランプ大統領の当選の要因として、中間層の貧困化が進み、特に白人の「負け組」が反乱した結果だと言われています。

<政権の安定性の話>

  さらに比率6:4のお話。

現与党(自民党公明党)が3分の2の勢力を獲得した第47回衆議院議員選挙の得票率

自民党公明党):(民主党+維新の党+社民党
=49.54%:30.67%
これもだいたい6:4です。

 あまり考えたくはないけれど、(でも可能性は高いと思いますが)与党が正社員、あるいは年収300万円以上の人達(=体制依存側と名付けます)の権益を守る政策を続け、その支持を得られれば、安定多数の議席を得られるという事になります。

 うーんこれは思い当たることが多々ありますねえ。トリクルダウン」なんかまさにこの考えによるものかも・・

2017年7月1日 - 安倍首相は東京都議選遊説で、聴衆の「 辞めろ」コールに対して「演説を邪魔する行為」と批判し、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言って激高した。これは「こんな人たち」というのは、4割は無視してもよいという考えを裏付けているのではと思ってしまいます。

 でも6:4の微妙なバランスですからいつ逆転してもおかしくはないような気もします。

<一億総中流時代の安定性>

 1970年代によく言われた言葉に「一億総中流というのがありました。内閣府の「国民生活に関する世論調査」において自らの生活程度を「中流」とした者は何と約9割に達しました。(ちなみに「中流」というのは自らを「中の下」「中の中」「中の上」と評価した人の合計です。)

 この時代を私達の世代は子供として体験しました。多分うちの父親は「中の下」くらいに思っていたのではないかと思います。
 実際には地域的に所得格差はあっただろうし、本当は今より当時の方が貧乏だったと思います。でも当時は近隣コミュニテイーが今より濃厚で、(うちが農家だったこともありますが、)皆同じような生活をしているという実感があったのがあったという要因がまずありました。サラリーマンは終身雇用制のもとで「会社コミュニテイー」を形成し、一体感をもちながら働いていました。もう一つの要因は、経済が確実に成長していたので、自分も少しずつ豊かになりつつある実感があったことが、そう思わせたのではないかと思います。

 当時「一億総中流」という言葉は、どちらかというと、自らを皮肉る調子がありました。でも今考えてみると、そう思えることはとてもよい傾向だったのではと思います。なぜかといえば

その①:自分たちが社会の中心に位置すると(錯覚もあったでしょうが)思えた。

その②:一体感のあるコミュニテイーが存在したということは、「他人の問題」を同じ立場にある「自分の問題」としてとらえることができた。

<画一性と多様性>

 では、皆が同じという「画一的」な状況が良いのかと言えば今は「多様化」の時代です。この流れは変わらないだろうし、むしろ望ましい方向性ですね。
 でも悲しいことに「多様な人々」が皆で議論をして、望ましい結果を導き出すという方法論が見いだせていない。結果、人と違う意見を持った人は孤立する方向になってしまいます。
 ということは、6:4の4のほうが6に増えても、孤立していれば変化は起こらないことになってしまう!

 ということは、とにかく勝ち組にすり寄っていくことが、自分を守るには一番良い手段だということになってしまいますね。

 これでは希望を見出せなくなってしまいます。とにかく「負け組」というものが存在するのがよくありません。孤立化してもプライドをもって生きていける世の中をつくることが先ということなのでしょうか?

<おわりに>

 この文章は夏の初めに書き始めたのですが、「希望のある結論」が見いだせず、ズルズルと年の暮れになってしまいました。

  この間、衆議院議員選挙もありましたが、上の構図はまったく変わらなかった。むしろ上でお話したように、まさに野党が孤立化して無力になる方向になりました。

  「6:4の構図」を考え出した際、この社会の悲しい構造がわかってしまった気がしました。私は明らかに4の方に居て、6のほう(アメリカの大統領選挙では「エスタブリッシュメント」という言葉が用いられましたが、まさにその内容です。)を眺めている立場です。

 「平均給与が上がった」というニュースで「世の中が上向いている」と思うのは間違いです。6の方の人たちの給与が倍になって、4の方の人たちの給与が半分になっても「平均」は上がります。これは「格差」が広がったことになるわけで、そういう内容は統計的に表現する手段があるにも関わらず、あまり大きくは語られない。そういう様子を見ていると、なにか騙されているような気がして、気分がめいってしまう年の暮れであります。

 
 

 

 

 

57回目 現在の社会に対して全体として満足していますか?

57回目 現在の社会に対して全体として満足していますか?
     -日本人の社会意識に見るヤレヤレな構造ー

<トランプ氏に喝采を送ってしまいそうな自分がいませんか?>

 アメリカのトランプ大統領北朝鮮に対して武力攻撃も辞さないという姿勢を表明している。これに対して日本の責任者が軽々しく「頼もしく思う」と発言するのは如何なものかと思いますが、一方、個人的には無責任に「やっちゃえ、やっちゃえ」と囃し立てようとする誘惑にかられることも確かですね。これは冷静に考えると避けなければいけない態度です。
 武器を持つと使いたい誘惑にかられる。これを他人が見ると、(攻撃対象が憎々しげに見える相手ならなおさら、)攻撃を期待してしまいそうになる。でもその結果は、何の罪もない人々に苦しみをもたらすというのが現実。先日実行されたアメリカ軍のシリア攻撃についても、命中率が半分くらいだったという報道もある。では命中しなかったミサイルがどうなったかは報道されません。どこかでとんでもない厄介をもたらしているかもしれない。
 2003年にアメリカがフセインを打倒するために行った戦争における民間人の被害者は推定数十万人にのぼるとも言われている。その事実はほとんど無視されている。人は自分に関係ない範囲では他人の痛みを無視できるという素地をもっている」というのが、今回のお話の第一の前提条件です。

<他人の不幸は幸福をもたらす?>

 東日本大震災の発生後、日本人の幸福度が上がったというデータがあるそうです。これに対して、同じような状況におかれた場合、欧米人の幸福度は下がる傾向にあるらしい。何となくわかるような気がしますが、そうであれば、日本人と欧米人の社会にたいする意識が異なるということですね。
 そういう場合に幸福度が上がるという人は、他人との比較の上で自分の幸福度を測る。他人が不幸になれば自分の位置が変わらなくても相対的に幸福度が上がるということですね。
 一方、幸福度が下がるという人は、社会は自分と一体であって、他人が不幸になれば、自分も不幸と感じるという話です。

 「日本人は、自分の幸福度を、他者との比較の上で感じる傾向がある」というのが第二の前提条件です。

内閣府の社会意識に対する世論調査の結果>

 4月9日に発表された内閣府の「社会意識に関する世論調査」において、社会に満足しているという回答が過去最高だっという報道がありました。これについて、不可解だということを前回「ポスト真実の生まれるところ」でお話ししました。やはり同様に感じる方たちが多いようで、社会学者さんたちがいろんなところで解説していました。その説明のひとつは、ストンと腑に落ちた! 

 もうすこし正確に把握しましょう。調査票を見てみると、この質問は、全部で15ある質問のひとつです。この質問の前には、「国を愛する気持ち」とか「地域とどう付き合っているか」とかいう質問があります。ちなみに調査員による面接調査です。このあたりの調査方法についてもバイアスがかかる原因となる疑いがありますが、とりあえず公正に調査が行われたという前提で考えましょう。
 質問は、今回のタイトルである、「現在の社会に対して全体として満足していますか?」という文章です。「満足している」と答えた人が過去最高の66%と報道しているマスコミが多いですが、内訳は「満足している」が8.2%で「まあ満足している」が57.8%ですこの合計が66%だというのが、正しい数字です。少し報道のイメージと違いますね。一方「満足していない」6%と「あまり満足していない」27.4%の合計が33.4%(≒33%)となっています。なので積極的に「満足」「不満足」と答えている人はわずかなのですが、ここでは「満足側グループ」66%「不満足側グループ」33%として話を進めます。

<なぜ満足側グループが優勢という結果になるのか?>

 ストンと腑に落ちたのは、中央大学の山田まさひろ教授の解説です。まず、「将来、社会がこういう姿になってほしい」という理想や希望があるならば、今の社会に対する不満点を多く認識しているわけですから、不満足度が高くなる傾向があるとのこと。これはとてもよくわかる。
   でも調査結果は逆の傾向を示しています。不満を持つ人は少数派で、「この社会は変わらなくてよい」と考える人が多数派らしい。
 では、「満足側グループ」に入るのはどういう人達でしょうか?それは、今現在社会制度や、権益にまもられているので、今の状態が続いてほしい考えている人達だそうです。
 ここで登場するのが「格差問題」。いろんな格差の問題がありますが、多くの人々が関係しているのが、非正規労働者問題ですね。

正社員:60%  VS  非正規労働者:40%

 これが今の現実です。非正規になることを恐れたり、非正規の人たちに自分の権利を渡したくないと考える今の正社員は、まさに上で述べた「満足グループ」に属します。

 今の日本社会における格差の拡大は、いまさら言うまでもない事実ですが、例えば非正規労働者とか下級老人とか子供の貧困とかに陥っていない人達が、今の社会制度や権益を変えてほしくないと答えたのが「満足側グループ」であり、66%くらいになるというのが現在の日本社会の構造であというのが教授の説明です。なるほどと思いました。

<質問をよく見てみれば・・>

 でもそもそも、質問文は「現在の社会に対して全体として満足していますか?」であるのに対して内容的には「自分個人の生活に満足していますか?」という質問と解釈して答えているということですね。わざわざ「全体として」という言葉を入れているのは「個人として」ではないという意味だと思うのですが。恵まれていない人に対しては無関心でいられる(先ほど述べた第一の前提条件)、自分が今恵まれていれば、他人より幸福だと感じる(先ほど述べた第二の前提条件)、と言う意識の結果として、こういう回答になるということでしょう。個人が社会全体を考えてもどうしようもないという無力感がそうさせるのかもしれません。
 私なんかは、社会のしくみの現実を知れば知るほど、矛盾が見えてきて、不満足が高まるのですが、そういう人間は疎まれるのがこの社会の構造なんですねえ。ヤレヤレ・・

<社会全体の安定性を考えるのは誰の役割?>

 高橋洋一氏は、多少景気がよくなっても天下り機関に国家予算が吸い取られていると指摘する。受信料でなりたっているNHK職員の平均給与は一千数百万にのぼるらしい。このまま制度や権益に守られている人たちが、それらを死守し続ければ、格差はどんどん開くでしょうね。ではだれがそのバランスをとることを考えてくれるのでしょう??

 

 今の政権の考え方は「日本を偉大にする」でありまして、一見勇ましく聞こえますが、これは上のようなバランスをとる方向性とは異なります。GDPを増やすためには、トヨタや三菱といった世界的な企業の収益があがればよいわけですから、そういうことには熱心に取り組む。トップ選手ばかりさらに強化すれば、日本として誇りが持てると考える。そう考えると平均以下の人たちは無視してもかまわない。そうやってどんどん格差が拡大する。トップの成績を多少下げても底上げをするという発想がなければ、バランスはとれない・・というのは算数でわかる程度の話なんだけど。

 

 こうして、今のところは、自分の利益が守られていると感じる人が、他人よりも相対的に幸福だと考えて、何となく社会に対して不満がないような結果になっている。でもそのうち、「満足側グループ」と「不満足側グループ」の数が逆転すれば、一挙に社会は不安定になるかもしれません。社会の安定を図るには、どうすればよいのでしょう?そもそも今が不満足であっても、将来に希望が持てる方がはるかに健全な社会であると思いますが、そのためには、どうすればよいのでしょうね?これは次回までの宿題にいたします。

 

 
 
 

 

 
 

 

 

56回目 ポスト真実の生まれるところ

56回目 ポスト真実の生まれるところ
     -道理か?あるいは現実主義か?ー

<お役人はなぜ議事録をちゃんと書けないの?>

 森友学園問題」「自衛隊スーダンPKO日誌紛失問題」「豊洲市場問題」。今巷をにぎわす話題に共通するのは「役人の記録が出てこない」という事実ですね。
 「都合の悪い(かもしれない)ことはとりあえず隠す。」ことにより自分の責任を回避しておくというのが大きな目的でしょうが、こういったことが慣例化することにより失うものはとても大きい。

 その①:「記録がいつかは公開される」という前提で仕事をするということは、今取り組んでいる仕事において、筋の通った結論を導かねばならないということにつながるはずだが、そうはならない。これが日本のお役人の状況。(アメリカでは文書は原則いつか公開されます。)

  その②:逆に常に筋の通った結論を導く役人にとっては、記録を残すことが疑いを抱かれない証明になるはずなのに、そうしないということは、お役人は筋の通した考え方をしないということなのでは?

 「記録を残す」ということは、「後の検証ために」というだけではなく「今正当な判断を行うために」という意味もあるわけですね。だから「記録を残さない」ことが慣例化することにより同時に役人の「筋を通して考える」という脳の回路を劣化させている!!

<「豊洲市場問題」はなぜ迷走するのか?>

 お役人はその地位にふさわしい学歴を有しているはず。なのになぜ道理を通した結論が導けないのでしょう?
 おそらくひとりひとりは、能力があるのです。でも組織やグループになると、おかしくなるのですね。豊洲の土壌汚染問題」なんかは、筋道がたてやすい話なので、例として取り上げてみましょう。

 まず筋道の話。

 東京都では専門家会議を組織して土壌汚染のついて検討し、4.5Mの盛り土が必要と結論づけた。少し調べてみると、この数字もPhoto御都合主義が含まれているようですが、とりあえずこの基準が、筋道を通して決められたという前提で話を進めます。であれば、この基準は以下の条件を読み込んで決められた「はず」です。

①その基準は、地下の土壌汚染が地表に及ぼす影響を、一定以下に抑制するための基準のはずである。
②そのため、まずは「一定以下」を判断するための「閾(しきい)値」決める。例えば「1万人に一人が健康を害する程度」といった具合。それ以下であれば「安全」と定義する。
③地下の毒物の濃度・分布を調査することにより、どんな土のがどの厚みであれば、地表が「閾値」以下におさまるかを専門知識により決定した。

本来は見込むべきだったのにどうも見込まれていない条件をあとふたつ挙げます。

④上記の意味で「安全」な状態は非常時にも保たれる基準とする。
 *どうも4.5Mというのは地震時の液状化対策には不足らしい
⑤同じ「安全性」を確保するために、「アスファルト」や「コンクリート」の場合の必要な厚みも算出する。

 早い話が①から⑤の条件が、技術的に確かな根拠をもとに決められていれば、あとは何の問題もなかったはず。これが頭に入っていれば、「築地はアスファルトで覆われているから安全で、豊洲はコンクリートだから安全でない」と知事が言っていましたが、これには厚みの数字を入れないと意味がないということがわかりますし、「地下水を飲み水に使うわけではないので問題はない。」という意見がナンセンスであることもわかります。
 「盛り土」してないことが問題ではなくて「盛り土」以外の基準が定められていないがために、こんな無駄な時間と費用が費やされている。そもそも4.5Mが何を根拠に決められているのか、ちゃんと記録して、役人の頭に入っていれば建物を建てる際にも正しい判断ができたはずですね。その判断をまたちゃんと記録しておけば今なにも問題になっていません。

<「ポスト真実」という名の利権>

 現実としてどうなっているか。小池知事は「そのうち『総合的に』判断する」とおっしゃっておられます。「技術的に判断する」とは言わない。専門家の「意見」を聞き、その他の関係者の利害を考慮して「政治的に裁量して」判断します、という意味ですね。その結果として自分の存在意義や権限を高められることになるわけ。技術的に判断すれば、自動的に結論が出るはずのですが、それでは利権にならないということなのでしょうね。
 というわけで、役人は議事録を「書けない」のではなくて、やはり「書かない」のでしょう。そうして筋道をはずした判断が許容されてしまう。残念ながら、マスコミや市民がそれを許してしまっている。
 そこにポスト真実が芽を出す土壌が生まれます。

 ポスト真実は2016年にアメリカの大統領選挙やイギリスのEU離脱に関する国民投票運動などから生まれた言葉ですが、そんなの日本には昔からあったじゃん!
 原発の「安全神話」もそうですし、原発がらみで言えばオリンピック招致のプレゼンテーションで安倍首相が「汚染水による影響は福島第一原発の港湾内で完全にブロックされている。」と語ったとき、私は唖然としましたが、翌日「嘘をついてオリンピック招致」と書いたマスコミは私の知る限りありませんでした。

<「その場しのぎ」か「道理を通す」か>

 二つの方向性がある。「その場しのぎであっても今が良ければよい。」という考え方と「今は苦労するかもしれないが、ものごとは道理に従って組み立てなければあとできっと困る」という考え方。

 前者を「現実主義」、後者を「理性主義」と名付けるとします。この二者の対比が鮮明になったのが、2015年の憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使を可能とする法案審議の際。磯崎首相補佐官は「憲法の法的安定性は関係ない。」と言って現実に対応することが優先する、と述べ、ひんしゅくを買った。しかし法案は数の力で成立した。日本は完全に「現実主義」の世の中です。莫大な国債を発行するのも、年金基金で株を購入するのも、他国は倫理上問題があるとして、自制していることがこの国では大手を振ってまかり通る。

  だからポスト真実については日本の方が先進国ではと思う。トランプ大統領に対してCNN等のマスコミは鋭く対立していますが、日本では政府の恫喝が効を奏し、忖度が広くいきわたってしまいました。さてアメリカのマスコミは今後どうなっていくのでしょうか?

<基礎があってはじめて高層建築が可能となる>

 いわゆる「リベラル」と呼ばれる市民を代表する人たちは「理性主義」の立場だと思いますが、一般にはなかなか広まらない。例えば前回の衆議院議員選挙で小林節の声はかき消されてしまった。
 リベラルの代表であるべき民進党は、「市民」より「労働組合」の組織票の方を向いたりして全く腰砕け。いったい「その場しのぎ」ではなく、百年後のこの国を見据えて道理の通った判断をしてくれるのは誰なのでしょう??

 そもそもいまだ「民主主義」が機能していないという実情を認識せずにこの国は民主主義だと皆が思っているところから、基礎ができていないのです。
 民主主義を成り立たせる3要件は
①透明性②参加③説明責任(アカウンタビリテイー)だという。今はどのひとつも不完全ですよね。
 でもこれらの要件が成り立って初めて国家権力を信頼できるわけです。これは反面教師として独裁国家の事を考えてみればよく理解できます。
 さらに言えばその民主主義のあり方を保証するのが、主権者としての国民が国家権力に「これだけのことは守ること」と義務付けている憲法ですね。これが近代国民国家の基礎の基礎です。
 にもかかわらず、「そうじゃない憲法観もありうる」と公言する政党が国家権力を握っているのですから、基礎がゆらいでいるわけです。その上に不安定な増築を重ねているのが今のこの国の現状であるのだろうと思います。 
 
教育勅語より民主主義教育>

 にもかかわらず、4月9日に発表された内閣府「社会意識に関する世論調査では社会に満足しているという回答が過去最高だったという。
 うーんどうなってるんや~これがポピュリズムということだろうか?あるいは井の中の蛙なのか?社会学者さんに解説して欲しいところです。おそらく「満足」と答えた人たちは「沖縄の人たちの苦しみの不合理」「福島のお百姓さんたちが除染されていない山で働かざるを得ない現実」のことは知らないのでしょう!

 ちなみに3月20日に発表された「世界幸福度ランキング」では日本2017は世界51位でとても低い。(右図参照)
 もちろん何を指標にランキングするかで、順位は大きく異なり、これとは異なる傾向のランキングもあります。
 この調査については、グラフの左から
()1人当たりGDP
()社会的支援
(黄緑)健康寿命
()人生選択の自由度
()寛容さ
()汚職の認知
(水色)その他の影響

 社会制度に関する項目が多いですね。そういうわけで上位を占めているのは北欧の福祉国家です。

 でもなぜノルウェーデンマークは格差を回避し、平等性を重視する社会制度をつくることができたのか?

 別に「民主主義の成熟度ランキング」というのもいろいろあるのですが、こちらはどのランキングでも北欧諸国が上位を占めます。これは<22回目 そもそも私たちの目標はなんだったのだろう>で詳しく述べましたが、これらの国々では、経済・社会活動に関する決定に人々が民主的に参加する仕組みが整っているので、その結果としてストレスの低い社会ができているようです。先ほどの民主主義の3要件の実現のための努力がなされてきた結果でもあるわけですね。

 先日官房長官、「教育勅語を容認するような発言をされていましたが、もうわけがわかりません。それよりも何よりも、子供たちに必要なのは、「人に迎合するのではなく、自分で物事の筋道をたてて考え、正しいことを主張できる能力を磨くこと」ですよね。そうでないと民主主義の基礎はいつになっても固まりません。

(「一身独立して一国独立す!」実は福沢諭吉がとっくの昔に言ってたことなんだけど・・・・)

 
 

 

 

 

 

 

55回目 「すいか」大好き!②

55回目 「すいか」大好き!②
     -「すいか」にまつわるエトセトラー

「すいか」の視聴率について>

 このドラマは向田邦子賞を始め、多くの賞を獲得している。反面、視聴率は振るわなかった。(平均視聴率8.9%)実際、奥さんや、知人と話題にしても、誰も知らなかった。ここはどういう事なのでしょうか?
 私も建築デザインを仕事としているのでわかりますが、自分の好みとはかかわりなく、「完成度が高い」「スキルが高い」作品であるというのはプロとしてわかります。「賞」というのは「好み」で与えられるものではないですから、その質の高さは証明されたと考えてよいと思います。それではなぜ多くの人の「好み」とならなかったのか?
 脚本家の木皿泉はその後「野ぶた。をプロデュース(以下「野ぶた」)で高視聴率(平均視聴率16.9%)を得る。これは「すいか」の低視聴率を反省してテレビ局側が、旬の俳優を起用した結果だとも言われている。
 反面、ドラマの放送から10年以上経た今でも、「すいか」の熱烈なファンが多数いるという。人によって深くはまってしまうということですね。ここに視聴率が振るわなかった訳が垣間見えると思います。

 「すいか」のテーマは前回お話したように、「自分の存在意義を問いかけること」です。「小林」は、34歳になって、結婚もせずに、平凡なOLを続けている自分から逃げたくて、もがいています。「ともさか」は、双子の姉妹の死を引きずりながら、売れないエロ漫画家から脱皮できない自分に悩んでいます。「小林」とは対照的に、踏み外した道から戻れないという思いを持っている。同じように日々自分と向き合っている人達にとっては、深く共感できるストーリーです。
 でも世の中を見ていると、そうでない人の方が多いというのはよく感じる。自分はこんな悩みを持っているんだという話をしても「そんなこと悩んでもしかたがないじゃん。」という反応が返ってくることは多い。私はそういう人たちは正直うらやましいなと思います。
 そもそもそんな私でさえ、40歳を過ぎるまでは、悩みはあっても深く気にはしていなかった。自分と向き合うという事は、例えば自分を鏡に映しだして、醜いところを直視するようなものですから、むしろそのような行為は避けてたような気がします。テレビを見るならそんな現実を意識させられるよりも、楽しい時間を過ごせる番組の方を好むのでしょうね。だから若者にとってはとっつきにくかったかもしれませんね。

<「木皿泉」の脚本について>

 木皿泉氏はその後の作品である、「野ぶた」では、上記のことを意識しているように思います。まず、若者のストーリーであるということ。実際氏は「十代の人のために、真剣に、わかりやすく、媚びずに」という態度で創作したと語っています。
 さらに、前回「御都合主義」のところで述べましたが、結構突飛な演出により「軽い」表現がされている。こうして「娯楽性」を高めたことも視聴率に結びついたのでしょうね。
 いささか、突飛すぎる出来事も起こるのですが、これはむしろ「すいか」を見た人の方がわかりやすかったりします。「ああ、すいかのあの場面を極端にしたんだな!」みたいな。
 これも氏自ら語っているのですが、氏にとって「すいか」は原点のようなもので「何があっても、あそこに戻れば大丈夫」という存在だそうです。

 「野ぶた」について付け加えると、「すいか」と異なるのは、登場人Nobutawoproduce物の印象が最初と最後で変化するところです。主人公の信子がいじめを乗り越えながら強くなっていくのはメインのストーリーですが、彰君などは、最初「うざい」奴だと思っていると、けっこう純粋な性格で応援したくなってくる。学校の担任の先生も「無気力な教師やなあ」という最初の印象が、結構、夢をもって教師をやっていることがわかってきたりする。

 氏の人物の描き方は、善人と悪人に分けてしまうのではなく、「人それぞれ事情があるんだ。それに流されてしまう弱い心を持ってるんだ」という思想ですね。ですので氏の脚本に完全な悪人は登場しません。「野ぶた」で信子に対して隠れて陰湿ないじめを繰り返していた女子生徒でさえ、そのうち馬脚を現して、あっさり罪を認めてしまう。面と向かっていじめを行っていた女子生徒も弱みをさらけ出して、逆に信子に説教されてしまう。

 こうして多様な人格が共存する道を探る。これは昨今、「絆」とか「一丸となって」といった言葉の裏で「多様な個性」が自由に発揮しにくい風潮に対するアンチテーゼであるのかもしれません。

<「ハピネス三茶」という包摂空間>

 「すいか」の舞台である「ハピネス三茶」はまさにこのような多様なPhoto_2個性を許容する器です。「こんな自分がいていいのでしょうか?」と嘆く「小林」に対して「浅丘」は、「いてよし!いろんなひとがいていいのよ」と心を開く。こうして「小林」も「ハピネス三茶」の一員となっていく。
 思えば、「ハピネス三茶」のメンバーは皆家族に問題を持っていたり、欠損家族であったりする。いわば疑似家族を構成しているわけですが、ここで不動の「母」の役割をしているのが「浅丘」ですね。家をとびだしたままの「ともさか」に対して「浅丘」は「ずっとここに居ればよい」といってなぐさめる。こうしてそれぞれ「自分の存在意義を見出す」ためには「一人でない事」が大切だということを実感していく。
 「小林」と全く逆の立場にあるのが、一人で逃避行中の「小泉」である。「小林」の生活を垣間見ながら、「小林」をうらやましく思い、「三億円盗んでも何もいいことはなかった」と心境を語る。

 余談ですが、シナリオ本「すいか2」(河出文庫には、「オマケ」として10年後の「ハピネス三茶」が描かれています。ここでは逆に「小林」が「浅丘」に「いてよし」という場面があります。十年後に皆がどうなっているかも含めて、お読みください。

<ライバルは1964年>

 最近ACジャパンの広告のナレーションがとてもいいと思う。「テレビCM]ではなく「ラジオCM」のほう。テレビのほうは「負けるな!」という命令口調でイマイチなのですが、ラジオの方はとても素直に聞ける。最後に「日本を考えよう」とあるが、ほんとに考えてほしいと思う。そうでないと今の日本は本当に生きにくい。「すいか」はこのことに対するひとつの回答だと思います。

(ナレーション:星野源さん)

おじいちゃんは、言っていた。
お金はそんなになかったけど、
笑顔はそこらじゅうにあった。
世界とはつながっていなかったけど、
近所の人とはつながっていた。

きっと、いまでもできるよね。

ライバルは、1964年。

2020年に向け、日本をかんがえよう

 

 

54回目 「すいか」大好き!①

54回目 「すいか」大好き!①
     -テレビドラマの話なんですけどー

「すいか」に出会った~!> 

 最近見たいTV番組がほとんどありません。くどくど言うと、うざいのPhoto_4で深堀りはしませんが、見ていて無垢な表現が見られない。不純な動機や不自然な誇張が目について仕方がない。今いつでも受け入れられるのは、「ローカル路線バス乗り継ぎの旅くらいかな?NHKのニュースなんて10分以上見てられない!深堀しないんだっけ!きりがなくなるのでこの辺でやめときます。

 いきおい、昔の二時間ドラマや映画なんかは安心できるので、よく見ます。ある日、「レンタネコ」という映画をやっていた。市川実日子さんという女優さんの演技が面白かった。そこでYOUTUBEで検索!(YOUTUBEは見たい物を選べるのでとても具合がよい。)まずマザーウォーターという映画を見た。共演の小林聡美さん、もたいまさこさん、小泉今日子さんとの組み合わせがとてもよい雰囲気を醸し出していた。この時点でおすすめ動画に「すいか」というドラマが表示されていた。

「すいか」に釘付け!>

 そもそもTVでドラマをオンタイムで見るという習慣はないので、TV 
ドラマに関心はなかった。まあためしに見てみるか~という感じで再生してみた。最初の5分で釘付けになった!!

 とにかくまず脚本が面白い。そのストーリーを表現する役者さん、Suika
登場人物のキャラクター、背景、音楽が面白い。この面白さをどう表現したらわかってもらえるでしょうか?落ち着いて整理してお話ししようと思います。

 まずはざっくり概要を。説明的なことは最小限にいたしますので検索してお調べください。登場人物の紹介はイラストレーターの亀石みゆきさんという方のブログのイラストがムチャクチャ楽しいので御紹介します。<http://fimpen.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/index.html参照>
 小林聡美演じる早川基子(以下「小林」)と、ともさかりえ演じる亀山絆(以下「ともさか」)の二人は、それぞれの事情をかかえて、「変えたくても変えられない自分」に悩みながら生きている。彼女らの迷いに対して道しるべを示唆する役割なのが、浅丘ルリ子演じる教授(以下「浅丘」)です。市川実日子演じる芝本ゆか(以下「市川」)はこの二人とは対極的な立場にあり、その若々しい感性によって、日々起こる出来事に素直に反応する。「市川」の感想を書きしるす日記が物語の語り手となって進行してゆく。

<面白さその①ー「つかみ」ー>

  私の体験の中で物語冒頭の「つかみ」の傑作として思い出すのPhoto
うる星やつらの初回です。地球侵略をたくらむ鬼族は、地球代表が鬼族代表に「鬼ごっこ」で勝てば、侵略をやめてやるという。なぜか高校生の諸星あたるが地球の命運をかけてラムちゃんと対戦する。
 赤毛のアンも導入部は印象的ですね。冒頭の面白さにひかれて物語にのめり込んでいくことになります。
 「すいか」の場合は、「小林」が「浅丘」や「ともさか」の下宿する「ハピネス三茶」に住むことになる過程がとても面白い。「小林」の同僚である、小泉今日子演じる「馬場ちゃん」(以下「小泉」)は、会社から三億円を横領して逃げまわっているのだが、「小泉」はハピネス三茶の面々と、様々な形で出会う。その事実を皆が共有するところとなり、「小林」は一挙に打ち解けていくことになる。
 例えば「浅丘」は、朝あわてて、「ハピネス三茶」と名前の入ったスリッパをはいて出て行ってしまうのだが、電車で座る「浅丘」の前に右と左で別々の靴をはいて出てきてしまった「小泉」が立っていて、お互いの履物を見て顔を合わせる。思わず笑っちゃう場面ですね。

 登場人物のキャラクターも「つかみ」にとって重要です。「うる星やつら」にも「たつねこ」とか「錯乱坊」とかいった、奇想天外なキャラクターが登場しますが、それを思い起こすようなユニークさ。上の亀石みゆきさんのイラストを見ていただくとわかりますが、「泥舟のママ」は「もう帰ってちょうだい」というのが、ただ一回の例外を除いて唯一のセリフですし、「馬場ちゃんを追う刑事」は刑事らしくない哲学的なセリフを話しながら、いつも「小泉」に逃げられる。

 ここまでの説明では、これは「ドタバタ喜劇か?」と思いますが、これらは物語のテーマを演出するために周到に用意されたパーツなのです。

<面白さその②ー物語のテーマー>

全体に流れるテーマは「自分の壁を打ち破れるか?」とでも言えばよいでしょうか?自分の存在意義を問いかけることだと言ってもよいと思います。時々発せられるセリフに「私はここに居ていいのでしょうか?」というのがあります。
 この基調旋律となるテーマに、一回一回の物語のサブテーマが重ねあわされる。例えば「今まで思ってもなかった事をやってみる。」とか「死んだ人との再会(これはお盆のサブテーマでした)」とか。
 この重奏したテーマがそれぞれの人物で同時並行的に進行する。こういうのを「群像劇」というのでしょうか。はじめはしっちゃかめっちゃかに発散しそうなストーリーは、様々な出来事を経て、折り合いがついたり、他人から助言を受けたりしながら収束してゆく。
 そのまとめとなる内容は、「頑張れば夢はかなう。」といった、ある意味楽観的で能天気な話ではありません。言ってみれば「自分とどう向き合えばよいか」という「悟り」「方向性の暗示」のようなものです。そう。この物語は深く、重い。どちらかと言えば私のような中高年のための話です。ドタバタ喜劇のような舞台設定は、これを少しでも軽く受け止められるようにする意図かもしれません。

<面白さその③ー御都合主義?ー>

 悪役に塀際まで追い詰められ、全体絶命!そこに運よく正義の味方が現れ、一件落着。こういうのを「御都合主義」と呼びます。
 「御都合主義」が必ずしも悪いわけではない。水戸黄門のラストが好きな人は多いし、フーテンの寅さんとマドンナの偶然の出なければストーリーは始まらない。でもこれが過剰になるとしらけてしまいますよね。その境界線はとても微妙です。
 「すいか」においても、偶然や非日常的な出来事や、時には超常現象(幽霊も登場します。)が出現します。これが結果的に、ドラマの質を高めている。これは、このドラマの主眼が、ストーリーではなく、テーマにあるからでしょう!様々な演出はテーマを描くための手段であるわけですね。刑事もののような「ストーリー展開」が主眼であるドラマで、不自然な作為的展開があればしらけますが、そうではないわけです。でも場合によっては、これはギリギリだな思う箇所もありますが、このドラマでは、うさん臭さは感じない。
 「すいか」の脚本は木皿泉によります。氏については、後で詳しくお話ししますが、氏のこの後の作品である「野ぶた。をプロデュース」や「昨夜のカレー、明日のパン」では、けっこうこの境界線を越えていて、現実のドラマというよりもファンタジーと言うべき作品となっている。その分、より「軽い」表現となっていますが、それはそれなりに意図があるのでしょうね。

<面白さその④ー映像でしか成立しない表現ー>

  このドラマの中では時折、瞬間的にイメージ映像が挿入される。例えばそれは、ストーリーの展開を暗示するものであったりする。またある場合は、ハピネス三茶の内部の場面がフラッシュ映像のように切り替えられ、その中には、少し先の展開でキーポイントになるアイテムが映されていたりする。
 これを小説の形式で表現すると「○○氏の頭には××の風景が思い浮かんだ。」となるのでしょうが、これでは説明的になってしまいます。映像であれば、説明なしに暗示的に表現できる。
 こういうのは映像でしか成立しない表現ですね。原作のドラマ化ではない、オリジナル脚本だからできる表現なのかもしれません。
 ほかにもビジュアル的に、見ているだけでも楽しい要素満載です。Photo_3
そもそも舞台となっているハピネス三茶はレトロな雰囲気でとても絵になる。「ともさか」や「市川」のファッションも楽しい。とりわけ料理を丁寧に表現していますね。視覚的な表現だけでなく、「料理をつくる」というプロセスが大事だというのは脚本家の意思かもしれませんね。

 「御都合主義」のところでもお話ししましたが、これは「テーマ」を表現するための手段であればこそ、生きてくる演出であり、そうでなけれ単なる趣味の世界になってしまう。多くの要素が連動してひとつの作品を作り上げていることが感じられます。

 次回はさらにしつこく見方を変えて、木皿泉という脚本家についてとか、ハピネス三茶の魅力とか、「すいか」にまつわるエトセトラについてお話ししたいと思います。

<つづく>